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マリー・アントワネットのピアノ(189)

少年が女帝の御前にあったとき、二人の皇女が彼を案内した。その一人は将来不幸なフランス王妃となるアントワネットであった。ところが彼は慣れないすべすべした床で転んでしまった。皇女の一人は気に留めなかったが、アントワネットは彼を助け起こして親切にしてくれた。そこで彼はこう言った「君はいい人だね、僕と結婚してよ」。

Georg Nikolaus von Nissen, Biographie W.A. Mozart's, 1828.

この有名な逸話は、モーツァルトの妻のコンスタンツェの再婚相手であるゲオルク・ニコラウス・ニッセンのモーツァルト伝に書かれているもので、モーツァルトに纏わる山ほどの胡乱な伝説の中では割と由緒正しいものと言えます。

1762年10月13日の午後3時から6時にかけて、モーツァルト一家がシェーンブルン宮殿にてフランツ1世とマリア・テレジアの御前で演奏を披露したことは事実で、もちろんマリー・アントワネット Maria Antonia Josepha Joanna von Österreich-Lothringen (1755-1793) もそこにいました。彼女はモーツァルトよりも2ヶ月だけ年上で、当時同じく7歳でした。

1778年にモーツァルトがパリを訪れたとき、生憎ながら王妃は妊娠中で面会は叶いませんでしたが。

Erzherzogin Marie Antoinette am Spinett (Franz Xaver Wagenschön c. 1770)
https://www.khm.at/de/objektdb/detail/5067/

輿入れ直前のアントニア皇女を描いたこの肖像画は「スピネットの前のマリー・アントワネット」と呼ばれていますが、鍵盤を見るにこれは画家の空想上の楽器でしょう。楽譜は3/8拍子のアンダンテと読め、ギャラント式のソナタのようですが、ちょっと心当たりがありません。

マリー・アントワネットは勉強嫌いで、少女時代はろくに読み書きもできないほどでしたが(家庭教師のヴェルモン神父曰く「一般に考えられているよりは賢い」)、音楽には才能を示し、ハープ、フルート、クラヴサンを嗜み、作曲もしています。

https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/443722

パリの流行を体現する彼女は、もちろんピアノも弾きました。マリー・アントワネットが所有していたセバスチャン・エラール(1752-1831)製作のスクエア・ピアノが現存します。これは革命後に売りに出されたところをエラール本人が買い取ったものです。

Sébastien Erard, 1787.
© The Cobbe Collection Trust.
https://www.cobbecollection.co.uk/collection/12-marie-antoinettes-square-piano/

ストラスブール出身のエラールは、メルケンと並ぶフランスのピアノの開拓者で、王室からも数々の注文を受けました。この楽器は王妃に相応しい精巧な仕上がりですが、アクションについては、後にダブル・エスケープメントの発明でピアノ史に名を刻むエラールながら、この時はツンペ式の模倣に留まります。彼はマリー・アントワネットのために他にも特別な移調式ピアノを製作したといいますが、残念ながら現存しません。

ヴェルサイユの件は、私は行こうと思いません。グリム男爵やその他の親切な友人にこの点について相談したなら、私と同じ意見です。給料が多くないし、六カ月間はなんら得るところのない土地で退屈しながら生活をしなければなりません。私の才能は完全に埋もれてしまいます。国王につかえる者は誰でも、パリでは忘れられます。(パリ、1778年7月3日)

『モーツァルトの手紙』服部龍太郎訳

モーツァルトは6ヶ月2000リーヴルでヴェルサイユの王室礼拝堂のオルガニストの職を打診されるも、これを蹴っています。1世紀前であれば音楽家として最高の栄誉であった「王のオルガニスト」の地位も、もはや若い音楽家にとって魅力あるものではありませんでした。

ちなみに1693年にフランソワ・クープランが就任した際は、4人の持ち回り制で、3ヶ月の報酬が600リーヴル。物価の上昇を考えれば大分目減りしているとはいえ、それでも2000リーヴルはかなりの高給であったはずです。もっとも例の「首飾り事件」のネックレスは約160万リーヴル相当であったといいますが。

Claude Cholat, La prise de la Bastille, 1789. 
https://www.parismuseescollections.paris.fr/en/node/79785

1789年7月14日、財務総監ネッケルの罷免に激怒したパリ市民が圧政の象徴たるバスティーユ監獄を襲撃してフランス革命が始まりました。

王室との繋がりによって出世したエラールは逆に窮地に陥り、ロンドンに移住を余儀なくされますが、彼はそこでハープの改良において成功を収め、やがてまたパリに帰ってきます。

