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死刑執行のパッサカリア(鍵盤楽器音楽の歴史、第80回)

アレッサンドロ・ポリエッティは《ロシニョーロ》の他にも描写的な鍵盤作品を幾つか残しています。

〈雄鶏と雌鶏の鳴き声によるカンツォンとカプリッチョ Canzon und Capriccio über das Henner und Hannergeschreÿ〉これは説明を要しないでしょう。

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https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/275448

〈ハンガリーの反乱によるトッカティーナ Toccatina sopra la ribellione di Ungheria〉については少し説明が必要かもしれません。

1664年8月1日、ハンガリー西部のザンクト・ゴットハルトにおける戦いで、トランシルヴァニアを征服しハンガリーに侵攻してきたオスマン帝国軍に対し、神聖ローマ帝国を中心としたキリスト教連合軍が勝利を収めました。

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http://www.digam.net/document.php?dok=2130

これは大勝利として喧伝されましたが、しかしながら翌年結ばれたヴァシュヴァールの和約は、どういうわけかオスマン帝国側に非常に有利な内容でした。

その理由はよくわかっていませんが、喧伝されたほどの大勝ではなかったのかもしれないし、フランスとの抗争にも備えなければならなかったレオポルト1世としては、東部の問題は早々に解決しておきたかったのかもしれません(ただしザンクト・ゴットハルトの戦いにはフランスも援軍を送っています)。

しかしこれには、共に戦って勝利を収めたにもかかわらず、領土を分断されたままにされたハンガリー貴族たちが憤慨しました。彼らはハプスブルク家に反旗を翻すために、あろうことかオスマン帝国に接近します。

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http://warfare.tk/Ottoman/Album/Ralamb.htm

ところがオスマン帝国のスルタン・メフメト4世は、この時点では再戦に及ぶ気はさらさらなく、むしろハンガリーの謀反をハプスブルクに忠告する始末。もっともハプスブルク側もハンガリー貴族内の密告者から既に情報を得ていたのですが、この杜撰な反乱計画が本当に実行されるものとは思えなかったのか、レオポルト1世はこれを取り締まることもせず静観していました。

漸く1670年になって一部貴族がハンガリーのプロテスタントに蜂起を呼びかけ、これに呼応する者が現れるに至って、ついに当局は制圧に動き出します。1671年4月30日、逮捕された首謀者のペータル・ズリンスキ、フラン・クルスト・フランコパン、ナーダシュディ・フェレンツらがウィーンにて処刑されました。

これが件のハンガリーの反乱の顛末です。

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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Petru_Zrinskom_i_Krsti_Frankopanu_odrubljene_su_glave_u_Beckom_Novom_Mjestu_30.4.1671._god.jpg

ポリエッティの〈ハンガリーの反乱〉は、短いトッカータ(トッカティーナ)に一連の舞曲などが続く組曲となっています。

まず最初のトッカータは、ハンガリー貴族たちの突撃を表しているであろう "Galop" で開幕します。しかしそれはたった7小節で "Fuge" に移行します。ここはフーガの和名が「遁走曲」であることを思い起こせば十分でしょう(とはいえ音楽的には全然フーガではないのですが)。終盤の繋留と不協和音の多用は、捕縛を表現しているものと思われます。

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https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/275450

そして、アルマンド「勾留 La Prisonnie」、クーラント「起訴 Le proces」、サラバンド「判決 La Sentence」、ジーグ「連盟 La Lige」という空前絶後の無粋な題材の舞曲が続きます。しかしこれらの標題と音楽内容の関係は今ひとつピンときません、当時の法廷事情に通じていれば分かるものなのでしょうか。もっとも裁判をわかりやすく表現した音楽というのが、どういうものなのか見当も付きませんが。

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クライマックスとなる「斬首 La decapitation」は、フローベルガー流の "avec Discretion"(裁量によって) の指示をもつ、半音階と不協和音に満ちたラメント、あるいはトンボ―です。最後のホ長調の和音と共に剣は振り下ろされるのでしょう。

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そして何故かパッサカリアが続きます。これは観衆の騒ぎを表現しているのでしょうか。13のパルテからなる、このパッサカリアはフレスコバルディ風… というより、第1パルテはフレスコバルディの《トッカータ集 第1巻》1637年版の〈パッサカリア ホ短調〉そのものです。付点音符にしたぐらいでは誤魔化されません。

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さらに第5パルテの上声部は同曲の終結部と同じ。それ以外の箇所にもフレスコバルディの手癖が強く感じられます。ポリエッティのイタリア時代が気になるところです。

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最後は「鐘 les Kloches」、弔鐘の音と共に、このささやかな反乱は幕を閉じます。

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さて、首が3つ飛んだだけで事が収まれば良かったのですが、その後レオポルト1世はハンガリーにおいて過酷なプロテスタントの弾圧を行います。これに対し、プロテスタントによる「クルツ」と呼ばれるゲリラ組織が、反ハプスブルク抵抗運動を繰り広げ、次第に勢力を拡大していきました。遅まきながらオスマン帝国はこれを支援し、テケリ・イムレの乱、第二次ウィーン包囲へと向かいます。

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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vienna_Battle_1683.jpg

1683年7月、包囲下のウィーンでポリエッティは亡くなります。友人のケルル(彼はポリエッティの娘の代父を務めている)が、ウィーン包囲に因んで作曲した〈慰めのミサ Missa in fletu solatium〉は、彼を偲んだものなのでしょうか。その通奏低音パートには、協和音を避けよ、という異例の指示が現れます。

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