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現在280枚! 一年の茶道が、沢山の物語を与えてくれた……

 長谷川等伯を書こうと決意して一年半。そのために茶道教室に通い始めて一年。現在400字詰め原稿用紙換算で、280枚。物語は佳境に入ってきた。
 なにせ、今年の年頭に「国宝 松林図屏風」を東京国立博物館で見て以来、その作品に秘められた数多くの謎に、毎夜、うなされながらの創作活動だつた。それでいて毎日楽しくて、ドキドキしながら暮らすことができた。周囲の人とも茶の湯の話や、日本画や禅語の話を通して、より深く繋がることができたように思える。私の一方的な片想いかも知れないが。

 能登と関わりのある話ばかり書いている。第一弾は「七つの龍の尾根」、第二弾は「籍姫」。そして今回の第三弾は「長谷川等伯」。全て、つながっている。そして次の第四弾も、すでに話が重なりながら、その片鱗をのぞかせている。まるで次の小説を予言するかのように、「長谷川等伯」の中に散りばめられている。

 今までの2作品は、歴史を見返して資料を探すことで、なんとか書き進むことができた。しかし、今回は頼りにする古文書が少ないこともあり、いろんな意味で新しい試みを実行しながら主人公を浮き彫りにしていく方法論で、書き進めて来た。

 方法論の一つとして「虚心坦懐」(きょしんたんかい)で、我が心の目で等伯の絵と対峙する。そのことはたとえばロッククライミングの時に、手をかけるわずかな岩の凹みや小さな出っ張りを探しながら攀じ登る時のような気持ちである。探し当てた小さな岩の出っ張りや凹みに、どの方向から手をかければ良いのか。力のかけ方は右からなのか左からなのか。はたまた、押し上げるようにするのか、垂直に下に引っ張れば安定するのか。わずかに目に見えたものを手掛かりに、すこしづつ書き進めて行くような作業から始まった。
 国宝「松林図屏風」と対峙した時、まさに国宝が国宝たる所以を皮膚感覚で理解したように思えた。それと同時に大きな衝撃も受けた。国宝は国宝になるだけの魅力を本当に持っているんだと、体全身で感じた。大きな収穫だった。

 以来半年あまり、集められるだけの資料を集めた。見ることのできる資料は、片っ端から目を通した。それらの単調な作業を続けるためのモチベイションを支えてくれたのは、茶道の先生だった。

 先生からは厳しくも優しい言葉や態度を示していただき、その度に「察する」ことを通して、多くを学ばせていただいた。それらの一つ一つが、次なるモチベーションを燃え上がらせてくれた。掛け軸を通して、香合を通して、花を通して。また、茶杓や棗の名前の付け方からも。それらの全てが、小説を書き進めていく上で重要なファクターになった。

 小説は事実を積み上げて、大きな嘘をつく創作。小さなリアリティーを重ねて、大きなバーチャル空間を作り出して行く。そういう作業である、と信じている。

 目の前で繰り広げられる茶の湯のお点前は、私に沢山の素材を与えてくれた。人の動きから見える心の移ろい、色香、喜怒哀楽。

 ある日、茶道の先生が、

「茶人には、意地悪な人が多い」

 と漏らしたことがある。確かに、知っていて知らぬ振りをしていたり、人の所作一つ一つに評価の目を輝かせていたり……。ウザイばかりである。しかし、それほどにまで茶の湯とは、一つ一つの物事に「察する」ことをいちいち要求する場所である、と感じた。

 400字原稿用紙で残り最低でも30枚分の、ハラハラドキドキの楽しみが残されている。あとひと月あまりで、書き終えるだろう。それが終われば、次の荒野がすでに垣間見えている。

 一本の小説を仕上げるために新たな人と出会うだろうし、沢山の個人的なストーリーをも残してくれる。それは小説の創作とは違う、もう一つの作品である。

 すでに次の荒野は、始まっている。


創作活動が円滑になるように、取材費をサポートしていただければ、幸いです。