コンビニ

夜の道を、ぼくは一人で歩いている。晩に食べるものが見当たらなかったから、面倒だったが、コンビニへと向かわなければならなかった。六月の生温い風が、肌を撫でている。暗闇に飲み込まれようとするかのように、ふらふらと横に揺れながら歩いていると、ぼくのすぐ横を、自転車がスピードを上げて過ぎ去っていった。自転車に乗っていたのは若い男で、すれ違いざまに、迷惑そうに軽く舌を打った音が聞こえた。そんな彼の後ろ姿を、ぼくはぼんやりと見つめることしかできない。男の身長はぼくよりもかなり高く、顔も整っていたように見え、それゆえに申し訳ないとは思わなかった。それに、明日の朝になれば、男もぼくも一瞬の出来事など、忘れているはずだった。

一つ咳をして、ぼくは歩調を早める。コンビニは、マンションから歩いて数分ほどのところにあった。ちょうど書いていた小説も行き詰まっていたことだし、と自分に言い聞かせるようにして、足を前に運び続ける。そうしているうちに、前を歩いていたらしき一組のカップに追いついた。酒でも入っているのか、仲睦まじげに肩を抱き合ったり、あるいは突きあったりしながら笑っている。彼らにぴったりな拷問はなんなのだろうか、といかにもくだらないことを、ぼくは真剣な顔つきで考えている。逃げるように視線を上へ向けても、月は出ていない。空が雲に覆われているのか、あるいはビルによって光源が塞がれているのか。少しだけそう考えたけれど、別にどちらでもよかった。カップルの笑い声が、ぼくの鼓膜を小さく震わしている。ぼくはすぐに、拷問のことに思考を戻す。彼らは苦しみの中でも、ドラマで見るように愛を誓い合うのだろうか。だとすれば、いったい、拷問を受けているのは果たしてどちらになるのだろうか。無防備に後頭部を晒しているカップルはきっと、背後を歩くぼくという存在に気付いていない。赤を示している横断歩道の手前で、ぼくはちゃんと立ち止まる。その向こう側に、コンビニはあった。

反対方向に進んでいくカップルに対して、ぼくは心の中で別れを告げる。ぼんやりと佇むぼくの数十センチ先を、様々な色の自動車が駆け抜けていった。ここで数歩、前に出さえすれば、ぼくは死ぬことができるのだろうかと思ったが、そんな勇気が自分にないことは、とっくの昔にわかっていた。それでも、とぼくは空気を呑みながら、一歩だけ前に出てみる。目の前を、車が無関心に通り過ぎていった。窓の向こうに見えた運転手は、私の方を見ることもしなかった。本当に馬鹿馬鹿しいと思い、怒るような、それでいて可笑しいような気持ちになった。ややあって、歩行者信号が青に変わる。ぼくは、白と灰の縞模様の上を、ひとりで歩く。

たどり着いたコンビニには、ぼく以外の客がいなかった。土曜の夜ともあれば仕方ないか、と静かに思う。休日の夜を共に過ごす相手も、あるいは家で料理を作ってくれるような相手も、残念なことにぼくは持ち合わせていなかった。男女の笑い声が、幻聴として耳元に立ち現れる。何食わぬ表情をして、ぼくはカゴを手に取り、弁当の並ぶ棚へと向かう。味がそこそこ良くて腹が膨れれば、あとはどうでもよかった。たまたま目に入った、揚げ物と白米の並べられた弁当に決める。カゴを持つ右手が、わずかに重たくなった。他の客は、誰一人として入ってこない。ふと、自分だけが、このコンビニというあまりにも小さな世界に閉じ込められたような感覚に陥る。しかし、それならばそれで構わないと思った。この空間に留まっていられるのであれば、ぼくを取り巻いていた様々な問題は一気に解決することになるだろう。そう思って微笑んだ次の瞬間に、ドアが静かに開く音と、いらっしゃいませ、という店員の声とが聞こえてきた。ぼくは、いかにも何を買おうか迷っている雰囲気を醸し出しながら、眉をひそめ小さく舌打ちをする。

コンビニの新たな訪問者は、萎れたスーツを身につけているサラリーマンだった。見るからに労働後の彼を横目に、ぼくはジュースのずらりと並べられた棚へと向かう。コカコーラを手に取り、カゴに入れた。隣の棚にあった酒も目に入ったが、酔うとすぐに眠ってしまう性質なので、今日はやめておくことにした。他に買っておくものはないものか、と店内を物色していると、陳列された種々のスイーツの横に、パック詰めされた球体を発見した。球体は透明で、パックの圧力に押しつぶされるように、その身を歪めている。パックの表面には商品名を示すラベルが貼られており、そこには”不幸”と書いてあった。”不幸”はやはり人気が無いのか、この時間に至ってもずらりと顔を並べている。”不幸”は、どうやら生モノらしい。明日には廃棄される、このぶよぶよした球体たちは、いったい誰の所にいくのだろうか。

”不幸”のすぐ隣には、薄くピンクがかった球体がひとつだけ、居場所を間違えたかのように鎮座している。商品名は”幸福”。値段は、税込みで538円。ぼくがその棚の前に立ち尽くしていると、「……すいません」と言いながら、先ほどのサラリーマンが近寄ってくる。空虚な目をした彼は、ぼくを牽制するかのように素早く手を伸ばし、最後の一つだった”幸福”をつかんだ。彼は気味悪く口元を歪めながら、

