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M. Horkheimer「社会科学における予言の問題」(1933)

①問いがその討議についての社会学的予見(Voraussicht/ prévision)に従って根底に置かれてきたことはすでに次のような理由から、より良い思考である。すなわち、社会学でさえ普遍的で文化的な危機に参与してきたことが、そうした予見の中にとりわけ明らかに姿を現しているという理由からである。予見の可能性は、現実的なものについてのあらゆる科学にとって試金石である。現在の歴史的状況において社会学に向けられているような強大なエネルギ―は、原理的に過去を筋の通るように配列しようとすることはできるものの、未来を形成しようとすることはできない試みの助けとなる洞察は、必然的にこうした著しい科学的な骨折りについてかなり否定的な判断と同然に違いないだろう。

②もしも私の親切が私自身を見殺しにしなかったのならば、提示されたテーゼにおいてでも、予想(Vorhersagen)によって根本的な可能性は反論されることはない。それどころか、こうした専門家会議の出席者の全列はある具体的な現象を示してきた。すなわち、自身を顧慮に入れながら出席者の全列の意見がかなり高度な蓋然性の度合いを伴っている予言(Voraussage)に従って形成されうるような具体的な現象である。それにもかかわらず私には、支配的な見解が、その端緒の中で新たな科学に生気を与えるあの自信、すなわち懐疑的な慎重さによって特徴づけられているように見える。そしてこのことはまた、予見の信頼性よりも予見の効果と安全度合いの制限を大いに重視することの最も実証的な解答の中にある。こうした用心深さは、過去数十年、とりわけ過去数年で国民経済学を含む社会学を生み出した諸経験から容易に理解されうる。偉大な明敏さとともに打ち立てられた体系的なカテゴリーのカプセルが、現在的な体系の折に発展する現実に直接適用される様々な事例の中で次のことが姿を現す。すなわち、社会学ないし国民経済学は普遍的な意識以前のこの時点で何かを先行して持つことはほとんどなかった、ということである。その上、しばしばその逆が生じた。つまり、今日支配的な社会学や国民経済学のそれとはまったく異なる基盤に自分たちの見解が基づき、その上たいていはそうした基盤に鋭く対立していた人々のグループは、自分たちの判断によって正当化されるのに対して、専門家は拒絶されてきたのである。今日、人々のグループの多くが、あまりに規定されすぎている諸理論を認めることよりも未来についての予言の可能性を用心深く制限する傾向にあることは不思議ではない。

④それに対して私はそこで次のことを強調したく思う。すなわち、今日なおも科学の目的は、未来の次元が必然的に属しているプロセスの認識であるということを。暗示された風潮すれすれで実証的なものを懐疑的な異議の向こう側で明確に際立たせることは、全く無益であるということではない。実証的なものは、予見がたいていは論理的で科学理論的なカテゴリーとは異なるものを形成しないことによって姿を現す。こうした予見の性格、それを使用することの意味、その可能性、到達されつつある蓋然性、これらは単に社会学者の思慮深さや有能さから独立しているだけでなく、同じ程度に彼らの時代の社会諸関係の構造からも独立している。予想の問題を非歴史的に取り扱うことは、社会学の理論と社会的出来事の間に(この問題が)ある場合、科学とその対象との静態的な関係を前提としている。しかし、こうした見解は同時代の哲学の中で長い間乗り越えられてきた。それどころかこの哲学は主観と客観の間にある非歴史的な対象についての普遍的な教説を拒否し、主観と客観の動態的な関係それ自身における認識行為の両極が社会プロセスに向けてともに相関関係にあることを認識していた。繰り返すが、是が非でも社会についての科学的な理論の意図に属している未来をその都度ありうる形で規定することは、それゆえ、全社会的諸関係の発展からは独立しているのである。

