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鍵盤楽器音楽の歴史(66)シファーチェの別れ

《音楽の侍女 第2部》(1689) の26曲目、ヘンリー・パーセルの〈シファーチェの別れ Sefauchi’s Farewell〉Z 656 は、パーセルの鍵盤作品でもとりわけメランコリックな旋律の魅力的な小品です。

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この Sefauchi (Siface) というのはイタリアのカストラート(去勢した男性歌手)ジョヴァンニ・フランチェスコ・グロッシ Giovanni Francesco Grossi (1653–1697) の通称です。彼は1671年にローマでカヴァッリの〈アフリカのスキピオ Scipione affricano〉にヌミディア王シュファクス(シファーチェ)役で出演し好評を博したため、以来この渾名で呼ばれるようになったものです。

渋いバスが似合いそうな役ですが、この頃のオペラは男性の登場人物にしばしば高音パートを割り当てます。例えばモンテヴェルディの〈ポッペアの戴冠〉の皇帝ネロはソプラノで、メゾソプラノである妻のオクタウィアよりも高い声で歌います。これはカストラートの超人的な歌唱を前提とした配役であり、現代での再現を困難にしています。

シファーチェはトスカーナ地方の生まれで、1675年からはローマ法王の礼拝堂で歌い、その後モデナ大公フランチェスコ・デステ2世に仕えます。またヴェネツィアやローマの劇場でも活躍して絶大な人気を誇り、彼自身貴族のような扱いを受けていました。

1687年1月16日にシファーチェはロンドンを訪れます。彼をイングランドに招聘したのはモデナ大公の妹である王妃メアリー・オブ・モデナでした。途中パリにも立ち寄っていますが、ルイ14世には不評だったようです。

彼は半年の間ロンドンに滞在しますが、王宮や個人の邸宅で数回歌っただけで、なんだかんだと理由をつけて結局大きな舞台には立ちませんでした。ジョン・イーヴリンの1687年4月19日の日記には、サミュエル・ピープス邸でシファーチェの演奏を聴いたことが書かれています。

I heard the famous Singer the Eunuch Cifacca, esteemed the best in Europe & indeede his holding out & delicatenesse in extending & loosing a note with that incomparable softnesse, & sweetenesse was admirable: For the rest, I found him a meere wanton, effeminate child; very Coy, & prowdly conceited to my apprehension: He touch'd the Harpsichord to his Voice rarely well.

有名な歌手、ヨーロッパ随一の歌い手とされるカストラートのシファッカを聴いた。音を長く持続したり、無類の優しさと甘美さで声を張り上げたり緩めたりする繊細さは実際見事なものである。それ以外では彼は単にわがままで女々しい若造だった。ひどく取り澄まし高慢で私の気遣いに自惚れていた。彼はハープシコードで弾き語りをしたが非常に良かった。

彼がパーセルの作品を歌うとしたら、ソプラノによるアンセム〈My song shall be always〉Z 31 が相応しいでしょう。

シファーチェはイングランドの気候は声を損なうなどという理由で、1687年6月19日にはロンドンを去ります。パーセルの〈シファーチェの別れ〉はこれに際して書かれたものと思われます。この曲に何らかのシファーチェ要素が含まれているのかは不明ですが、右手が終始高域で歌うのはそれらしいともいえます。

王妃は兄への手紙をシファーチェに託し、また彼を寄越してくださいと伝えていますが、結局この願いは叶いませんでした。

10年後の1697年5月26日、シファーチェは馬車でフェラーラからボローニャへ向かう途中、覆面の男たちの襲撃を受けて殺されます。これは彼がボローニャのマルシ―リ家の未亡人と禁断の情事を重ね、しかもそれを自ら吹聴していたため、名誉を傷つけられた一族によって刺客が送られたというわけです。自業自得ですね。

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