ベソスアカデミーに見る教育の民営化をどう考えるか

10月19日に開講するベソスアカデミー。そう、あのAmazonが経営に乗り出した学校です。Amazonの本拠地であるアメリカワシントン州のデモインという場所で低所得者向けの保育園を始めるようです。あまり詳しい情報はわからないのですが、生徒をお客(customer)と呼んでいたりして、結構衝撃的です。今週は大学院の授業でこの記事を扱うことがありました。公立学校の意義を考えるいい機会でもあったので、メモしておきます。

低所得者向けの無料教育機会の提供と聞くと、素晴らしい行動です。しかし、Amazonは2017年、2018年とほとんど税金を払っていません。日本でも法人税を納め出したのは最近です。ちろん違法な手段ではないので、ベソスが罪に問われるとかそういう話ではないのですし、むしろ問題なのは制度の方なのですが世界一の資産を持つ彼が税金を納めずに私的な学校を開こうとすることや公共財としての教育( public good )や教育のアカウンタビリティーや公正性(equity)についての話になりました。

まず、大前提として話されたのは「税金を納めることが公教育への一番の貢献である」ということ。そんなふうに考えた事がなかったので、なるほど〜、と関心。その第一の義務に対して貢献せずに、私的に学校を開いて行う「個人的な」貢献についてどう考えるかが議論のテーマでした。学校の内容が明らかになっていないので、何を教えるのか(モンテッソーリ教育に近いものらしい)、教員はどんなひとか、など謎だらけです。

ひとくちに学校の民営化と言っても賛否両論で、国によっても事情は異なります。しかし、それが入ってきた時点で格差が生まれることは確かなようです。公教育が全ての人に対して行うことが前提であるのに対して、私的な教育産業はどうしてもそこにアクセスできる人しか享受できない現実があります。昨年盛り上がっていた大学入試改革における英語検定試験の活用についても経済的や地理的にも不平等が発生する事はよく議論されてましたよね。中に教育産業に目くじらを立てて非協力的な人も見かけますが、要は個人的にはバランスの問題だろうと思います。これからICTがさらに活用されるともっともっと教育産業は公教育に介入してきますから、どういうスタンスをとれば公共性が保たれるか、またそれは何のために公共性を保つ必要があるかなど整理が必要だろうと思います。

一緒のディスカッショングループにいたモンゴル人のクラスメイトの話でしでは、モンゴルでは公教育にケンブリッジ英語が小学生から導入されることになったそうで、国を挙げて外部機関を活用している様子に驚きました。英語をどんどん勉強して、海外留学を促進しているそうです。帰国した人は政府の要職についたり起業したりして国の発展のために貢献すう事が多いようで、モンゴル人というよりは中身は西洋人ぽいというのを聞いて、どんな国の形になるのかな〜とか、日本だとそういうのって「違う人」って見られるんだけどな〜とか色々考えてしまいました。

国によっては民営化により公教育が危機に瀕するところもあります。特に、コロナによって世界銀行やIMFから開発援助を受けている国などは教育セクターに回せる予算が例年より少なくなることも想定されています。どうなるのでしょうか。

しかし、生徒を「お客」と呼んでいたら、まず生徒指導なんかはないんだろうな、とふと思ったのでありました。


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