寿司とスマホと時間と
以前、名古屋のとあるイベントに友人と参加したあと、ランチをしようということで寿司屋を探していたところ、たまたま美味しいと評判の寿司屋さんに入る機会がありました。
回転レーンのない狭い店内で、およそ10人ずつ入れ替わりながら行列を消化するかたちでしたので、私たちも順番が来るのを並んで待っていました。
ようやく店内に入り、椅子に座ると、ランチのセット(たしか8貫ほど)のお寿司が次々と目の前に出されます。
そのお寿司を、店内のほとんどの人が条件反射的にスマホで撮影しだしました。
私もご多分に漏れず、1貫目をスマホで撮影しました。
ところがふと、なにか違和感を覚えたので、そのあとのお寿司を撮影するとは止めて、味を楽しもうと決めました。
その違和感は、目の前にあるものをスマホを通して楽しむという前提が当然のようにあることへの「恐怖」だったのかもしれません。
今思えばこれは、自分自身の「スマホ依存」を自覚した瞬間だったのでしょう。
それからは意識的にスマホから物理的に距離をとろうと工夫し、携帯電話のキャリアの契約をガラケーに変更し、カーナビなど必要以外はスマホを持たないようにしています。
こうしたスマホ離れの習慣が身についてくると、当たり前と思っていた世の中の景色が違うものに見えてきました。
レストランで出てきた料理をみんなが撮影し、
電車でほとんどの人がスマホに目を落とし、
カフェでカップルがろくに会話をせずにスマホを弄る。
今までこうした景色を、「今の時代は当然」と何の違和感も覚えませんでしたが、自分はその状況に抗わないといけない、自分だけはそうならないように闘おうではないかと、今ではちょっとした中二病的な目で見るようになりました。
もちろん、買い物にも、仕事にも、プライベートにも、これまでにない便利さがあるのですから、スマホ自体を否定することは私はありません。「最近の若いもんはスマホばかりいじりおって。」と年寄りの説教じみた考えを他人に押しつけるつもりもありません。
ただ、世の中の美しいものを直接見て感じたり、大切な人と一緒に過ごしたり、自分自身のスキルを磨いたりするためには、時間が必要です。長くても100年程度の限りある人生のなかで、そういった時間をスマホに奪われるのは非常にもったいないと思っています。
時間が有限であるということを、人の死に直面したり、「10年があっという間」という言葉を頻繁に言うようになってきた自分自身を振り返る度に、実感しています。
あの寿司屋に入らなければ、もしかしたら時間というものの大切さに気づかなかったかもしれません。サンクス、お寿司。
なお、そのお寿司は、私が今まで食べてきたどのお寿司よりも美味しく、行列ができるのも納得の味でした。サンクス、お寿司。
どこのお店かは、ナイショです。
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