入門できすぎるという不幸
ここ最近安定感を欠いているせいか、今まで見る向きもしなかった方面の物事に突発的に関心を傾けることが多くなっていて、たとえば昨日であればマーラーを聴く機運が眠りにつく一時間ほど前に俄かに高まった。日中仕事をしているときには、今日の夜クラシック音楽が聴きたくなることなどまるで予想がつかなかった。そうと決まれば早速、といってまず私が取る行動は、「マーラー 入門」というワードを右手に掴んだスマートフォンの検索窓に入力することである。「に」と打てば「入門」が予測変換の第一候補としてサジェストされるようになっている。ここ最近入門を試みたものは、枚挙に暇がない。自由律俳句、インディゲーム、水木しげる、カレー作り、芸術系映画……。いずれも門に入ったところで終わってしまったものばかりだ。誰も入門しないようなマイナーなものをあえて選んで入門しようというなどという気概は今ではすっかり失われてしまっているから、「ほにゃらら 入門」と検索すれば、初心者に相応しい五選だの十選だのを、優しくて誰にでもわかる言葉をことさら心掛けていることが伝わってくる文章が、購入ページへと誘導するリンクとともにまとめられている。私はその文章を斜め読みして、その中でも入門に適していそうな一枚なり一作なりを選択すればよいのである。そして選んだものをAmazonで購入するなりそのままサブスクで視聴するなりすればいいのだ。この一連はもれなくベッドの中で行われている。実に簡易な手続きで新しいものに出会おうとしている。この気軽さというものが、感性を豊かにしたり生活の余暇を彩ってくれたりするということは、まるでない。あったとしても、極めて低い可能性のことでしかない。ひとつひとつを吟味することなしに次から次へと消費するというサイクルが自分の中にできあがってしまっている。こんな文章を書いてみたところで、自分がそれに影響されて行動を変えることもないだろう。マーラーの交響曲第1番はシカゴ交響楽団&ショルティのそれを基準として、そこからレパートリーは一向に増えないだろう。ほかの作曲家のクラシックに耳を広げていく可能性も疑わしい。あまりにも多種多様な門が、私に入られるのを待っている気がしてならないから。
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