録音で聴くチェンバロの音の違い
チェンバロはタッチで音に強弱をつけることは殆どできません。そのため乱暴に言えば誰が弾いても、猫が歩いても、同じ楽器なら同じ音が出ます。そのため演奏者の腕前と同じぐらい楽器が重要であるといっても過言ではありません。
そしてチェンバロはスタイルによって音質が大いに異なります。ヴァイオリンであればストラディヴァリとシュタイナーの音の違いを聴き分けるのは相当詳しくなければ無理でしょうが、ルッカースとゼンティの違いなら誰にだってわかります。
しかしチェンバロは調整次第で同じ楽器でも音は大きく変わるものです。A=440Hzで調律した場合とA=392Hzの時では、まるで別の楽器のように聴こえて当然ですし、弦を弾くプレクトラムの素材や調整によっても音やタッチは大きく変化します。なのでこの楽器はこういう音だということを一概には言えないのが難しい所。これまでチェンバロについてあれこれ書いてきましたが、音質についてはあまり触れていないのはそのためです。
しかし楽器で一番興味が持たれるのは構造などよりも音質でしょう。わかってはいるのです。
Clavisimbalum, Henri Arnaut de Zwolle, c.1440
Ilze Bertrand: CODEX FAENZA (2020)
ラトビアの Ilze Bertrand によるファエンツァ写本の演奏。使用楽器はKaspars Putrins による15世紀のアルノー手稿に基づく復元楽器。ちなみに2020年の録音ながら物理メディアはアナログLPのみ。
このアンリ・アルノー・ド・ズヴォレの描いた clavisimbalum の図は詳細なチェンバロの資料としては最古のものであって、具体的な楽器としてのチェンバロの歴史をこれより遡ることは事実上不可能です。いくつか提示されている発音機構の図はどれも奇妙なものですが、復元楽器はダンパーがないだけで普通のチェンバロと同様のジャックを使用している模様。
発音機構が確実に異なるため、果たしてアルノーが意図した音がこのようであるかは不明ですが、そう大きく違うものでもないでしょう。ダンパーが無いこともあって、まさしく中世のプサルテリウムそのものの神秘的な響きが聴かれます。
Polygonal Virginal, ?Francesco Poggi, c.1575
Jean Rondeau: Melancholy Grace (2021)
ダウランドのラクリメを軸としたアンソロジー。トラック 7-9, 16, 17 でフィレンツェのフランチェスコ・ポッジ作とされる16世紀の多角形ヴァージナル(アルピコルド)のオリジナルを使用。それ以外は Philippe Humeau 製作の無銘の18世紀イタリアンのコピー。
下の画像は別の楽器ですが、作りは概ね同じでしょう。ジャックが弦を弾くプラッキングポイントが弦長の20~30%あたりに位置するので、普通のチェンバロ(プラッキングポイントが10~20%)よりもポンポコした音質になります。しかしながら小型であっても音は力強く、フルサイズのチェンバロに引けを取りません。大体楽器は古い時代のもののほうが元気に鳴るというのが相場です。
Italian Harpsichord “F.A.1677”
James Johnstone: Ercole Pasquini, Works for harpsichord and organ (2003)
パスクィーニといってもベルナルドではなくエルコーレの方。サン・ピエトロ大聖堂のオルガニストを務めるも、発狂して癲狂院送りになったフレスコバルディの師匠です。
使用楽器はケネス・ギルバートの所有であった「F.A.1677」という謎のイニシャルだけの署名で知られるイタリアのチェンバロ。インナーアウター型、ショート・オクターヴで4オクターヴの鍵盤、2×8' のレジスターという典型的な17世紀のイタリアのチェンバロです。
真鍮弦による丸みのある音が力強く飛び出して、スッと消えていくのがイタリアのチェンバロの基本的な特質といえます。ルネサンスや初期バロックの作品にはこういった楽器が適役で、余韻の長い楽器だと平板になってうまくありません。津軽じょんがら節をクラシックギターで弾いたらノリが悪くなってしまうでしょう。
Andreas Ruckers I, 1644 / Joannes Daniel Dulcken, 1747 / Muselar Virginal, Joannes Couchet, 1650
Jos van Immerseel: Hans Ruckers, The Musical Legacy (2001)
アントワープのフリースハイス(肉屋ギルド)博物館所蔵のオリジナル楽器3種の録音。
1-6はアンドレアス・ルッカース1世の1644年製チェンバロ。
7-13はヨハン・ダニエル・ドゥルケンの1747年製チェンバロ。
14-18はヨハネス・クーシェの1650年製ヴァージナル。
ハンス・ルッカースの楽器はありません。
ルッカース一族のチェンバロは音域で弦の素材を使い分け、高域に鉄弦を使用します。そのため同じピッチでも総真鍮弦のイタリアのチェンバロより高域の弦長が長く、高域部の響板面積も広く、これに独特の響板設計やケース構造が加わって、硬質な透明感のある余韻の長い響きが生まれます。これがルッカースのチェンバロが絶賛された理由でしょう。またルッカースの音は綺麗なだけでなく芯の通った力強さもあります。
ルッカースの楽器はその実力故に長く第一線で使用されたため、時代の要求に従って多くは改造され、現存する演奏可能な楽器で無改造のものはありません。このアンドレアス・ルッカースの楽器も例外でなく。音域がショート・オクターヴ C/E-c3 から普通の C-c3 にされ、8'+4' のレジスターが 8'+8' になっているものの、概ね原型を留めている貴重な個体です。
ルッカース一族の後にアントワープでチェンバロ製作を営んだのがヨハン・ダニエル・ドゥルケン(1706 - 1757)。彼の楽器はクリストフォリのピアノのようにダブル・ベントサイド構造をとっていることが特徴の一つです。
