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ヤツらはただの「悪者」か(ジェームス・モンタギュー著『ULTRAS』感想)

南米の応援スタイルを下地としつつ、1960年代にイタリアで表面化し、そこから一気に世界を駆け巡ったサブカルチャー「ウルトラス」。日本にもいわゆる「ヨーロッパスタイル」の応援として輸入され、今やゴール裏文化の大きなピースとして欠かせないものとなっています。

世界中のサポーター自身はもちろんのこと、ノンフィクションライターや人類学者・社会学者に至るまで、全世界的なサブカルチャーとして注目されてきたウルトラス。ところがその世界に立ち入ろうとするとき、大きく2つの問題にぶち当たることになります。

一つ目は、そもそもウルトラスとは何者か(何なのか)という問題。応援団的な人の集まりを指すのか、そこで繰り広げられる応援スタイルを指すのか、それともそこに息づくメンタリティを指すのでしょうか。

二つ目は、そもそもウルトラスを知りたいと思った時、どのようにしてそこへ参与していくかという問題。当然外から見ているだけでは、この複雑怪奇なサブカルチャーを理解することはできません。しかしそこのメンバーと信頼を築き、集団の活動に関わり、時に危ない橋も渡りながら、最終的にそこで得た知見を外部へ発表する・・・そのハードルは果てしなく高いものとなります。

そんな二つの問題に対して、解決することはできなくともきちんと向き合ったのがジェームス・モンタギュー著『ULTRAS』(原題『1312: Among the Ultras』、田邊雅之訳、カンゼン)。

著者は一つ目の問題に対して、あえて定義することを避けつつ、圧倒的な事例数でその片鱗を浮かび上がらせようとします。地域だけでも南北アメリカ、全ヨーロッパ、北アフリカ、そして東南アジア。そこで暗躍する人々からは、情熱的なトポフィリア(地域に対する愛着)と、たとえ対峙するものが強大であったとしても、何もかも自分たちで決めようとするボランタリーな態度が垣間見えます。

一方で「定義」という一種の決めつけを徹底的に拒絶するのも、この本の役割と言えます。私たちがYouTubeで触れるようなきらびやかなコレオグラフィー、発煙筒、警察との戦闘といった目に見える部分だけでは、ウルトラスを何一つ理解できないことを、本当に痛いほど教えてくれます。

そして二つ目の問題には、時間をかけて信頼のおける協力者を得ていくことで、本当に見事と言っていいほど乗り越えています。この本でまず最初に目を通すべきは、もしかしたら謝辞かもしれません。登場する関係者を追っていくだけでも、サッカーの奥深さにいっそう触れていくことができると思います。

「スポーツは社会の写し鏡である」という言葉が、本書の文末に出てきます。スポーツの社会科学における常套句ではありますが、その言葉に従うとするなら、ウルトラスはグローバリゼーションが世界中に生み出した怪物です。
それは単に人と情報の移動という側面のみならず、クラブ・競技団体・メディアの肥大、観客に対する管理技術の輸出、反動的な排外主義などなど、まさにありとあらゆる側面に食い込んでいます。

ウルトラスやゴール裏と言った時、単に社会の暗部のような印象を持たれることがあります。しかし、世の中がそんな一面で片付けられることはありません。「決めつけられることなんて何ひとつない」という当たり前のことにただ圧倒されるのに、この本は打ってつけなのかもしれません。

アタランタの章で紹介されていた「イル・ボッチャ」のスタジアム入場禁止継続を受けて実施されたデモ行進。あるサポーターを見ているようで、とても人ごとに思えない自分がいました。

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