【物語】人魚姫、あるいはウンディーネ

-四月二〇日 ①-

 愛がトイレに入ると、先客がいた。

 大学全体のトイレを和式から洋式へ改修した際に、この女子トイレは個室の数が二つから一つになってしまったという。

 その個室が埋まっていれば、あとから来たものは待つしかない。

 愛はしかたなく、手洗い場の鏡を眺める。

 と、埋まっている個室から、水音が響いた。

 小用を足す音だ。

 気まずさを覚える。

 音を消したらいいのに、と思ったところで、中にいる人物に目星がつく。

 鏡に映る愛の顔、ほおが、少し赤くなっている。

 個室の内側から、カラカラと紙を引く音。

 そして、流れる水の音。

 個室の扉が開く。

 中から人が出てくる。

「夕子。」

「あ、愛さん。お待たせしました。」

 愛の目星の通り、その人物は夕子であった。

 夕子は、今でこそ人と呼ぶにほとんど差し支えないが、かつては、『人魚』であった。

 夕子の尾びれは手術によって分かたれ、未だ脚のほとんどを覆う緋色の鱗を除けば、人間の脚とほぼ同じ形と機能を持っている。

 とある地方都市の国立大学、農学部棟四階、女子トイレ。

 かつて人魚として水中で暮らしていた夕子も、愛の教育の結果、人間のように便座に腰をおろし用を足すことを覚えた。

 緋色の鱗はスカートとタイツに隠れ、耳の裏に残るえらの跡は髪に隠れ。

 トイレの個室から出た夕子は、愛に微笑んだ。

 その笑みに照れはなく、友人への挨拶に他ならない。

 愛は、その夕子の顔を見て、言った。

「夕子。あのさ、トイレ、するときね、そのボタン押すといいよ。」

 愛の言葉に、夕子は小首を傾げる。

 その助言が何のためのものか分からなかったようだ。

 愛は、夕子と入れ替わりで個室に歩み入り、紙ホルダーの脇にある装置の、そのボタンを押して見せた。

 機械から、水が流れる音がする。

「これで、トイレの音、隠せるから……」

 しかしそれでも、夕子にはその意図は伝わらなかった。

「どういうことですか?」

 何と説明したらいいものかと、愛は頭を抱えた。

 陸の人間は、排泄の音を聞かれるのが恥ずかしいものなのだ、と、話して聞かせる。

 20年の生涯を水中で過ごしてきた夕子も、なんとなく理解できたようで、頷いた。

「愛さんの家にはこんな機械、無いですよね。」

「家は、いいの。私しかいないし。」

「ここは、だめ?」

「私以外の人に聞かれるのは、恥ずかしいことなの。」

「なるほど……」

「いや、私相手でもね、機械があれば、隠していいのよ。」

「なるほど……」

「うん。それじゃ……」

 先に授業に行っていて、のつもりでそう言葉を濁し、愛は個室のドアを閉める。

 ジーンズと下着を下ろす。便座に腰を下ろす。そして、機械から水の音を流す。

 扉の向こうには未だ夕子の気配がある。

 何も愛は自らで実証するつもりなどなかったが、夕子はきちんとその機械の水音を聞いているらしい。

 自身からの水音は、機械の水音にかき消され、自分だけにかすかに聞こえる。

 彼女には聞こえないはずだが、なぜだか恥ずかしい。

 愛と機械の水音がやんだころ、やっと、手洗い場の蛇口をひねる音が聞こえた。


 人魚たちは姫名湖の湖底で暮らしていた。

 人魚、とは言うものの、正確には、左右の脚が癒着し、その脚に鱗を有し、耳の裏にエラが裂けた、水中で暮らすのに適応した人間である、と思われる。

 人魚たちは人間に隠れて暮らしていた。

 しかし、2年前。

 姫名湖をゆく遊覧船に、一人の、男の人魚が飛び乗った。

 失われつつあった肺の機能を思い出すように、呼吸は荒く。

 彼は、彼に驚く観光客たちに、懇願した。

 あの樹を助けてほしいと。

 人魚たちの集落の中心、すなわち姫名湖の底には、一本の大樹が立っていた。

 その樹の光合成が、湖中の水に酸素を与え、人魚の呼吸を助けているという。

 その樹が病気である、と。

 葉が、枝が、幹が、枯れはじめている、と。

 湖中にも人魚の医者はいたが、たった一本の樹の為の樹木医はいなかった。

 人間は、『人魚』と『樹』の生態研究のために湖に立ち入ることを条件として、人魚の樹を治すこと、今後のために樹病について教えることを約束した。

 この4月、人魚側の代表として、夕子はこの大学に、愛の在籍する植物病理の研究室に、やってきた。

 同じ大学の医学部附属病院の精鋭チームが、夕子の脚を分け、鰓を塞いだ。

 夕子は、愛のアパートで暮らしている。

 歳も近く、同じ研究室に所属することもあり、そして愛自身の好奇心もあり、愛から受け入れを申し出た。

 大学生協の斡旋で住み始めたアパートということもあり、管理者の許可が降りるのも早かった。

 夕子が大学にやってきた最初の日、二人は大学中を周り、大学周辺を案内し、くたくたになって愛の家に帰宅した。

 夕子に「入浴」を教えるために服を脱がし、春に似つかわしくない厚手のタイツを脱がし、その時初めて、脚に残る緋色の鱗を、愛は見た。

「本当に、人魚、だったんだ。」

 夕子のたどたどしい言葉、たどたどしい呼吸。

 それは脚のために失われた歌のようで。

 しかし、それでも鱗は残り。

 愛はそれを、心から美しいと思った。

 人魚姫だ、と。

 当初はタイツにロングスカートで脚を隠すことが多かった夕子であるが、最近ではスカートの丈を縮め、タイツを脱ぎ、わざと脚を、鱗を覗かせることが多くなった。


 その日も夕子は、膝丈のスカートと膝までの靴下で、膝あたりの鱗をちらちらと見せていた。

 愛は紙をひき、尿を拭い、衣服を正し、本当に水を流し、個室から出る。

 まだ手洗い場にいる夕子の姿を見、呆れて声をかける。

「聞いてたの?」

「いえ、確かに聞こえなかったです。おしっこの音。」

「そう、そりゃよかった……」

 手を洗う。

 腕時計をみると十二時五十分。

 二人とも、午後からの講義に向かう時間であった。

 午後からの講義は、『植物病理基礎』である。

 二人の所属する研究室の教授、佐藤真琴先生の授業だ。

 夕子はまさに、これを学びに陸に来たと言える。

 二人は研究室に立ち寄り、教科書、ノート、筆記具を用意し、教室に向かった。


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