このチェンバロは一段鍵盤 FF-f3 の5オクターヴ、レジスターは 8’+8’+4’、全長247cmの巨大な楽器です。この録音で聴く限り音質は明瞭で切れがよく、やや厳しさを感じます。ルッカースに比べるとレンジの広さが実感できますが、逆に中域が寂しいか。
ヨハネス・クーシェはヨハネス・ルッカースの妹の息子で、彼がヨハネス・ルッカースの工房を引き継ぎました。
これは現存する中で最後のルッカース/クーシェ一族のヴァージナルで、鍵盤が右側に位置する「ミュゼラー」です。
ミュゼラーはプラッキングポイントが完全に弦のど真ん中にあるため、倍音の少ないボンボンとした響きになります。また偶数次倍音が相殺されて奇数次倍音主体の矩形波的な倍音構成になるので、何となく電子音じみたエキセントリックな雰囲気があります。
フェルメールの絵に描かれているのはこのタイプです。
Spinet Virginal, ?Johannes Ruckers, 1604
Marco Vitale: Ruckers 1604 (2014)
2000年頃にイタリアで発見されたというヴァージナル。署名は失われているものの、おそらくはヨハネス・ルッカース作とされています。これは6フィート弦によるピッチの高いやや小ぶりの楽器で、そして鍵盤が左側にある「スピネット」ヴァージナルです。
スピネット型ヴァージナルはプラッキングポイントが普通のチェンバロに近いので、ミュゼラーと見た目は似ていても音質は全く異なります。
Louis Denis, 1658
Christophe Rousset: Louis Couperin (2010)
希少な17世紀フランスのチェンバロ、まさしくルイ・クープランと同時代の楽器です。個人蔵なので詳細不明。ライナーノーツによるとケース構造はフレミッシュに近く、ブリッジやナットはイタリア風とのこと。
おそらく高域は鉄弦で音の伸びはそこそこありますが、何よりアタックが強烈。
Pascal Taskin 1769
John Kitchen: Music from the Age of Louis XV (2012)
18世紀フランスのチェンバロの代表格、1769年製パスカル・タスカンのオリジナルによる演奏。現代のチェンバロ製作のモデルの定番であり、これのコピー楽器はどこでもよく見かけます。
トラック11の《La León》が良い例でしょう。深い低音、繊細なアタック、ルッカースを凌ぐ音の滞空時間の長さ。しかし線が細く、広い場所では実力を発揮しづらい楽器だとも思います。
Christian Zell, 1728
Bob van Asperen: J. S. Bach, The Well-Tempered Clavier, Book 1 (2006)
この録音で使用されているハンブルク工芸博物館所蔵の1728年製クリスティアン・ツェルの二段鍵盤チェンバロは、1972年にマルティン・スコヴロネクによって修復され、歴史的チェンバロ復活の画期を成したものです。
クリスティアン・ツェル(?1683 - 1763)はハンブルクのチェンバロ職人でミヒャエル・ミートケの弟子とも言われています。しかしミートケのチェンバロはイタリア風のショートスケールの真鍮弦で、ツェルはロングスケールの鉄弦なのでそれほど似ていません。ツェルのチェンバロは華やかな見た目と裏腹にドライでモノクロームな音色です。
この楽器を使用した録音としては、取り分け1977年録音のレオンハルトによる半音階的幻想曲が壮絶な代物でしたが、今はどこも配信していないようです。
Jacob Kirkman, 1764 / Burkat Shudi, 1740
Julian Perkins: James Nares, Eight Harpsichord Setts (2008)
イギリスのシュディやカークマンのチェンバロは現存数は大変多い割りに録音はあまり見かけません。なので楽器目当てにこのようなCDを求める羽目に。作曲者のジェイムズ・ナレス(1715 - 1783)について私はよく知りません。ギャラント時代にしてはやや保守的な作風かとは思います。
1-14 は1764年製カークマンの一段鍵盤チェンバロ。
15-30 は1740年製シュディの二段鍵盤チェンバロ。
いずれもストレートで力強い音ですが、シュディのほうが少し柔らかいでしょうか。しかしこういった比較にあまり意味がないのは最初に述べた通り。ただ、現代のコンサートホールで演奏するならタスカン等よりはこれらのほうが音の通りが良いように思うのですが、何で人気がないのでしょう。
Bentside Spinet, Thomas Hitchcock, 1730
The Hitchcock Trio: The Hitchcock Spinet (2020)
ハンブルクのテレマン博物館所蔵のヒッチコックのスピネット、シリアルナンバー1379番を使用。ベントサイド・スピネットは18世紀イギリスで流行しましたが、高域のスケーリングなどはイタリアのチェンバロに近く、ルッカース系統のチェンバロやヴァージナルとは音質はかなり異なります。
イギリスのチェンバロにも増してイギリスのスピネットの録音は乏しいのですが、狭い部屋でCDをかけるならスピネットの親密な響きはむしろ等身大の臨場感が得られて好ましく思います。
Pleyel, 1963
Roger Heagney: The Pleyel Harpsichord (2018)
モダンチェンバロは音が大きいとかキンキンしているとか言われますが、それは単に4フィートや16フィートを入れた結果であって、実際のところは音の立ち上がりが大人しく持続がやたらと長いのが特徴です。プレイエルの8フィート単体の音は例えるなら「にゃーにゃー」という感じでしょう。
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