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日常と史実を時間と空間を越えて繋ぎ、生きる力を覚醒させる

 タイトルには「日常と史実を結びつけ、生きる力を覚醒させる」、そんなエッセンスを散りばめる様に気を付ける。更に最近気にかけるようになったのはストーリーの面白さに加え、笑いを散りばめる事である。そうしてエンターテイメント性にも気に配ることにした。
 しかし、ストーリーはなんとかなったとしても、笑いはどうすれば表現出来るのか。思いつくのは古典落語である。ここにヒントを見出す事以外に方法は思いつかない。
 それができる様になれば、自分自身、新しい境地を切り開くことができるだろう。
 と、そんなことを思いながら、俵屋宗達の資料を読み込む日々。もう、資料を読み込み始めて半年余りが経とうとしている。その間、小説の冒頭の部分を少し書いた。そのあと、御水尾天皇の話を少し書いた。さらに最近は、本阿弥光悦と千少庵、そして宗達の絡みを書いた。こんな風にバラバラと、思いついたシーンを、思いつくままに書きなぐっている。こんなことで、四百字詰原稿用紙換算で三百五十枚を書き上げることができるのだろうか。応募するつもりでいる文学賞の規定では原稿用紙300〜600枚となっている。とりあえず、最低限を目標にして気持ちへのプレッシャーを軽減して、書く意欲を削がないように心がけている。心がけているとは、都合の良い言葉である。

 今回選んだ「俵屋宗達」は、資料を読み進むに連れて思っていた以上に難問度が高まっていく。どう処理していいかわらない問題まで出現した。その問題は後回しにしないと、進めなくなってしまいそうだ。
 さらに方言についてもそうだ。
 浅田次郎先生と方言について話をした時のことである。
「作家の中には、その土地の方言を無視して全てを共通語で書く人がいるけれども、私はその土地の方言で書くようにしている。それは、方言の持つニュアンスを通して、できるだけその土地の雰囲気を味わってもらうために」
 そんな意味のことを話していたように思う。すると私の場合は、舞台の大半は京都になるから、京都弁を駆使しないといけないことになる。うーん、かなり不可能に近い。しかし、できる限り、その雰囲気に近づけていくように努力している。
 そうすることによって今を生きる人々と、当時を生きていた歴史の中の人々とを、時間と空間を飛び越えて繋ぐことができれば、本当に素晴らしいのだが。


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