雨の日の水溜りで遊んだのはいつの頃だろう【3】
見知らぬ女性の写真が添えられていた手紙は、今、机の上にあった。
僕は腕を組んでそれを見ていた。
手紙には、あなたのことを知っています、とだけ。
他には何も書いていない。
これで、僕に何を伝えたいのだろう。どうして欲しいのだろう。どうもして欲しくないのだろうか。
この写真の女性が、僕のことを知っているというのだろうか。
それとも、この写真の女性と、僕を知っている人とは、同一人物ではないのだろうか。
何もわからなかった。
あれこれ思案しても仕方ないから、人探しが得意だと謳っている探偵事務所に、片っ端から電話をした。
状況を説明して、その写真に写っている女性の身元を調べて欲しいと話したが、それだけではわからないと言われた。
大手も、個人でやってそうな探偵事務所も、結果は同じだった。
僕は静かに受話器を置いた。
机の上の紙を手に取った。
明かりに透かしてみた。
何も浮かんでこなかった。
匂いを嗅いでみた。
微かに何かの匂いがあった。
僕は何だろうと思った。
目を閉じて記憶を辿った。
夜間飛行のようだった。
昔々、僕は自分の特技を活かして、調香師になろうとしていた。
僕は匂いには敏感だった。
目を閉じて匂いを嗅いで、記憶を辿ると、なんとなく、夜間飛行のように思える。
これに、何か意味があるのだろうか。
僕は封筒の消印をもう一度みた。
地方都市の名前。
名前は知っている。
行ったことはない。
見知らぬ街。
何も思い出せない。
そこに行けば、何か分かるというのだろうか。
僕のことを知っているという人物。
今それは、葉子と、謎の人物だけだ。
その人物は、ひとりなのか、ふたりなのか、それ以上なのか、何もわからない。
そもそも、本当に僕を知っているのかもわからない。
今の僕にとって、僕の過去、それが半年前だとしても、知っているのは葉子だけだった。
僕は葉子に電話をかけた。
しばらく待ったが、出なかった。
僕は受話器を置いた。
葉子は、どうして僕のことを覚えていたのだろう。
今まで、他にそんな人はいなかった。
僕は部屋の中を見渡した。
殺風景な部屋だと思った。
家具付きの独身者用賃貸マンション。
自分で用意した家具や電化製品などは、ほとんどなかった。
備え付けの、お仕着せの、家財道具は、僕の境遇を表しているように思った。
葉子は、僕の質問に、くすくす笑っていた。
「覚えているかって、おかしなことを仰るのね」
「そうですね…変なことを伺ってしまって…ただ、覚えているってすごいなって…」
「覚えていますわ。私が入社した時ですもの。印象に残っています。おぼつかない私に、いろいろと教えてくださったのは、あなたですのよ?」
「ああ、そうでしたね。そうでした…。僕も覚えていますよ」
「でも、どうしてですの?」
「何がですか?」
「覚えているかって…」
僕は、この説明のつかない状況を話したくなった。でも、言ったところで、どうなるというのだろう。今まで、たくさん嫌な会話に終わった過去のことが思い出された。
「なんとなく…葉子さんとお話ししていて、初々しかった葉子さんのことを思い出して、ふと」
「初々しかったなんて、お恥ずかしいですわ」
「すぐに、いろんなこと吸収されていましたね」
「教えてくださった方が、お上手だったからですわ」
彼女は恭しくお辞儀をした。
「いえ、それは葉子さんが優秀だったからですよ」
僕もお辞儀をした。
「さてと。そろそろ休憩も終わるので、戻りますね」
「はい。私も戻ります」
僕は葉子の胸の名札を見た。
その苗字はどうしても読めなかった。
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