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教師と「空気」とは その4

教師と「空気」とは その1 その2 その3 の続きです。ちなみにこれは先日、世間学会で発表したものの抜粋です。

さて、教師の間にも「世間」が存在し、そのために何らかの(そしてさまざまな)「空気」が存在することが随分と明らかになってきました。

この記事では、教師の間に存在する「世間」「空気」の3大問題を紹介します。

問題点の根幹をなすのは「世間」の特徴で最も興味深い「所与性」の概念です。「所与性」とは英語でgivenと言いますが、得なくても与えられているデフォルト設定のようなものです。しかし、特徴的なのはその設定を変えることができないと思っている点です。例えば「世間」などの社会の仕組みは自分には変えることができない、と思われています。もしあなたが「社会や学校を一人で変えるのは無理だろう」と思ったのなら、あなたはすでにこの所与性を体現している存在のうちの一人です。たかまつななさんの記事にも「どうせ自分の意見は通らない」という諦めの社会」への問題点が指摘されていますが、まさにこれが所与性という訳です。

日本は八百万の神を信仰しているとはいいつつ、本当に信仰しているのは人間、しかも隣人だという話は結構有名で、神様より人間(のつながり)が神的な意味を持つ日本人な日本らではの感覚です。良く言えば、人間関係とその安定を他の世界とは比べ物にならないぐらいとーっても大事にしてるということでもあります。日本の社会はenvironment (環境)タイプよりはecology(生態系)タイプと言われていて、自分という人間が存在する大自然!という発想よりも、私と海や山がつながるエコロジーの一部〜という発想なのですよね。

少し脱線しましたが、その所与性が教育現場に入るとどうなるか
3つ問題点を指摘します。

① 教育現場 :変化を嫌う、どうせ無理という発想が蔓延
教師と「空気」とは その2 でも書きましたが、自分がやったことしか再現んできないという「再現モンスター」の登場です。学校や教師の共同体=所与なので、何かを変えようという発想がまず乏しい。新しいアイデアが学校現場でうまく行ことが大変なのにはこのような理由があります。そして
それは教え方、働き方を問わず、どのような場面でも出てくるでしょう。どうすればで変化できるかよりも、どうすれば今まで通りにできるかが場を制し、なぜか説得力を持ってしまう。そして批判的な議論の不在が横行。

② 教育改革:政策を理解する際の独特な思考の習性(クセ) (刈谷,2020)
ケンブリッジ大学で教鞭をとる苅谷剛彦教授は日本には政策を理解する際に独特な思考のクセがあると述べています。例えば、新しい指導要領が発表されてもそれに対しての根源的な批判・議論は不在で理解の周知・徹底やどのように実践するかの議論だけが豊富 だというのです。「多少の批判的検討や、陥りがちな問題点の指摘はあっても、改革がめざす新しい教育についてはまったくもって所与(given)であり、それに疑問を向ける議論はほとんどない」と述べています。例えばアクティブラーニングが流行った時を思い出してみてください。それ以前にもアクティブラーニングをすでに取り入れている学校や先生方はすでにいらっしゃったはずですがそこのハイライトは不十分。本当に自分の教え方や学校の特性にアクティブラーニングがあっているかもわからないのに、そこの議論は欠如したままグループ活動を取り入れたり、やらないといけないような気持ちになっていた方もいたのではないでしょうか。政策でも上層部では割と自由な発想で打ち出しているのに、現場に来る頃にはいろんなところからの伝言ゲームで何をどうしないといけないかまさに周知徹底に終始し、その中身の議論が少ない。そもそも決まったこと、言われたことを議論したところで「しょうがない」と思っている、そんな所与性がみて取れます。

③教師観の変化:学校の困難・問題は自分の力では対応不可
最後は教師の内面、アイデンティティに影響する所与性です。ある研究によると日本はアメリカ、韓国、スウェーデンと比べて最も発展した二重構造の職業アイデンティティを持っているそうです(長谷川・久富, 2006)。どういうことかというと、アイデンティティには安定因子(達成感、生徒との関係などポジティブなもの)と不安定因子(教育的価値観のずれ、学校の問題などネガティブなもの)があり、不安定因子が大きいとバーンアウト(過労)になるのですが、日本の場合はどちらも独立性が高く他の国ほどお互いを干渉しあっていない、というのです。なぜかというと学校の問題や課題など難しい出来事に対して「自分ではどうにもならない」と距離を置くことで自分を保っているから。自分が一人頑張ったところで何にもならん。私は知らん、私のせいではない、という感覚のこちらも所与性。そうすることでアイデンティティを安定させているのですが、教育的には何にも解決になっていないところが切ないところ。

ちなみに教師と「空気」とは その1 で話した日本の教師が無意識に追ってしまう日本独特の自己犠牲の精神はかつては安定因子でしたが、今は不安定因子にカテゴライズされています。自己犠牲の空気を追えば追うほど、教師のアイデンティティは揺らぐのです。また、最近では学校外に居場所を見つけようとする教員の増加も指摘されていて、今まで伝統的に続いていた教師の間にある「世間」に根ざした関係性への変化もみて取れます。

しかーし!ここからがまたミソなのですが、だからと言ってハッピーエンド🫶ではないのはなぜかというと、そのように教師が学校以外のところに場所を見つけたり、むしろ個人ベースで問題解決したいと思っている人が増えているにも関わらず、教師やおそらく多くの日本人のアイデンティの確保には周りからの承認や人間関係が大きく影響する点です。これはそんなに急には変わりません。

変化する学校現場と教師のアイデンティティや自主性とどうやって折り合いをつけていくのか、学校でどのように教師がこれから新しい価値観や働き方、教え方を見出していくことができるのか、わたしはこれからも考えていきたいと思っています。

長文、お読みいただきありがとうございました。これからも大学院で学んだことをこれからも少しずつお伝えしていくことで、日本の伝統的な教師文化を客観的、批判的に見るきっかけになればと思っています。またこの記事を日本の批判とだけとらないでいただけたら嬉しいです。日本には確固とした教師間の連携があるからこそできる教育や魅力もあります。それを海外に発信することも私も目標の一つです。また、これは一般論ではなく、もちろん当てはまらないケースももちろんありますのでご了承ください。特に私立学校や大学はまた別のオリエンテーションがあります。あくまでも大体の傾向として読んでいただけたら嬉しいです。

Teachers of Japanではティーチャーアイデンティティ (教師観)の発見を通じて日本の先生方がもっと自分らしく教育活動に専念し本来は多様である「教師」の姿を日本国内外へ発進しています。日本の先生の声をもっと世界へ!サポートいただけたら嬉しいです。