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キケン!「こども(生徒)のため」論

こんにちは。

私は、アメリカの大学院で日本の公立学校の特殊性について「空気を読む」といった点から(特に教員)が教育の質や教員の働く環境にどのように大きな変化をもたらせるか考えています。

今日は、「子どものため」議論の危険性について共有します。

みなさんは気がついていますか。特に公立学校では教員の議論が煮詰まってくると「こどものために」が正当化の盾として使われることがあるということに。そしてその危険性に。

議論が煮詰まり、様々な意見が出ても「こども(生徒)のため」と言われたら誰もNOと言えない「空気」になる。なぜなら「それはこどものためではない」ということは基本的には学校環境にはなく、ある意味正しいために反論しづらいのです。

例えば、社会教育学者でリスク研究者の内田良先生は教育シンポジウムで「子どものために」議論について2点触れていました。内田先生は「子どものためにが最終的な合意形成になる」と述べておられます。

こちらの動画は来週には一般公開されるそうです。同じような問題意識をお持ちの方ならとても面白い内容だと思います。

内田先生が述べられていた点を簡単に述べると、
ドラマ「聖職者のゆくえ」:このドラマの中で中学3年生の修学旅行への準備として中2の宿泊合宿等の必要性についての打ち合わせが2時間行われた。既に残業時間は過労死ラインを超えている。小学校で修学旅行を経験していることや教員の業務削減などが話し合われたが結局「子どものため」に中2での研修を実施となった。
運動会午前中開催のニュース:名古屋市の公立小学校の運動会が猛暑の影響で半日になったニュース。教員の負担軽減の目的が大きいはずなのに、教師はそうは言わない。「子どものため」に半日にするのである。

個人的な例も載せておきます。
コロナが最初に世界を襲った時、学校はオンラインに移行するのか、そしていつ再開するのか混乱しました。その時にも「子どものため」論がふりかざされた記憶があります。その時の様子は↓から読めます。

確かに、コロナ禍に学校を再開し通常運転することは「子どものため」であったでしょう。では、その時に自宅待機を選択した家族や「こども」の学ぶ権利はどうなったでしょうか。課題テストが同じように実施される学校も多かった中で、「こどものため」のフレーズのもとで不利益を被った生徒の存在はどのように正当化できるのでしょうか。

ちなみに、私立学校や大学、企業などは2020年のコロナが始まった時期に既にオンラインへの移行を積極的に取り入れていることがデータからも明らかになっています。それに比べても公立の学校現場では「子どものため」以上の踏み込んだ議論や分析が驚くほど少ない。

これは、公立学校の先生方が「通常運転」の問題点に無頓着というわけではありません。気づいたり、憂慮する先生方もいます。問題はそのような意識を持った先生方もいらっしゃるのにその声が反映されていない、支持されない、検討・分析されていないことです。

さて、いかがでしょうか。

教育が子どものためであることは大前提です。内田先生のおっしゃるようにそれが教育者間の最終合意のあり方であることの意義はありません。加えて「子どものため」の議論は様々なバリエーションがあり、それが新しい学習の機会を生徒に提供したり、さらに教育の質を高めることも多々あります。

重要なのは「子どものため」という言葉が時として、その他の働き方、学び方、学校の運営の仕方を追求することを阻止するために武器として使われいること。それに気が付くことです。この言葉を使う側も使われた側も。

大多数の「子どものため」にその他は犠牲にしてもいいのか、教師は疲弊しても、例年通りに研修を実施することが「子どものため」なのか、なぜ教員の負担軽減が「子どものため」であると堂々と言えないのか。単に「子どものため」という言葉を幼稚に軽々しく使うのではなく、ホリスティックで本質的な視点で何が「子どものため」なのかを議論できる学校環境を目指したいですね。私はそれができるためにはどうすればいいのかをこれからも考えていきます。

長くなったので、今日はこの辺で。


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