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ライデン瓶について、後編2:避雷針と凧

フランクリンの電気実験といえば、やはり凧揚げ実験が有名でしょう。

ミュッセンブルーク達もライデン瓶の電気ショックを雷に例えていたように、電気現象と雷の類似性は以前から誰もが感じていたものの、まだ確かな証拠はありませんでした。

かくして、雷雲に揚げた凧でライデン瓶をチャージし、雷の正体が電気であることを証明するという、この危険な実験が行われた正確な日時は不明ですが、1752年6月のことであったとされています。

フランクリンは既にその数年前から、高所に設置した尖った棒で雷雲の電気を誘導する「避雷針」のアイデアについて、手紙に書いたり、出版もしていました(下図IX)。ただ当時のフィラデルフィアには条件の合う高い建物がなかったため、実験環境を整えることが難しかったのです。凧を使ったのは苦肉の策とも言えます。

Benjamin Franklin, Experiments and Observations on Electricity, 1751.

ついでにいえば、フランクリンはこの「フィラデルフィア実験」(駆逐艦エルドリッジのあれとは無関係)の最初の実験者ではなく、フランスのトーマス=フランソワ・ダリバール (1703-1779) が、フランクリンの著書に基づく避雷針の実験を、1752年5月10日にパリ近郊のマルリー=ラ=ヴィルで成功させ、雷が電気であることを実証しています。しかし1752年6月の時点ではフランクリンはそのことをまだ知りませんでした。

Les Merveilles de la science, 1867-1891, Tome 1.

フランクリンの凧揚げ実験についての報告は、実験からだいぶ経ったはずの1752年10月19日に、フランクリン自身が発行していた新聞である『ペンシルベニア・ガゼット』に、なぜか匿名で掲載されたのが初出です。

10月19日、フィラデルフィア

高い建物などに立てた尖った鉄の棒を使って雲から電気を取り出す「フィラデルフィア実験」の成功について、ヨーロッパからの新聞では盛んに言及されているが、同じ実験がフィラデルフィアで、下記のような誰でも試すことが可能な、より簡単な方法で成功したことは好事家には朗報かもしれない。

まず軽い杉の木片2つで、大きな薄い絹のハンカチの四隅に届くぐらいの小型の十字架を作る。ハンカチの隅を十字の端に結べば凧の本体ができる。これに尾、ループ、紐を適当に取り付ければ、紙で作ったものと同様に空中に揚がる。嵐の雨や風で破け難いことが絹の利点である。

十字の縦の棒の上端には、先の良く尖った針金を、木から1フィートかそれ以上になるよう固定する。手に持つ側の麻紐の端には絹のリボンを結び、麻紐と絹のつなぎ目には鍵を結びつける。

この凧を嵐が近づいている時に揚げるのだが、その際、紐を持つ人は、絹のリボンを濡らさないように、扉や窓の内側か、何か覆いの下に立たなければならない。そして麻紐が扉や窓の枠に触れないように注意する必要がある。

雷雲が凧の上に来ると共に、尖った針金によって電気が導かれ、凧と麻紐全体が帯電し、麻紐のほつれた繊維があらゆる方向に逆立ち、近づけた指に引き寄せられるようになる。

そして雨が凧と麻紐を濡らし、電気が自由に流れるようになると、手元の鍵から電気が豊富に流れ出すことがわかるだろう。この鍵から瓶をチャージすることができ、そうして得られた電気で、スピリッツを点火するなどの通常はガラス球や管を摩擦して行う電気実験が全て可能である。これによって雷と電気現象の同一性が完全に示される。

The Pennsylvania Gazette, October 19, 1752

つまりこの実験で肝心なのは、凧をアースから絶縁された状態に保つことで、そのため絶縁体である絹のリボンを濡らさないように気をつけなければならないのです。よく描かれているように野原で無防備に凧揚げしていては、雨を前提としたこの実験は成立しません。

Currier & Ives, 1876.

天使の加護があっても駄目。

Benjamin West, c.1816.

