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成熟した社会にふさわしい「空気」のあり方

空気を読む事に頼ることのの弊害については色々と整理ができてきました。

「空気」として科学的根拠や批判的思考に基づかない「前提」絶対的に信じる(信じるしかないと信じる)ことは、信じたいことしか信じないことを大衆の力で可能にしてしまうような社会になるということです。

山本七平の書いた「空気の研究」では負けると分かっている戦争に向かわせた「空気」の存在について何度も触れています。違う(Fake)だと分かっているのに言い出せない、そうするしかない、という「空気」を作っていく様はトランプ政権をも思わせました。

「空気を読む」力を適切に使わないと恐ろしい結果に結びついてしまう、という社会への警告は山本七平が最初に空気について本を書いた1977年から鳴らされていると言えるでしょう。
しかし、その警告に耳を傾けた人がどれほどいたでしょうか。

「空気を読む」力は日本人独特です。
一般的に息苦しい存在として話される「空気」ですが、海外にいると逆に「いい加減空気を読んでくれ!」と逆に言いたくなる事も多いのも事実です。
「空気を読む」その能力自体にはいい面も確かにあるはずです。思いやりや配慮などは海外でも重宝される能力のひとつですし、日本人としてこれからも大切にしていきたい能力でもあります。

「空気を読む」能力を良しとするのか悪しきとするのか、意見は分かれるところかもしれません。

歴史的に見ると「空気を読む」文化や風潮は西洋にもかつてあったと言われています。
しかし、その文化は時を経るにつれて廃れていきます。空気を読む能力は日本が負けると分かっている戦争に望んだように破滅的な結果をもたらすことをかつての民族は経験的に知っていたのでしょう。

成熟した社会とはどのような社会を言うのでしょうか。
皆さんはどうお考えでしょうか。

私は長らく日本のように集団主義であっても成熟した社会の実現は可能であると考えていました。個人主義の西洋だけが決して優れているのではありませんから。

しかし、今の日本の集団主義は個や個性を発揮できる社会とは言い難いでしょう。
個を潰す社会が成熟した社会であるはずがありません。そう考えるととってもスッキリしたのです。やっぱり今のままではいけない、と。

個性が輝き、集団としても機能する、そんな社会は無理だと思いますか?

そんな社会が実現できる国が日本であって欲しいなと思っています。
教育者として、できることを模索したいですね。

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