この時ウィーンのモーツァルトは借金の無心でそれどころではありませんでした。こんな手紙3行も読めば捨てたくなりますが、よくも残っていたものです。ちなみにこのプッフベルク氏はモーツァルトのレクイエムの依頼主であるフランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵とも知り合いで、おそらく彼が伯爵にモーツァルトを紹介したのでしょう。

親しき友にして敬愛する会員へ(プッフベルク氏へ) 
ウィーン(一七八九年七月十七日)

 お返事のないところをみると、私のことで不愉快に思っておられるのではないですか。貴下の篤い友情を、私のお願いしている要求に比較するときは、当然、貴下が不愉快に思ってもよい権利があると認めねばなりません。しかし私の不運(これは私の罪ではないが)を、貴下の私に対して親切にして下さった処置に比較する時は、ともかく、多少の申し訳は私にも言えるように思います。親しき友よ、前便で私がはっきりと申し上げてあるので、ここではそれを繰り返すだけのことですが、単に次のことを補足するにとどめます――第一。妻を温泉にやるように勧められているので、ことにバーデンにでもやるとするならば、あのくらいの大きい金額は、当然なんとかして用意せねばならないのです。第二。まもなく環境が改善されると信じているので〔プロイセンの楽長に就任すること〕そのくらいの金額を返済することは造作のないことと思います。そしてこの際、大きい金額が間に合うほど、いっそう有効で、いっそう都合がよいのです。第三。もしもこの金額だけ御援助願えないものならば、貴下の親切と友愛に訴えて、御都合のよいだけを至急にお届け願いたいのです。全く必要に迫られているのです。私の実直な性質をよくおわかりでしょう――そのことを知り過ぎるくらい知っておられます。私の行動と生活をよく承知しておられる貴下は、私の確実なことと生活態度に疑いをもたれるわけはありません。ですからこんな我が儘を言うのもお許し下さい。 これができないことであるならば、貴下は貴下の友人を見殺しにするだけのこととなります。貴下は私を完全に救済することができるし、また救済して下さるでしょう。その時は、私が娑婆にいる限り、貴下を自分の救い主と考えます。貴下によって、これからの地上の幸運を味わうことができるからです。もしもそれができないなら、どうぞ、神の名において、それがなんであろうと結構ですから、当座の御援助を願います。そして忠言と慰めの言葉を与えて下さい。貴下の恩恵ある下僕より。 

W・A・モーツァルト

『モーツァルトの手紙』服部龍太郎訳

1793年1月21日にルイ16世が断頭台に上り、同年10月16日にマリー・アントワネットも運命を共にします。

Jacques-Louis Davidm, Portrait de Marie-Antoinette reine de France, conduite au supplice, 1793.
https://collections.louvre.fr/en/ark:/53355/cl020537700

彼女の最後の言葉は、壇上で死刑執行人のサンソンの足を誤って踏んでしまった際の「御免なさい貴方、わざとではないの (Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l’ai pas fait exprès)」というものだといわれています。

これの初出はオラス・ド・ヴィエル=カステル『マリー・アントワネットとフランス革命』(1859)で、ただしこちらでは単に「御免なさい、貴方 (Je vous demande pardon, monsieur)」とされており、カステルはその情報源として、昔サンソン本人から話を聞いたという人の手紙を載せています。「パンがなければ」の方は彼女の言葉でないことが明らかですが、こちらは多少は信憑性があるでしょうか。

Horace de Viel-Castel, Marie-Antoinette et la Révolution française, 1859.
https://books.google.co.jp/books?id=I_jJPmIfv0kC

デュセック Jan Ladislav Dussek (1760-1812) は、若い頃マリー・アントワネットの寵愛を得ていましたが、彼もエラールと同じく革命が始まるとロンドンに避難することになりました。その彼は王妃の処刑に際しピアノ独奏のための描写的な組曲《フランス王妃の受難 Op. 23》を上梓しています。

1. 王妃の監禁、2. 栄華の回想、3. 子供たちとの離別、4. 死刑宣告、5. 運命の甘受、6. 処刑前夜の状況と反省、7. 行進、8. 暴徒たちの野蛮な騒乱、9. 死を前にした王妃の全能の神への祈り、10. 神格化。

Jan Ladislav Dussek, The Sufferings of the Queen of France, Op.23, 1793.
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/514299
Anonyme, Exécution de Marie-Antoinette, le 16 octobre 1793, 1793-98.
https://www.parismuseescollections.paris.fr/en/node/811035

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