見出し画像

等伯と久蔵の障壁画が秀吉の子、鶴松を弔った祥雲寺にあった意味

 安土桃山時代。京の都に、豊臣秀吉と淀殿との間の子、鶴松の菩提寺として建立された「祥雲寺」というお寺があった。その話を今書いている「長谷川等伯」の小説の中にを登場させるのだが、困っている。このお寺の細かい部分が、全くわからない。
 実はこのお寺には等伯と息子の久蔵、そして長谷川一派が手がけた沢山の絵が、壁や襖を飾っていた。そのうちの何点かは現存しているが、どのように祥雲寺の壁や襖を飾っていたのかは、全くわかっていない。それらの絵は、長谷川等伯とその息子・久蔵の生涯の中で最も重要な位置を占めている絵画だったと思われる。
 現在、京都にある智積院という寺の前身は鶴松の菩提寺だった、その祥雲寺である。秀吉が作って彼によって滅ぼされた智積院に、豊臣家を滅ぼした徳川家康が、この寺を与えた。よって智積院には、長谷川一派の手になった絵が随所にあった。しかし、寺は何度も火災にあい、その都度、僧侶たちが大切な絵を救い出した。そして、その一部が現在まで残った。それらは現在の、智積院の宝蔵に残されている。火災に何度もあっているため、詳しい絵画の配置が全くわからなくなっている。祥雲寺建立の頃のことを思うと、その内部は豪華絢爛で素晴らしいものだったのだろう。
 祥雲寺の方丈を飾っていたと思われる絵は智積院に残る記録によると、かなりの枚数あったようだ。残っている金泥障壁画の中で等伯作と言われている「楓図」、そして久蔵作といわれている「桜図」は、いずれも国宝に指定されている。父の等伯は当時五十三歳。息子の久蔵は二十六歳である。しかし、運命は皮肉なもの。長谷川派の将来を嘱望されていた久蔵は、絵が完成した翌年、急逝する。彼の死は、狩野永徳を筆頭とする狩野派に謀殺されたとの説もある。物語としては謀殺説の方が動きがあっていいが、真実はどうなのだろうか。そこも、私なりの推理で一応、書き上げた。。
 大先生方に触発されて、志を新たにした。その結果、自分で脱稿を一年先に、延ばした。あと一年、悩み続けなければならないかと思うと、ちょっと後悔先に立たずだが、楽しもうと思っている。


創作活動が円滑になるように、取材費をサポートしていただければ、幸いです。