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元来、茶道は『SNS』であった!- ㉘

 写真は、東京国立博物館で展示されていた「大井戸茶碗 有楽大井戸」。「高麗茶碗の雄、大井戸の名碗。枇杷色の釉、裾の梅花皮(かいらぎ)、竹節の高台といった井戸特有の表情を見せつつ、穏やかで気品すら感じさせる点がこの茶碗の魅力」との説明書き。織田信長の弟の織田遊楽斎が所持していた。
 ところで最近やっと「茶道は、もともと男性の物だった」と言う意味が理解できるようになった。
 鎌倉時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代と茶道は、その裾野を広げていった。元々は貴族や僧侶のものだったが、それが武士に広がり、やがて商人にも広がり庶民の中へと広まっていった。
 安土桃山時代の堺の商人の「茶会記」を見ると、茶会が頻繁に行われ、出席者の顔ぶれも時代を彩るそうそうたるメンバーだったことが記録に残されている。政界、財界、軍閥、宗教界、芸術界。
 茶会は当時の情報交換の場所だった、と言うことが茶会記からうかがえる。そう言う視点でみると、当然と思えることが多々出て来る。
 逆に、茶会以外にクロスオーバーで当時の情報交換できる場所というと、考えられるのは宗教的な集まりか、政治的な集まりか、軍事的な集まりだろう。それぞれ偏った分野の人が集まっていたであろうことは、想像に難くない。
 そのような時代だからこそ、お茶会にはあらゆるジャンルの人が、茶を楽しむと言う名目で、お呼ばれしていたのだろう。商人にいたっては二日と開けずに茶会に出席していたことが「茶会記」の記録に残されている。その記録の内容たるや茶会の「釜、茶碗、花器、出席者、配置、etc、エトセトラ」である。それらが詳細に書き残されている。
 詳細な茶会の記録からは、当時の人々が茶会に注いでいた情熱のほどが、計り知れないものであったことが伝わってくる。それくらいに、当時の茶会には大きな意味があったのだろう。
 茶会にはいろんなジャンルの人間が、お茶を名目に集まり、そこでは諸国の勢力関係の情報も語られたであろう。それにともない為政者や軍事関係の情報が飛び交い、さらには、どこで鉄砲の需要が生まれ、どこで食料の需要が発生し、どこでどんな物資が不足しているかなどの情報が飛び交う。そして地域の有力者の間では、新たな寺の建立のための絵画の需要の情報はもちろん、有力者の武士の家で屏風が必要だとか、貴人を呼ぶための部屋の襖絵が必要だとか、障壁画だとか。そのために、どこの何と言う絵師が素晴らしいといった情報も交換されていたであろう。当然、時代を代表する茶人も絵師も連歌師も、陶芸家、書家も茶会に名を連ねるようになる。
 当時の茶会はまさに政界、財界、軍閥、宗教界、芸術界と全てのジャンルの人たちが集まって、情報交換が行われる重要なメディアとしての機能を担っていたと想像できる。
 となると、男たちはこぞって茶会に出席するために茶道を習う。また自分の所で茶会を開こうと、道具を集めるようになったであろう。自分で茶会を開けるということは、それだけの経済力がなくてならないし、人脈も同時に広くなければならない。
 茶会を開けるということは、その人物の力量の宣伝になり、力を誇示し、その人物の影響力の強さを広く知ってもらうことにもなる。そして、集まった人々によって多くの重要な情報がもたらされる。一石二鳥どころか三鳥、四鳥くらいの効果が得られたのだろう。
 さらには、茶会を開く名目として、
「実は、いい茶碗が手に入りましてね。お披露目したいので、ぜひ今度うちの茶会にいらしてください」
 といったことになるだろう。
「前から狙っていたいい茶釜が手に入りまして」
 とか。
「いいお軸が手に入りまして」
「見事な襖絵が届きまして」
 などなど。何かにかこつけて、茶会を開こうとする。それらは全て政治活動、経済活動、軍事活動、宗教活動、芸術活動に関する新しい情報を得ようとする、名目という訳だ。
 古文書として残っているお茶会の記録を見る限り、想像以上に頻繁に行われていたことがわかる。当時の社会にあって茶道は国を治め、経済を動かす原動力となっていた。現代でもちょっと前に言われた「料亭政治」みたいに。
 次の時代の情報交換ツールはバーチャルのSNSよりも、「リアルの茶道」という波がやってくるかもしれない。再び「御茶湯御政道」が復活するかもしれない。そうなると上昇志向のある男女はこぞって、茶道にはまっていくことになるのだろう。

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