⑤このことをわずかな語句で検討するために、私はあの専門家会議の書記であるデュプラ教授が自身の著作「社会学的予見研究入門」[1]で整理したある違いから出発する。その違いとは、prévisionとprédictionの違い、すなわち予見と予言の違いである。自然科学は判断の両類型、「抽象的な諸類型」に関連するprévision(予見)と「具体的な諸事実もしくは諸事象」に関連するprédiction(予言)の両類型を認識している。新たな科学はこの意味において予見になろうとしただけであり、予言になろうとしたわけではない―引用された論文は容易に理解可能である―ということを主張しようとしてきた理論は、事実、誤り始めている。あらゆる科学が主張するように自然科学が最後に取り除くいくつかの予言はまさにこのことを述べている。予見の意味での「抽象的な諸類型」は、法則(Gesetze)であり、そのような法則としての意味に即して常に肉体的条件に関する形式を保持している。この「抽象的な諸類型」は、一定の条件が現実の中で与えられているとき、常に一定の諸事象が生じねばならない、ということを意味する。したがって、金は常に溶解しているということは自然科学的な予見なのである。事実、このことは王水においては引き起こされ、例えば希硫酸においてでは引き起こされない。他の予見では、例えば次のことに関連している。すなわち、鉄について知られている方法で変形は生じる。事実、一定の重さは力の作用を及ぼしている。これら反論の余地がなく確かな言明は、確実に単なる予見である。というのも、これら言明は次のことについて何も述べていないからである。つまり、底で要求される諸条件はいつ与えられるのか、そして与えられるのかどうか、このことについて何も述べていないからである。私はこの点でデュプラ氏と一致している。

⑥しかし、このことから、マルクスが試みたような未来への具体的な予言はほとんど不可能であるか、少なくともそれが粗悪な科学性からできているに違いないと結論づけることはできない。諸法則はなるほど科学作用の目的ではないが、単なる補助手段である。結局いつでも問題なのは、抽象的な法則の公式によって具体化されすぎた実存論的諸判断(Existenzialurteilen)を無視することであり、この諸判断は全自然科学的領域上で単に過去と現在を対象とするだけでは決してなく、常に未来でさえ対象としているのだ。もし特定の状況において手許にある物質が「ここにあるこれはである」と証言するならば、そのとき仮定文は引用された例の中ではじめてその現実の意義を獲得する。しかしこうした言明は、もし導出された仮の法則がすべて認識されているのなら、そのとき必然的に、金の一部分である金属は実際に溶けて希硫酸になることはないが、王水になるという主張を包摂することになる。講義室の中の実験者は予言をやってのける。「私は今、黄色の塊を酸の中に放り込む。それは溶解していない。次いで、私はこの塊をあれとは異なる酸の中に放り込む。それは溶解している」と。同じく鉄の変形についての導出された普遍的命題は、一定の力の作用が生じるとき、予言のための前提条件を形成する。例えばこの前提条件は、特急列車のエンジンを新しい橋の上で唸らせる運転手の休息の中で明らかになる。「このエンジンが壊れることはないだろう。というのも、これは特定の金属の種類からできているどころか、このエンジンはより高い負荷にも耐えられるからだ」。自然科学どころか全科学において問題なのは、すでに述べたように、そうした実存論的諸判断である。この諸判断は常に時間のあらゆる次元についての言明を含んでいる。自然における事物について単純に断定することでもって予言は定められる。「これはチョークである」と呼ばれている。つまり、このチョークはこの黒板の上で線を発生させるのである。「これはさくらんぼである」と呼ばれている。つまり、君はこれを食べることができるのである。同じように「この温度計は零度を下回っている」と呼ばれる。つまり、水は凍ることになる。判断された客体の現在、過去そして未来があらゆる命題において同時に関係されているのは、知覚の断片が知覚された出来事の時間的な構造と一致する必要がないからである。言うまでもなく、我々は、抽象的な法則の形式から現実の事物についての具体的な諸命題への移行のもとで、絶対的な確信を喪失している。このことを明らかにすることはできる。すなわち、あの黄色い金属の一部は金ではありえないし、金属物質に欠点がないことはありえないのだからあの橋は壊れうる。そして、さくらんぼはベラドンナでありうるし、そして水でさえ、大気の変化によって零度以下でも液体の凝集状態を維持することができるかもしれない。このことは全く確実に正しい。しかしそこで問題になるのは、抽象的な諸命題の意味が具体的な諸命題の中で満たされ、あらゆる予見の意味が予言の中で満たされねばならない、という指摘である。もし抽象的なものの意義がその絶え間ない実践的な使用によってでさえコントロールされず、事情によっては変化を余儀なくされているのだとすれば、抽象的なものというのは必然的に現実から疎外されねばならず、最終的に目的を喪失するどころか、それは虚偽とならざるをえない。

