見出し画像

俳句なんて所詮わかんないものなのだと思う

ダッシュボードから全期間で一番読まれた記事を探してみる。

なんと「わかる俳句が少なすぎる」という記事だった。「俳句?意味わからーん!」と思うのはどうも自分だけではないようで。

あれはわかる人がわかればいいというシロモノなのではなかろうか?と思えてくる。

得た知識の披露と踏襲の世界。型にはまったのが美しい。様式美の世界なのだ、と思ってる。華道茶道などの世界と同じだと個人的に思う。

とはいえ、偉大な方々の句は素人でも理解できるほど美しく荘厳なのよ。もうこれを越える句は世に出ないんじゃないかと思うほどに。

かと思えば現代美術ばりに理解し難いのもある。理屈が先立つ現代美術は「ほほぉ」とは思っても美しく思えない。それと同じく難解な俳句は「へぇ〜すごいね」と思ってもそれ以上はない。発想がすごいなぁと思っても無知な自分は全く共鳴しないのである。

やっぱりわかる人がわかればいいものであり、わからない人はそれでいい。そんなものなのか、俳句、と思えてくる。

自分がなんらかの感慨を持った俳句は、わかりやすく平明な表現だった。玄人にしかわからぬ表現ではなかった。その取り合わせの妙や奥行きの深さや作者の懐の深さや悲鳴に似た感情の発露に感じ入ったのであり、奇を衒ったりハッタリをかましてくるような小手先の技術を振り回すようなものではなかった。(創作に行き詰まるとどぎつい言葉を使いハッタリをかまして煙に巻きたくなります)

わかる人にはわかる、知ってる人だけが知っている、そんな俳句は多分作れない。様式に拘泥するのも嫌だ。結局、自分の言葉で句を作るしかない。自分の目に見えるもので創造するしかないのだと思う。

特にわからないのは、この季語に何故この取り合わせなのか?というシロモノだ。その関連性が理解できない。知ってる人は知っていてなるほど、そう来たかと思えるのだろうけれど、まったく理解できない。

鮮烈な印象が残るものは理解できなくともその衝撃度でおおっ!と思うのだが、この「わけ知り顔」の俳句が一番よくわからない。勉強不足でそこまでは至らない。まあ、今はそれでもいいかと思える。

現代の俳人で著名な方はどんな句を作ってるんだろうと思いパラパラ覗いてみるけれど、意外に平易な言葉でさほど弄りまわさずに作っている、ように見える。それでいてほの温かい。作り手の年齢的なものもあるのだろうけれども、平易でわかりやすい。

年齢で言っては失礼か。いつまでも怒気をはらんだ激しい俳句を作る方もいる。俳句は(俳句に関わらず表現は)結局その人自身を表すものなのだろう。

さて、自分に関しては、権威に満ちた「これ」の押し付けが嫌で反発ばかりしている。俳句は、憧れて求めていく美しいもの、発露するものとして自分の中で位置付けられているので、それ以外はいらない。無論、組織での位置付けなど求めていない。組織に求めるものは、いかに自分を伸ばしてくれるか楽しいかだ。(書いていてとても幼稚なことを書いていると思います。そうするのは自分自身ででしょう?と心のどこかで声がします)

組織に身を置くと無意識に勉強になることが多い。意識しなくとも大量の知識を浴びるから。環境というのは大切なんだと思う。自分ももっとやらなくては、という気になる。気持ち大切。

そろそろ俳句やめようかな、と思った頃にまた引き留めるような出来事がある。なんなんだ、修行せよということか。

ということで、細々とのろのろと俳句修行は続くのでした。ムキにならずにダラダラやってみます。




この記事が参加している募集

熟成下書き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?