見出し画像

才能の有無の話じゃなくて、真摯な作品づくりの話だった。──映画「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46」レビュー

(核心に触れない程度のネタバレを含みます)

 予告編を観たときは、「才能を持つ者/持たざる者」の葛藤の物語なのかなと思ったけど、それとはちょっと違った。

「ずば抜けた表現力というのがあるし……」「自分にそれがない」

「“作品”とは何なのか」という問題と葛藤したアイドルたちの物語だ、と思った。

 「私たちはひとつの作品をつくることに対して一生懸命。」


「いい”作品”をつくる」と誓ったアイドル

 アイドルがアマチュアの域を出ない歌やダンスを披露しても良しとされるのは、アイドルのパフォーマンスにおいては、”作品”が主役ではないからだ。
 けれど、欅坂46のメンバーたちは、あくまで「いい”作品”をつくる」ことがパフォーマンスの主体だと考えている。
 そして、それにもかかわらず、彼女たちの歌やダンスは、必ずしも全員がプロフェッショナルの水準というわけではない。

 作品主義とアマチュア主義という水と油が、大きな矛盾として爆ぜはじめる。
 はたして、アマチュアでありながら「いい”作品”をつくる」ことは可能なのか。

 おそらく、その命題に最初に出くわしたのが平手友梨奈だった。なぜ(当時)いちばん年下で、人生経験も浅いはずの彼女が最初に気づいたのか。それは彼女の才能や洞察力の賜物だともいえるけれど、より直接的には、欅坂46の歌詞が他ならぬ彼女からイマジネーションを受けて書かれたものだったからだ、ともいえる。プロデューサーからセンターの彼女に寄せられた夢と期待。その象徴的な一人称である「僕」。
 熱い想いをこめて生まれた歌詞や振付や世界観の価値を誰よりも感じ、「いい”作品”(=僕)」の具現化を志したからこそ、彼女は自分の、あるいはグループ全体の能力の未熟さに悩んでしまうし、ときに理想を追い求めて肉体的に無理をしてしまう。

 彼女の悩み苦しみ、そして「いい”作品”」への志は、やがてほかのメンバーにも共有されていく。「平手がセンターだからこそバックダンサーでもいいと思えた」とメンバーは言う。「私たちはひとつの作品をつくることに対して一生懸命。」オーディションCMで平手がそう言い切ったのは、新曲ごとに少しずつ掴んだ手応えのあらわれでもあったのだろう。

真に”作品”を守るためには

 ところが、試練のときはやってくる。平手がさまざまな理由でステージに立てなくなってしまうのだ。ほかのメンバーは、彼女に代わって、センターを持ち回りで代行しなければならなくなる。
 センターに立つのが平手でなくても、彼女が骨身を削って作り上げてきた”作品”(=僕)のアイデンティティーを守れるのだろうか。

 その問いに対するメンバーたちの葛藤。この映画のいちばんの見どころはここにある、とわたしは感じた。

 欅坂46にかかわるスタッフたちは、その葛藤を、責任感やモチベーションの問題に置き換えて彼女たちを鼓舞する。平手がいなければダメなグループと思われても良いのか、と。それは、ちょっと的外れな言葉ではある。メンバーたちは、欅坂46の音楽作品が、平手の存在ありきで制作されていることを正しく認識している。だからからこそ彼女たちは、たとえバックダンサーと揶揄されてもそれを肯定してきたし、「真に”作品”(=僕)を守るためにはどうすべきか」という問題の前であがいているのだ。

 もちろん、スタッフたちもそれをわかっていないわけではない。
 ただ彼らには、”作品”だけではなく、ショービジネスという興業を、そして何よりも若者たちを守り育成しなければならない使命がある。だからこそ彼らは、大人として、また教育者としてメンバーたちを諭し、センターポジションに立たせようと努める。

 オリジナルメンバーでのパフォーマンスだけが作品を守る道ではない。
 これはまったく正しい。たとえばミュージカルであっても歌舞伎であってもバレエであっても、名作と呼ばれる作品の多くは、特定のパフォーマーを想定して制作されたケースが多い。台本作家や振付家にとっては、いつの時代においても、生身の歌手や役者やダンサーこそがイマジネーションの源泉なのだ。しかしいつまでも特定の演者に任せていては、”作品”の寿命はそこで尽きてしまう。「その人以外」に受けつがれることによって”作品”は器としての強度を高めていく。

 メンバーたちは、結果として代理のセンターを立てる道を選んだ。それがこのグループの寿命を長くしたのか短くしたのかはわからない(映画を観てますますわからなくなった)。アマチュア路線アイドルの極致ともいえる48・坂道グループのなかで、欅坂46が作品主義という異端をつらぬいた結果としてある種の深刻なエラーを起こし、散ったことは間違いないだろう。また、昨今の韓国アイドルの徹底した教育システムを知ってしまうと、日本のアイドルが短い下積み期間で舞台に上がってしまうので、いってしまえば少年少女をいきなりエヴァに乗せるようなもので、あまりに精神的・肉体的に過酷すぎるのではないか……ともあらためて感じさせられた。

 けれど、彼女たちがいつも「“作品”とは何なのか」という問題に向き合い続けたこと、そして”作品”の新しい可能性を彼女たち自身が勇気をふるって示そうとした意味は、どこかしらにあると信じたい。欅坂46のライトな一ファンとして、グループの改名についてはポジティブな気持ちもある。ただ、グループの存在そのものを焼き尽くすほどの真剣さをもって世に送られた数々の”作品”が、過去の記憶に仕舞われてしまうのは、とても残念だと思っている。


関連記事


この記事が参加している募集

コンテンツ会議