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ヘンデルとコレッリ(『故ジョージ・フレデリック・ヘンデル回想録』解説、その10)

我々は彼がイタリアへ旅立とうとした所でヘンデルを放置したままであった。

ジョン・マナリング『故ジョージ・フレデリック・ヘンデル回想録』

ヘンデルがイタリアの各地を遍歴した1706年から1710年にかけての約3年半の間は、ヘンデルの人生でも最も重要な時期であったといえます。

しかしその間の彼の動向の詳細は未だによくわかっていません。そもそもヘンデルがハンブルクからイタリアまで、どのようなルートで旅したのかについてもさっぱり不明です。

とはいえ、マナリングの『回想録』のイタリア時代の記述が、特に時系列に関してまるで信用できないことだけは確かです。

マナリングによれば、ヘンデルはトスカーナ大公子を追って、そのすぐ後にフィレンツェに到着し、そこに1年近く滞在してから、フィレンツェ→ヴェネツィア→ローマ→ナポリと移動し、その後再びフィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアを訪れて、全部で6年間をイタリアで過ごしたことになっています。しかし僅かな物証からも、これが事実でないことは明らかです。

当時の文書に確認できるヘンデルのイタリアにおける最初の足跡は、ローマのフランチェスコ・ヴァレジオ(1670–1742)の1707年1月14日の日記に「最近当市にやって来た優れたチェンバロ奏者にして作曲家のザクセン人(Sassone)が、今日サン・ジョバンニ・イン・ラテラノのオルガンを演奏し、その腕前で皆を驚かせた」とあるものです。これがヘンデルのことであるのは間違いないでしょう。

もっとも、その前にヘンデルがフィレンツェに立ち寄っていたとしてもおかしくはなく、マナリングの言い分を受け入れ、最初はトスカーナ大公子の招きに応じて、フィレンツェに短期間滞在していたと見てもいいでしょう。だとすれば、それはおそらく1706年の秋頃のことになります。

フィレンツェに1年近く滞在したとマナリングが勘違いしたのは、ヘンデルが1707年の年末頃に、彼のイタリアにおける最初のオペラ《ロドリーゴ》HWV 5 をフィレンツェで上演しているためかもしれません。

とりあえずそれは置いておいて、まずはローマにおけるヘンデルを見てみましょう。ヘンデルがイタリアで本格的に音楽活動を始めたのはローマにおいてであるに違いなく、彼は1707年の大半はローマに居たものと見られます。

ローマは法王のお膝元であり、ローマにおけるヘンデルの後援者も多くは高位の聖職者でしたが、マナリングがその筆頭としてあげているのはピエトロ・オットボーニ枢機卿(1667-1740)です。

Cardinal Pietro Ottoboni (Francesco Trevisani c. 1689)

ヴェネツィアの名門貴族の出である彼は、聖職者らしいところは皆無な人物で、富裕な大貴族そのままに振る舞い、莫大な収入がありながらも、それを上回る浪費によって常に借金を重ねていました。フランスの外交官ド・ブロスの評によれば、「礼儀知らず、信用できない道楽者、零落者、芸術愛好家にして大音楽家」。しかし彼は当時の最も偉大な芸術の庇護者の一人でした。

オットボーニ枢機卿は、マナリングも触れているようにアレッサンドロ・スカルラッティの後援者でもあり、その息子のドメニコ・スカルラッティや赤毛の司祭アントニオ・ヴィヴァルディ等、当時のイタリアの名だたる音楽家の多くと関係を持っていました。わけてもその筆頭はアルカンジェロ・コレッリ (1653-1713) でしょう。

Arcangelo Corelli (Hugh Howard 1697)

コレッリは1690年よりオットボーニ枢機卿の庇護を受け、彼のカンチェレリア宮殿に部屋を与えられていました。オットボーニ枢機卿はコレッリに対し、雇い主というよりは友人のように接していたといいます。

1707年6月にヘンデルのオラトリオ《時と悟りの勝利》 Il trionfo del Tempo e del Disinganno, HWV 46a が、オットボーニ邸で上演され、コレッリは主席ヴァイオリン奏者としてその指揮を取ったものと考えられます。

その台本は、やはりヘンデルの後援者であったパンフィーリ枢機卿によるもので、擬人化された「美」と「快楽」の誘惑に対し、「時」と「悟り」が魂の内なる美徳だけが永遠のものであると訴えるという、まあ説教臭い内容です。当時ローマではオペラの上演が禁止されており、代わりにこのようなオペラもどきの作品が多く作られていました。

なお、本作はペトラルカの『凱旋 I Trionfi 』(1352)を踏まえたものでしょう。『凱旋』は祭の出しものである寓意的人物を乗せた凱旋車に因み、擬人化された「愛」「貞操」「死」「運命」「時間」「永遠」をそれぞれ讃えた叙事詩です。なので本当は《時と悟りの凱旋》と訳すほうが適当かとおもわれます。

《時と悟りの勝利》HWV 46a は、後に増補されて《時と真実の勝利》Il trionfo del Tempo e della Verità, HWV 46b として1737年にロンドンで上演され、さらに最晩年の1757年に《The Triumph of Time and Truth》 HWV 71 という英語オラトリオに改作されています。

Francesco Pesellino: The Triumphs of Love, Chastity and Death, c. 1450.

それはともかく、『回想録』によれば、コレッリは《時と悟りの勝利》の序曲をどうしても上手く演奏できず、頭にきたヘンデルは彼の手からヴァイオリンを奪い取って手本を示したといいます。

そして、この無礼千万な田舎出の若造に対するコレッリの大人の対応が良いですね。

Ma, caro Sassone questa Musica è nel stylo Francese, di ch' io non m' intendo.
(しかしザクセンのお方、この音楽はフランス風で私にはわからないのですよ)

ジョン・マナリング『故ジョージ・フレデリック・ヘンデル回想録』

このフランス風の序曲というのは、フーガ主題の共通性などから、後の1758年に出版された序曲集に含まれている《序曲 変ロ長調》HWV 336 であると考えられています。この付点リズムにイネガルをかけてさらに強調するというフランス風の演奏法が、コレッリにはできなかった、というよりやりたくなかったんでしょう。

結局ヘンデルは折れて、《時と悟りの勝利》にはコレッリに配慮したイタリア風の序曲が新たに作り直されたのでした。

是非はともかくとして、ヘンデルと言えば過去作品の流用です。

《時と悟りの勝利》で「快楽」の歌うアリア〈Lascia la spina, cogli la rosa〉(棘を残し、薔薇を摘め)は、《アルミーラ》HWV 1、 第3幕のサラバンドに基づきます。このサラバンドのリズムは実にヘンデルの初期作品特有のものです。

そしてこれは後の1711年にロンドンで上演される《リナルド》HWV 7 の第2幕で、ヘンデルの最も有名なアリアの一つ〈Lascia ch'io pianga〉(私を泣かせてください)に再度流用されることになるのです。


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