雨の日の水溜りで遊んだのはいつの頃だろう【8】

一番古い記憶は何だろう。

僕は目を閉じて思い出す。

岩の上だ。

海の中に立っている岩。

僕はその上に座っていた。

一体どんな記憶なのだろう、と思う。

周囲には誰もいない。

少し離れた堤防の上には、釣り竿や釣り道具、青いクーラーボックスなどが無造作に置いてある。

記憶、思い出、色褪せたイメージ。

僕は瞼を開いた。

人の記憶は、何千回、何万回とリセットされてしまっているから、その記憶の内容を問いかけても、答えてくれる人は、いない。

僕はその記憶を心の奥底に閉まった。

僕だけが直線を動いて、周囲の人は動いては後戻りしてを繰り返して、僕だけが走り去っていく一本の矢だった。

子供の頃の話を葉子にしたら、くすくすと笑っていた。

そう言えば、あの頃の僕の友人は、家の前の坂道を下った途中の近所に住んでいた、あの女の子だけだったような気がする。

あの子の名前は何といっただろう。

明子?明代?どっちかだったように思う。

葉子と明代は似ている。時々、そっくりだと思う時がある。

いや、本人ではないかと錯覚することがある。

あの子が成長した姿は、今の葉子と重なる。

葉子は明代なのか?と問いかけたい気持ちが湧き上がる。

でも僕は尋ねない。

尋ねた瞬間、この夢が覚めるような不安を感じているからだった。

葉子が明代なら、僕は嬉しい。

明代が葉子なら、僕は嬉しい。

ふたりは同一人物でなくても、僕にとってはどうでも良かった。

葉子は唯一、僕のことを覚えていてくれる人なのだから。

僕は目を閉じて、もう一度、記憶の中に沈んでいった。

岩の上の記憶には触らなかった。

それより前の記憶を探った。

犬がいた。

雑種のようだった。

大きさは僕と同じくらい。

2歳の男児と同じくらいの犬だった。

僕はその犬のことを「ドリ」と呼んでいた。

生後間もない仔犬の頃から飼っていたように思う。

僕とドリはいつも一緒だった。

ドリはいつも僕の傍にいた。

僕はドリと一緒に眠るのが好きだった。

ふわふわの毛。ほんわかとする温もり。ドリは僕を包んでくれていた。

そんなドリは、ある日ぱっといなくなった。

そんな経験は、僕の人生で、後にも先にも一度もなかった。

最愛の対象が、唐突にいなくなった。

心の準備も何もできなくて、ただ、いなくなったということを、呆然と受け入れていたように思う。

受け入れることはできなかった。

無理矢理力付くで口をこじ開けられて、この世の中で、最も苦くて、最も塩っぱくて、最も辛い食べ物を押し込められた、と思った。

僕は蹲り、胃が飛び出るんじゃないかと思うくらい吐いて、泣いて、鼻水を垂らして、げえげえと嘔吐と嗚咽で蹲り続けていたように思う。

僕は目を開けた。

止めようと思った。記憶を遡るの。

僕はぼんやりとしていた。

視界に靄がかかっていた。

「大丈夫?」

何処からか、葉子のような声が聞こえた。

何度か瞬きをして、視界を鮮明にしようと努力した。

「大丈夫?」

葉子はもう一度囁いた。

心配そうな葉子の顔が目の前にあった。

細い眉、二重で黒目勝ちな眼。瞳がうるうると潤んでいた。

僕は自分の部屋の安楽椅子に座ったまま、うとうととしていたようだった。

僕は手を伸ばして、葉子の頬を触った。

葉子は眼を閉じて、僕の手をそっと両手で包んだ。

「大丈夫ですよ」僕は言った。

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