因果応報という幻想と、その残酷さについて
因果応報という仏教用語があります。
私も以前は必ずあると思っていたのですが、調べていくうちにそれが幻想であり、時として残酷な言葉だということに気がづきました。
例えば「いじめた側がいじめられた側に殺された」ということなら、それは自分がまいた種が刈られたということで、まだ因果応報だと分かるんですが、
世間では「いじめた側が数十年後に癌で苦しんで亡くなった」という話も因果応報とされています。
しかしこの場合、数十年前のいじめと癌との直接の因果関係は見当たらないので、因果応報といえるのか疑問です。
理不尽なことと相手に起こった不幸なことを無理矢理こじつけることで「悪いことをしてはいけない」という思想を広めるための、子供騙しの幻想という気がしてなりません。
また、因果応報があるとするならば、生まれつき障害を持っている方とか殺人事件の被害者を見て「因果応報だ」と思うのでしょうか?
そう考えると、少し残酷な感じがします。
ある僧侶は「殺人被害者には殺されるべき因縁がある」と、加えて「殺人被害者はあの世で永遠に苦しむ」と言っていました。
仏教に救いを求めていた私は大変失望し、因果応報という言葉が持つ残酷さを改めて実感したのでした。