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雨の日の水溜りで遊んだのはいつの頃だろう【4】

仕事が休みの時は、図書館に行くことが多かった。

人の記憶はリセットされても、僕の図書カードはリセットされないことを知ってから、時間があれば、図書館に行くことが多くなった。

マンションから歩いて10分程のところに、公立の図書館がある。

中央図書館と違って、こじんまりとした図書館なのも気に入っていた。

図書館では、決まって百科事典や図鑑を読んで過ごしていた。

子供の頃の記憶は、あまり思い出したくないが、家の書架に百科事典があって、それを読むのが好きだった思い出がある。

心のどこかに、それを懐かしむ気持ちがあるのだろう。

その日、僕はいつものように、図書館に行くと、真っ先に百科事典を手にすることはなく、貸し出しカウンターにいる顔見知りの司書に話しかけた。

顔見知りと言っても、それは僕だけの話だから、相手にとっては初対面だ。

「よろしいでしょうか?」

「どうしましたか?」

「知らないことを知りたいなら、どうしたら良いのでしょう?」

彼は豊かな白髪を後ろに撫でつけていて、金縁の眼鏡をかけていた。その眼鏡を少しなおしながら言った。

「何をお知りになりたいか、によると思いますよ」

「知識ではないのです」

「…」

彼は手を組んで、身体を乗り出した。

「知りたいことは、自分を知る人のことなんです」

「その人は、お知り合いなのですか?」

「いえ…それが、見ず知らずの人なんです」

彼は腕を組んで、解いて、カウンターに置いた。

「ここで、それがわかるかも知れない、と思われたのでしょうか?」

「ここで、それがわかるかも知れない、と思ったわけではないのです」

「では?」

「写真を持ってきました。古い写真です。この人物の背後に、街の風景が広がっています。この街が、どこなのか、それを知りたいのです。不躾で大変失礼かと存じますが、街の風景などに詳しい人や、機関、お店、組織や会社、なんでも構いません。教えて頂くことはできないでしょうか?」

初老の司書は、僕から写真を受け取ると、じっと見ていた。

それから、僕を見返した。

「国土地理院というのはご存知ですか?」

「はい」

「ひとり、知り合いがいます」

「はい」

「その人物は…友人でもあるのですが、この国の風景で知らない場所はないのでは、と思えるほど、どんな場所も、それこそ、誰も見向きしないような山から見た風景や、田舎の畦道すら、通暁しています。一種の奇人です」

僕は頷いた。

「そんな人が」

「そんな人が、この世の中にはいるのです」

僕は頷いた。

「ご紹介いただけないでしょうか?」

「良いでしょう」

「ありがとうございます」僕はお辞儀をした。

「ただ、まだ仕事をしなければなりません。閉館時間に改めてお越しいただけますか?」

「申し訳ありません。お仕事中に、お手間を取らせて、ご迷惑をおかけしました」

僕は深々とお辞儀をした。

「ああ、どうか、お気になさらず。良いのです。これも仕事のうちです」

「ありがとうございます」

彼は目くばせした。僕の後ろに、本を借りようとして、中年の女性が立っていた。

「すみません」僕はその女性に言って、その場を離れた。

司書との会話は、今日しか保たない。そう思いながら、この後のことを考えた。


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