深夜の目覚め 午前2時45分
うたた寝していると、こんな時間に目覚めることが時々ある。
ソファは危険だ。これはある種の凶器だ。
鑑識によれば、ソファは第一級の睡眠導入剤らしい。
そんなもの危険物が堂々と一般家庭に普及している現況は、いかがなものかと思うが、陰謀論者によると、これもまた、政府の仕業らしい。
何のために?
国民に風邪を引かせるためなのか?
それならば由々しきことだ。
身体を大切にしなければならない。
ひとまず深夜に目が覚めたら、元号について考えていたのは森鴎外らしいが、そんな高尚なことはできないから、お湯を沸かすことにした。
ラッセルホブスでお湯を沸かしながら、ぼんやりとしていたら、肩を叩かれた。
びっくりして振り返ると、にこにこと笑顔の伯父さんがいた。
びっくりさせないでよ。
びっくりしてないじゃないか。
びっくりしてるんだよ、これでも。
そうか。
死ぬかと思った。
死んでないぞ。
ものの喩えだよ。心臓が止まるかと思った。
心臓がないのにか?
だから、ものの喩えだってば。
そういうことか。てっきり心臓が戻ってると思ったぞ。
戻るわけないよ。取り上げられたんだから。ところで、今日はどっから現れたの?
無からだ。
はいはい。
はいは一回だと何度言ったらわかる。
無からなんて、伯父さん宇宙なの?
まあ、宇宙みたいなものだな。
無からは何も生まれないって言うよ。
なんだ。形而上学か?ちゃんと生まれておる。
で、どこから入って来たの?
天井からだ。
天井…⁈あ!板がない!
気にするな。
いや、気にするよ。
心配するな。
いや、心配するよ。雨が降ったらどうするの?
ここはマンションで最上階ではない。だから雨漏りはせんぞ。
だから、ものの喩えだってば。
わがままな奴だな。
伯父さんは手をひらひらさせた。
天井板が現れた。
あ、直った。
ありがとうございますは?
ありがとうございます。
良きに計らえ。
伯父さん、早くない?
何が早い?
いや、出てくるのが。
出てくるのが?
いや、物語に登場するのが。
登場?
そう。物語に登場するのが。いや、別に良いんだけど。
予定調和は壊すことに意味がある。
そりゃそうだけど。
何してる?
お湯沸かしてるとこ。
そうか。だったら俺にもくれ。
何を?
お前と同じものだ。
ウイスキーのお湯割りだよ?
ウイスキーのお湯割りは、俺の4番目に好きなものだ。
そんな言い方されたら、3番目や5番目が気になるでしょ?
気になるのか?
気にならないよ。1番目も言わなくて良いよ。
そうか。つまらない男だな、お前は。
はいはい。つまらない男だよ。これ、どうぞ。
あちち。グラスが熱いぞ。
お湯割りだからね。すぐに口つけたら熱いよ。
はいは一回と何度言ったらわかる。
はいはい。
お前は言われたことを守ってない。
そう?
ソファでうたた寝するなとあれほど言うとる。
仕方ないよ。
何が仕方ない。
疲れてたんだよ。
疲れてたら何をしても良いのか?
何をしても良いなんて言ってないよ。
だったら、そんな言い訳はやめなさい。
はいはい。
はいは一回にしなさい。
で、何しに来たの?
甥の可愛い顔を見に来ただけだ。
やめてよ。気色の悪い。
気色の悪いとはなんだ。気色の悪いとは。
こんな時間に?甥の?顔を?
そうだ。時間というのは貴重だ。命の次に貴重なものだ。
それはそうだけど。
お前はそんなに貴重なものを無駄にしとる。
相変わらず痛いところを突いて来るね。
痛いところを突くのが仕事だからな。
仕事のために来たの?
これは仕事ではない。言ってみればボランティアみたいなものだな。
さっき、可愛い甥の顔を見に来たって言ったよ?
