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ホルクハイマーに関する試訳を投稿していきます。

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最近の記事

M・Horkheimer 『道具的理性批判』(ドイツ語初版)序言(1967)試訳

人間にとって目的だと見做されることになっている永遠の理念を問いただしそれ自身のうちに吸収することは、昔から理性と呼ばれている。それに対して、その都度偽られた目的のために手段を見つけ出すことは、今日では理性の商売事というだけでなく理性に固有の本質であると見做されている。かつて達成していた手段にすらならない目的などというものは迷信として現れている。神への服従が昔から神の好意を手に入れるための手段として用いられてきた一方で、支配や侵略のための出兵、テロリズムのあらゆる方法の合理化と

    • M・Horkheimer「科学と宗教に関するショーペンハウアーの思想」(1971)試訳

      ①近代哲学史において、ショーペンハウアーの著作はペシミズムの原型と見做されている。「…死がそれほど恐ろしくないのならば、誰がそのような生を耐え抜くのだろうか?―そして、生が喜びであるのならば、誰が死についての考えに少しでも我慢できることがあるだろうか!と同時に、しかし、依然としてあらゆる死は生の終わりのために善を保持し、我々は死とともにある生の苦しみと、生の苦しみとともにある死についての慰めを自身に与えるのだ。この両者というのは、それから逃れることがどれだけ願わしいことである

      • M・Horkheimer「今日のペシミズム」(1971)試訳

        大統領のお言葉に感謝します。今、私の念頭にある「今日のペシミズム」の理念についてお話しようと思います。 まず、ペシミズムの先史を指摘しましょう。すでに古代人はペシミズムを心得ていました。紀元前三世紀には(キュレネの)ヘゲシアスという、自殺が彼にとって正しい答えのように思われる世界を見てきた思想家がいました。彼の門下生は少しもこの帰結を歪めようともしませんでした。後に、ヘゲシアスは存命中にそのことについて繰り返し非難され、黙殺されていました。仮にヘゲシアスと懇意にしていたエピ

        • M・Horkheimer「完全な他なるものへの憧れ〈ヘルムート=グムニオールとの対談〉」(1970)試訳

          グムニオール:「現実の自由主義におけるあらゆる無限の概念は、この世の出来事の決定的な意識として、人間を修正不可能にまで見放す意識として維持し続けている。そしてこの概念は、社会を忌々しい楽観論から、新たな宗教としてそれ自身が了解している広がりから守っているのだ」この文章をマックス=ホルクハイマーは35歳の時にアメリカの亡命地で書いています。彼は当時、一年以上も前からニューヨークにいました。理論の創設者が生産過程としての社会活動を理解しようとした時、依然としてホルクハイマーは目下

        M・Horkheimer 『道具的理性批判』(ドイツ語初版)序言(1967)試訳

        • M・Horkheimer「科学と宗教に関するショーペンハウアーの思想」(1971)試訳

        • M・Horkheimer「今日のペシミズム」(1971)試訳

        • M・Horkheimer「完全な他なるものへの憧れ〈ヘルムート=グムニオールとの対談〉」(1970)試訳

          M・Horkheimer「楽観論者としてのショーペンハウアー」試訳

          ショーペンハウアーは決定的に楽観論者であった。また、世界の苦しみはライプニッツやヘーゲルまでの形式ばった楽観論を否定することはなく、独善的な形而上学というその場しのぎのでたらめを付加的に創作するだけであった。カントだけが単なる希望としての最高善を叙述したものである。ショーペンハウアーにおいては、生への意志の否定、つまり苦しみの終焉は個々の罠の中で形而上学的実在性として要求されている。また、ショーペンハウアーによって他の言葉を用いつつ、原罪のような何か、つまり孤独状態からの個々

          M・Horkheimer「楽観論者としてのショーペンハウアー」試訳

          M・Horkheimer 「 科学と危機についての覚書」(1932)試訳

          ①科学は社会のマルクス理論においては人間的な生産諸力に数えられる。先進諸国自身の中で低層階級に属する人々に与えられる自然や人間世界についての簡単な認識形態以後、過去数世紀にわたって科学とともに発展してきた、思考の通常の変遷の条件として、とりわけ、彼らの諸発見が社会的生活の形式に決定的に参与する研究者の精神的な能力の構成要素として、科学というのは、現代産業システムを可能にしている。科学が社会的諸価値を生み出すための手段として、つまり、生産形式における手段として公式化している限り

          M・Horkheimer 「 科学と危機についての覚書」(1932)試訳