「もしかして……あなたもこれが欲しかったんでしょうか……でも、残念……今はもう、これは僕だけのものです………………僕はねぇ、これを食べないと、生きていけないんですよ……食べてしばらくしたら消化されて、便所に流される程度のものだと知っていても…………でも、食べるしかないじゃないですか……だって、そうしなきゃ……とても……とても、生きていけないでしょう……何かを口にして生きるってのは、生物に課せられた宿命ですからね…………それに……これはすごく……この世のものとは思えないくらいに……美味しいですし…………そうでしょう……ねぇ……?」

と告げる。ぼくはその言葉を聞きながら、男の細長い指に強く押し潰されている、薄いピンク色を見つめていた。あのカップルにふさわしい拷問は、この指にいやらしく潰されることなんじゃないか、とぼくは思う。ぼくは、男の顔へと視線を向けながら、

「……いや……別に……ぼくはそれが欲しいわけじゃないんで……だから、お気になさらず、どうぞ」

と答える。するとサラリーマンの男は、再び醜い微笑を作り、レジの方へと向かっていった。その後ろ姿を見送った後で、ぼくは雁首を揃えてこちらを見ている”不幸”の一つを手に取る。パック越しに触れたそれは冷たく、ぼくの手にぴったりと吸い付くかのように、ひどく馴染んだ。なぜかは分からないが、銃を手にした人間は、このような感覚なのだろうと思った。”不幸”をカゴに追加したぼくは、ゆっくりとレジに向かう。ぼくが店員の前にカゴを置くと、ちょうど、サラリーマンの男が店から出ていくところだった。彼は一度だけこちらを振り返り、勝ち誇ったように口元を歪めていた。幸福の入った袋を大事そうに抱える男の背中が、現実よりもひどく遠くにあるように見えた。

「……あたためますか?」

唐突に、その声が聞こえたので、ぼくは少しだけ慌てて店員の方を振り返る。 

「あたためますか?」

眼鏡をかけた中年の男が、ぼくのことを見上げるようにして尋ねてくる。弁当のことだろうか、とぼくは一瞬思ったが、しかし店員の彼が手にしているのは”不幸”だった。

「……それ、あたためるものなんですか」

「……ああ、失礼いたしました。私はてっきり、幸福の方だと思ってましたので……暖かいのは、幸福だけでいいですもんね……お弁当の方はどうしましょうか?」

「……大丈夫です」

ぼくがそう答えると、男は微笑を浮かべ、商品をレジ袋に詰め始める。

「……でも……珍しいですよ……」

「……何がです?」

「わかりませんか……不幸を買っていかれる方は、ほとんどいないんですよ……正直、私にも不幸を買う人の気持ちが理解できません……だって……美味しくないじゃないですか……前に一度、口にしてみたことがありましたが……私にはどうも無理でした……身体が受け付けなくて、すぐに吐き出しちゃって……しかも、吐いたにもかかわらず、その後三日間も寝込んだんですよ……いやぁ……あれは、辛かったなぁ……変な夢は見るし、死んだ方がずっとマシだと思って……それで、本当に首を吊る寸前までいったんですよ。ビニールの紐で輪っかを作って、それで首にかけようとしたのですが……そこで我に帰りまして……ふふ……あの時は……惜しかったなぁ……」

店員の男は、小さく笑った。

「……でも……あなたは、これを今から食べるんでしょう…………あなたみたいな人がいるから、不幸はいつまでも棚に並び続けるんですよ……不幸のクセして、幸福の何倍もの値段がするのに…………すごいなぁ……もしかして、美味しいと感じるんですかね?……だとしても、私には理解できませんよ……私の体はもう、幸福しか受け付けてくれないんです。そのおかげで太ってしまいましたが……最近、結婚したばかりなのですが、妻にも体型について文句を言われましてね……それでも、不幸よりはマシでしょう……?まぁ、今のは全て、私の独り言です……忘れてください」 

そう言い終わると、彼はレジ袋をこちらに差し出してくる。ぼくは金を払ってから、袋を受け取って店員に背を向ける。「またお越しくださいませ」という声を背に受けながら、ぼくは自動ドアの向こうへと足を踏み出した。外は暗いままで、風が肌に纏わりついて離れない。その空気を吸い込みながら、ぼくは逃れられない現実と、レジ袋に潜む球体とを感じている。月は、やはり空に浮かんでいなかった。

首元を掻きながら少し歩いたところで、行きの時と同じ信号に引っかかる。周囲に車の姿は見えなかったが、ぼくは横断歩道の手前で立ち止まった。信号の赤が、ぼくの身体を、世界に晒すように照らしている。道路に落ちていたビニール袋が、風に乗せられて闇の中に飛び去っていった。ぼくはレジ袋の中から、買ったばかりの”不幸”を取り出す。パックを剥いて中身を取り出し、小さく揺れるそれを掌で包んだ。球体は、全ての温もりを拒絶するかのように冷たかった。周囲には、人の気配がない。信号は、未だに赤を示し続けている。等間隔に並んだ電柱は、道の果てまで続いており、ぼくのことなど気にも留めずに佇んでいる。夜の見守る中で、ぼくは”不幸”に歯を立てて嚙みちぎり、口に含んだ。そうしながらぼくは、書きかけの小説の続きを考えている。一部が欠けた手中の”不幸”は、澄みきった月のように見えた。美味しいかどうかは分からなかったが、しかしその光景は、確かに美しいと思った。

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