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「7日間ブックカバーチャレンジ」第5日目…『死に至る病』

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facebookからの轉載。令和2年5月16日(土)執筆。

キルケゴール著。1849年刊。西洋哲學より、誰もがその名を知っている作品をと思ひ選んだ。


はつきり言つて、最初は極めて取つ付き難い。19世紀の異端哲學者として竝び稱されるニーチェの方が、遙かに取つ付きやすい。日本人には絕對的に分かり難いキリスト敎信仰の道を志向してゐる爲であらう。對して、それを否定するニーチェの方には、破壞の爽快感を感じるといふ點もあらう。
死に至る病が絕望であるといふことは周知の事實である。しかし、それは信仰へと至る大前提としての絕望である。さうした宗敎的感情を、掘り下げた。それも、徹底して掘り下げたし、客觀的問題ではなく、飽くまでも自己の問題として掘り下げた。


そんなことから、哲學の主流とされてきた體系化を志向するヘーゲル以前の哲學は過去の遺物と感じてしまふものが多い反面、キルケゴールは現代的だと感じてしまふ。日本人が必ずしもキリスト敎信仰を理解する必要はないが、「人間にとつての宗敎性」といふ問題は考へる必要がある。『死に至る病』は、さうした點で優れてゐると思ふ。人にとつて特定の宗敎は絕對に必要とは言へないが、宗敎性は誰もが持つてゐる。


餘談だが、以下の第一編冒頭部(斎藤信治譯、岩波文庫)を讀んで「一體この男の思考囘路はどうなつてゐるんだ」と興味を覺えた人は、キルケゴールと相性がいいのかもしれない。


 人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己で
 ある。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係する
 ところの関係である、すなわち関係ということには関係が
 自己自身に関係するものなることが含まれている、――そ
 れで自己とは単なる関係ではなしに、関係が自己自身に関
 係するというそのことである。人間は有限性と無限性との、
 時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、
 綜合である。要するに人間とは綜合である。綜合とは二つの
 ものの関係である。しかし、こう考えただけでは人間はいま
 だなんらの自己でもない。


キルケゴールは、大衆論も面白い。自分自身を「單獨者」と捉へたのは、「大衆」との關係においてである。キルケゴールの大衆論(『現代の批判』)をもつて、保守主義者と位置付ける例(西部邁『思想の英雄たち 保守の源流をたずねて』)があるのも興味深い。


バトンは、神職仲間の細山田さんへ。宜しくお願ひします。もしこれを見てゐたら。

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