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人はおのれを美しくして、初めて美に近づく権利が生まれる…… 岡倉天心著「茶の本」

「茶道のインプット」は茶室でのお稽古だとしたら、「茶道のアウトプット」はなんだろうか、としばらく悩んでいた。得た答えは「お茶会を開く事」だと言うことに辿り着いた。
 そうなると、思考回路を雑誌の編集者時代に戻すと考えやすい。
 お茶会はメディア。大切なのはコンテンツ。
 テレビ、インターネット、本、新聞などメディアの形態が沢山ある様に、お茶会の種類も沢山あると思う。問題は雑誌のポリシー。そして、それに見合った表紙のデザインは最も重要だと思う。さらに、どんなコンテンツ、どんな記事が載っているのかである。それらによって情報発信者、つまり亭主の評価が別れるのだろう。
 お茶会が雑誌だとしたら、まず大切なのは茶会のポリシー。そして表紙に当たる掛軸。床の間の掛け軸には、どういうテーマをもって何を読者に訴えるのかが凝縮されている。さらに、具体的に中身のページ割りはどうするのか、ということになる
 男性総合週刊誌であるならば、読者をお迎えする巻頭のカラーのページは、やはり若い女性の際どいカットのカラーグラビアのページは外せない。次は、タイムリーなネタの一色グラビア。そして、目次が入って、トップの記事。ここは政治か財界大物のスキャンダル。次はタイムリーな事件の記事。その次は芸能・プロスポーツのスキャンダル。次は、連載歴史小説。そろそろ漫画を入れて、とアイデアが湧いてくるのだが。
 それが、お茶会のコンテンツとなると、どうだろうか。
 そう考えると私が通っている茶道教室の、昨年開かれた「大寄せ」の茶会のお道具立が、どう言う意図でそろえられたのか、見えた。
 その日の床間の掛け軸は、
「古今無二路」
 だった。この掛け軸は教室の先生が、先代の家元から頂いたものだとか。その時、先代は次の偈を添えて、新たな旅立ちで不安になっている先生を励ましたと言う。
「達者共道同」
 大丈夫、私達も一緒に歩くから、と。
 そこで、やっとその日のテーマは「師弟」だったと言うことに気付いた。
 そして、主客に出された「井戸茶碗」は、東京国立博物館の前の陶芸部門の責任者をなさっていた方から頂いた物。その他、数々のいわれのあるお道具が使われた。まさに、それらは弟子の旅立ちと道中の奮闘を励ましてくださった先達たちの思いが詰まっているお道具の数々だった。
 その日のお茶会は特別な意図で構成された茶会だったのだが、普段の茶会だったら、どう構成していくのだろう、と思った。
 まず、①季節はいつ
    ②テーマは何
    ③導入部分の掛け軸は何
 茶道が形を成した時代の、原点に立ち返って考えてみる。まず、安土桃山時代の社会的地位の高い人たちの一般教養は「源氏物語」や「古今集」「新古今集」に「万葉集」、さらには「禅語」。その中から、お茶会の主題となる和歌、もしくは言葉を選ぶ。すると、そこから派生したストーリーによって、その日の全体のしつらえが浮かんできて、その雰囲気を醸し出すお道具が決まってくる、という訳だ。
 さて、招かれる側としては、基礎教養として上記の知識がないと、主人が今回の茶会で何を表現したかったのかが、全く見えない事になる。
 茶道においてこのような主人と客のやり取りを前提とするならば、茶道を嗜む者にとって上記の古典文学や禅語は、茶道を目指す者の基礎教養として知っていた方が、ベターということになる。
 言っておきたいが、知らなくても茶道の楽しみ方は、他にも沢山ある。実体験である。そのことを理解する糸口がある。それは岡倉天心の「茶の本」で解かれている次の一文である。
「着物の格好や色彩、身体の均衡や歩行の様子などすべてが芸術的人格の表現でなければならぬ」
 とある。お茶を点てるお点前はもちろん、茶室の中での身体の動きの全てが芸術でなくてはならない、としている。
 古典文学については浅薄な知識しかない私ですら、いまの段階でも茶道は結構、楽しい。
 もし、基礎教養の古典をある程度身に付けることができなくても、次の目標は、これである。やはり「茶の本」よりである。
「人はおのれを美しくして初めて美に近づく権利が生まれるのであるから。かようにして宗匠たちはただの芸術家以上のものすなわち芸術そのものになろうと務めた」
 とある。となれば、茶道においては、私自身が見た目も存在も芸術になることを目指さねばならないということなのか……。
 できれば、素晴らしい!

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