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Sさんとのビール

 社会福祉法人が運営している、就労継続支援事業A型の印刷工場のプリプレス部門で、日々仕事に明け暮れている。

 採用一年目、その仕事場でまだ訳もわからないままPCに向かって仕事をしていると、不意にぎしぎし、という音が聞こえることがあった。

 音に振り返ると、そこには決まって先輩の男性社員であるSさんの姿があった。
 その音は、Sさんのこぐ車いすがきしむ音だ。

 Sさんはボートをこぐように身体を前後に揺らしながら車いすをこいで、私の後ろ側にあるプリンタに近づく。プリントアウトされた用紙を取る時、Sさんは左腕で右腕の肘を支え、その両腕を震わせながらトレイから用紙を抜き取る。DVDをスロー再生しているように、その動作はゆっくりだった。

 仕事中だけではない。食事をするときもゆっくり。食器を持ち上げることができないので、上半身を曲げ、顔を食器に近づけ、少しずつ箸を動かしながら食べていた。Sさんは大柄な方だったので、そういう人が身をちぢこませて食べている様子は、事情を知らない人には滑稽に見えたかもしれない。

 他の先輩の話によると、以前のSさんは、こうではなかったらしい。

 車いすにも乗っていなかった。もちろんゆっくりではあるが、しっかりと立ち上がって歩いていたし、腕ももっと軽やかに動かせていた。仕事も早かったので、SさんのPC内の「編集中」のフォルダ内は常に飽和状態だったという。

 しかし、私がこの仕事に就くようになった頃には、すでにSさんは最初に述べたような状態へと変わっていた。

 詳しくは聞いていなかったから確実なことは言えないが、Sさんは多分、筋ジストロフィーのような難病を抱えていたのだと思う。

 その病は、私が入った後も、容赦なくSさんから力を奪い取っていった。

 棚の資料を取る時など、どうしても車いすから立ち上がらなければならない時があったのだが、そのたび転ぶようになった。それもつまづくといった生易しいものではなかった。立てた棒がそのまま倒れるかのごとく前のめりになるような転び方だった。顔がつぶれてしまうのではと思うほど、その様相はすさまじかった。そこから立ち上がる力もなくなっていたので、起こす時は職場の男性陣が総出で駆け付けるのが常になっていった。ほどなく、Sさんは車いすから立ち上がるのをやめた。両腕も動きが悪くなっていってしまったので、仕事のスピードも遅くなっていった。

 やがて限界を感じたのか、Sさんはそれから数年後、職場を退職した。

 Sさんとは、忘れられない思い出がある。

 新採一年目、私は当時職場の恒例だった研修旅行の旅行委員なるものに、あみだくじの結果選ばれてしまった。

 旅行委員なんてできないよ。
 うろたえる私は、おなじくあみだくじで選ばれたSさんに「どうしましょう」と泣きついた。Sさんは苦笑しながら、旅行業者との話し合いや見学先の選定、部屋割り、ホテルのトイレや風呂の確認など、どうすべきか私に適切な指示を出してくれた。私はひたすらSさんの言う通りに動きまわった。身体が思うままにならないSさんの代わりに、との思いもあったが、なんのことはない、そうするしかできなかったのだ。

 旅行一日目の夜、宿泊先のホテルで宴会がはじまった。

 とりあえずほっとした私は、Sさんに「なんとかここまでこれましたね」などとぬけぬけと言いながら、Sさんのグラスにビールを注いだ。「お疲れさんだったね」と、Sさんは穏やかに笑った。

 すでに酔っていた私は調子に乗り「Sさんは小さい時、どんな男の子だったんですか」とたずねた。するとSさんは、そうだねえ、と記憶を探るように小首を傾げてから、こんなことをぽつりとつぶやいた。

「これでも小学生の時は、運動会のハードル競走で軽やかに跳んで一等賞を取ったんだよ」

 Sさんは穏やかに笑ったまま、注がれたビールを飲んだ。左腕でグラスを持った右腕の肘を支えて持ち上げながら。

 私はなにも言えないまま、中身のなくなったSさんのグラスにビールを注いだ。その後自分のビールを飲んだ。苦かった。でも、すごく美味しかった。

 ――――――――

 社会人1年目の私へ。

 Sさんが退職して、もう短くない年月がたちました。
 今でもあなたはおなじ仕事場で働いています。
 あれから腎臓が壊れ、体調を壊し、休むことも増えるようになります。

 それでも、まわりの方たちの支えもあり、なんとか働いています。

 あなたに伝られることを考えてみましたが、正直あまり有益なことは思い浮かびませんでした。

 あるとすれば、たったひとつ。

 あなたはこれから、時々Sさんのことを思いだすことになります。

 筋力が衰えても、すさまじい転び方をしても、車いすになっても、体の限り、残った力を一滴、半滴まで振り絞り、最後の最後まで働き続けたSさんの姿を。そして、Sさんと飲んだビールの味を。

 そのことだけが、今の私に伝えられることです。

いただいたサポートは今後の創作、生活の糧として、大事に大切に使わせていただきます。よろしくお願いできれば、本当に幸いです。