お前は人の揚げ足を取る癖がある。
いやいや、揚げ足じゃなくて。
人は誰でもミスを犯す。
そうだけど。伯父さんは人じゃないけど。
可愛い甥の顔を見るというボランティアだ。
甥に会うのはボランティアなの?
好意だ。
好意ね。
それより、お酒が足りんぞ。
はいはい。
はいは一回にしなさいと何度言えばわかる。
どうぞ。
おっと、なみなみと注いだな。
たっぷりと入ってるよ。
この琥珀色の液体は何と言う名前だ?
ラフロイグ。
なかなかうまい。後で俺にプレゼントしなさい。なぜ、うたた寝などしたのだ?
疲れてたんだよ、多分。
疲れてたらベッドで寝なさい。
わかってるよ。
わかっとらんから、ソファで寝とるんじゃないのか?
そうだね。
素直でよろしい。
素直にもなるよ。もう丑三つ時だよ?
丑三つ時には何かあるのか?
いや、別に何もないけど。
だったら、素直になるには理由など何もない。
そうだね。
お前は寝ないのか?
寝るよ。
だったら早く寝なさい。
寝るよ。伯父さんが帰ったら。
俺に早く帰れと言うのか?
そんなことは言わないよ。ちょっとは思ってるけど。
薄情な奴だな、お前は。だが安心しなさい。これを飲んだらすぐにいなくなる。
なみなみと注がなきゃ良かったな。
自分がしたことの後悔はよしなさい。反省ならしても良い。
伯父さんに尋ねたいことがあるんだけど。
何だ?何でも訊きなさい。
これって夢なの?
現世は夢。夜の夢こそ真。と言われとる。
それ、江戸川乱歩でしょ。
本当のことだ。
じゃあ、これってどっち?
お前が夢と思えば夢だ。真と思えば真だ。
なるほどね。
この前、お前は旅に出ると言うとったな。
うん。
出とらんじゃないか。
出てるよ。
家にいるじゃないか。
旅に出てると思えば出てるし、出てないと思えば出てないことになるんだよ。
なかなかやるな。意趣返しだな。
そんなんじゃないよ。伯父さんの言う通り、人の思いとはそういうもんかなって。現世も夜の夢も。
だから今は旅に出とるというわけだな。
そういうこと。
よしよし。良い子だ。
子供扱いするのはやめてよ。
何を言う。お前はいくつになっても子供だ。
伯父さんから見たらそうかもしれないけど。というか、伯父さんから見たら、誰もがそうだよ。千年以上生きてるんだから。
桁がひとつ違うぞ。
え?そうなの?一万年も生きてたの?
前世を入れるとそうなる。
前世なんてあるの?
ちゃんとある。
やっぱり悪魔だったの?
いや、違う。
まさか、人間?
アノマロカリスだ。
!…って、それ節足動物だよ。しかもカンブリア紀の話だよ?
そうだ。アノマロカリスとして長いこと暮らしておった。楽しかったぞ。
しみじみ語らないでよ。遠い目もしないでよ。5億年前の話だよ?
たかだか5億年前だ。だから、千年なんてひよっこだ。
それはそっちの世界の話でしょ。
人間の世界も変わらん。
億年って、今時、小学生でも使わない単位だよ。それに、そもそも千年なんて生きられないし。
生きられないのか?
生きられないよ。
鶴は千年亀は万年というぞ。
だからものの喩えだってば。
そうか。
そうだよ。
儚いな。
儚いよ。
それは素敵なことだな。
うん。素敵なことだね。
だからこそ時間を大切にしなさい。さてと。帰るとするか。
さようなら。
まだ、そのセリフは早いぞ。早く追い出したいのか?
そんなんじゃないよ。
安心しなさい。すぐにいなくなる。
そう言って伯父さんは煙のようにいなくなった。言ったことは必ず守るところは伯父さんらしいと思った。
天井を見上げると、さっき伯父さんが入ってきたところに、入り口、と墨で書いてあった。
いつの間に書いたのか。やっぱり伯父さんは憎めないなと思った。
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