言うまでもなく、自然の雷で実験を行うのは大変危険なことです。

サンクトペテルブルク大学教授のゲオルク・ヴィルヘルム・リヒマン (1711-1753) は、1753年8月6日にフィラデルフィア実験の追試中に事故で死亡し、電気実験による最初の犠牲者となりました。

リヒマンの死因は、避雷針をアースから絶縁していたため、導線近くの彼の体が落雷の電流経路になってしまったのだと考えられますが、さらに球電 (Ball lightning) という極めて稀な現象が起きていたようです。球電はプラズマ現象であるともいわれていますが、観測事例があまりに乏しいため、その正体は未だによくわかっていません。

Gaston Tissandier, The Martyrs of Science, 1882.

8月6日正午ごろ、リヒマン氏は北方に嵐が発生したことに気づき、電気観測、あるいはフィラデルフィアのフランクリン氏が実践したメソッドによる雷の影響を避ける方法の準備に入った。アカデミーの彫版師のソコラウ氏が同伴していた。

実験場所は一種のギャラリーで、北に入り口、南に窓があった。窓が開いていたのかどうかは分からない。確かなのは、窓の近くに長さ4フィートの戸棚があり、その上には電気針と、真鍮の粉で一部満たされた水の入った瓶が置かれ、その上に太さ1インチ、長さ1フィートの鉄の棒があって、上部は屋根からギャラリーのドアを通ってきているワイヤーに繋がれていた。

教授は針から嵐は非常に遠いと判断し、ソコラウ氏に危険はないことを保証したが、近づきつつあると言った。リヒマン氏は棒から約1フィートのところに立って針を注意深く観察していた。

それからすぐに、装置に触れていないにもかかわらず、直径約4インチの青白い火の球が棒から出現してリヒマン氏の額に襲いかかり、彼が声もなく後ろに倒れたのをソコラウ氏は見た。それに続いて小型カノン砲のような爆発が起こり、ソコラウ氏は床に投げ出され、背中を殴られるような感覚を受けた。それはワイヤーが切れて断片が彼の背中を打っていたためで、服には焼け焦げの後が残されていた。

少し回復した後、彼は立ち上がり、戸棚に寄りかかりながら目をリヒマン氏に向けた。彼はただ気絶しているだけだと思っていたが、濃い煙に遮られて顔が見えなかった。彼は家が火事になったと考え、警邏を呼ぶため外に飛び出した。

リヒマン夫人が騒音を聞きつけてギャラリーに入ると、そこは煙で充満していた。ソコラウ氏はその前に出て行ってしまっていた。この御婦人は夫が仰向けに伸びて生気が全く失われているのを見て、回復のために手立てを尽くしたが無駄だった。クラッツェンシュタイン教授が外科医と共にやってきて静脈を切開したが、血が一滴出ただけだった。クラッツェンシュタイン氏は呼吸停止に対して一般に行われる人工呼吸を何度も行ったが、全く効果はなかった。脈は失われ、痙攣の兆候すら身体のどこにも見られなかった。

彼の額の上部、髪の生え際あたりには、ルーブル貨ほどの大きさの楕円の班があった。その少し左には毛穴から押し出されたような出血が見られたが、皮膚は傷ついていなかった。彼の左足の靴は同じ面の2箇所で裂けており、焼け焦げた様子はまったくなかったが、裂けた箇所の近くに小さな白い斑点が見られた。靴と靴下を脱がせると、同じところにルーブル貨大の出血斑があった。彼の体の左側には、腰から首にかけて、火薬でできたようなものと共に、赤と青の8つの斑点が見られた。

ギャラリーの扉の2つの脇柱は端から端まで裂け、ドアとともにギャラリーに倒れ込んでいた。長さ2フィート、太さはペン軸ほどのキッチンの扉の破片が、キッチンに隣接する階段に飛んでいた。ガラス瓶はその半分ほどの高さで割れており、真鍮の粉とワイヤーの破片が散乱していた。

The Pennsylvania Gazette, March 5, 1754.

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