⑦これを社会学に適用することは、たやすく生じてしまう。自由な市場経済の下で必然的に危機が生じ、この危機をなおも先鋭化する独占もまた同様に生じざるをえないという命題は、予見である。我々はそうした経済様式の中で生活しているという、これら諸条件が現在与えられているという洞察はすでに、次のような予言を包含している。すなわち、時間的中断による危機もまた、長期にわたって和らぐことはない、という予言である。この予言は、リベラルな経済を自己止揚することや社会的な矛盾を先鋭化させることについての歴史学的な予測(Prognose)を描き出している。この理論それ自身は、そこで議論の側に立つことはない。私はこうした理論への指摘を通じて、社会学においてどのように判断の両類型、すなわち予見と予言は必然的に相互補完の関係にあるのか、ということを示そうとしただけであった。仮説的な予見、すなわち理論―この場合は経済様式と危機の間にある連関についての教説―というのは、その意味や信頼性に応じて、このような予見が自己とは反対に我々の知覚、具体的な実存論的諸判断、我々の実践的な活動一般を規定するような社会的実現に依存しているのである。

⑧しかし私は、我が方法論上の思考プロセスを社会学に適用することによる原理的な異議の一連を期待している。私はとある唯一の思考プロセスだけを取り出し、それに反応したいのである。すなわち、私が挙げた自然科学の例における予言の可能性は単に、言明を述べる完全に単一なその人が法則それ自身の有効性に対する必然的な諸条件をもたらすことが可能な状態である、ということによって実現するのだろうか?あの化学者が金を実際に王水の中に放り込むことを決心してはじめて、もちろんその化学者は金が本当に溶解するであろうことを予言することが許される。私が実際にチョークで線を描こうとしてはじめて、黒板にある白い線についての私の予言は有効であるのだ。換言すると、自然における予言は任意の実験に関連があるのであり、自然の中に実験は存在しないのだから、社会学がそうした予言を含んでいなければならないのである。いまや私は、こうした異議がただ特定の場合にのみ関わり、原理には関わらないことをすでにあなた方は認めていると信じている。エンジン全開の列車の運転手は実験ができない。というのも、自然の力というのは、もはやこの運転手が橋を目前にして列車を静止させることを運転手の意のままにさせることがないからであるが、彼は次のように釈明しようとするだろう。「エンジンが壊れることはないだろう」と。―そして自然の中で水は一定の氷点下で我々の助けなしに凍りつく。いや、我々が単純に述べることができない認識の広範な領域は存在する。「こうした諸条件が与えられている場合に備えてあの出来事が生じてくるのではない」。そうではなく、「いまやこうした諸条件は与えられており、そういうわけであの期待された出来事もまた、我々の意志それ自体が一役買うこともなく、生じてくるのだ」。それゆえ、純粋論理的にこの異議は取るに足りないことなのである。

⑨それにもかかわらず、こうした異議は社会学に対して問題になる。必然的な諸条件の生起が、見越す(vorhersagen)ものそれ自体に依存しているのならば、たしかに予言だけが可能であるものは正しいとはいえない。しかし、前提となっている関係が人間の意志に依存していればいるほど、つまり予言の作用が盲目な自然の産物ではなく、理性的決断の作用であればあるほど、それだけいっそう、予言というのは蓋然性のあるものになるだろう。社会学は初回的な事象と関わり合わねばならないので、社会学の予言はその事象についてあらゆる他の科学よりも適切なものでなければならないということが信仰されうる。というのも、社会それ自身は行為せし人間から構成されているからだ。似たような検討から飛び出してすでにジャンバッティスタ・ヴィーコは、デカルトとカルテジアンとは対照的に、本来的な科学への歴史を明らかにしていた。それ以来、現在の社会を顧慮して予言がなおも人間の外部にある自然以上に重大になりうることを我々が経験してきたとき、このことはヴィーコが原理的に過ちを犯しているということの証拠になってはいない。むしろこの予言は、社会の諸事象がいまだに人間的自由の産物であるから不完全なのでは決してなく、社会の諸事象が拮抗する諸力を盲目に作用することの当然の結果なのだから不完全なのだ。我々の社会がそこでの生活を維持し刷新するような性質は、目的をもった行為としての自然メカニズムの進展とほとんど同じである。それゆえ社会学者は、本質的に未知の出来事のようなそうした性質に直面している。社会学者はこうした未知の出来事に関係させられており、また、任意の様式に参与させられている。しかし、社会学者の課題は、この出来事を観察者として受け入れ、記録し、記述し、可能ならば明らかにすることに存する。社会の諸事象は言うまでもなく、人々を調停することによって引き起こされるが、それにもかかわらず、人々から剥ぎ取られた運命的な出来事として体験される。善悪問わず安定した景気、戦争、自由、革命、時代というのは、人間に対して、善悪問わず天候や地震、疫病と同じように独立した自然現象として姿を見せる。このような自然現象を明らかにすることは試みられねばならないが、その予言は、当然ながら極限の危険と見做されている。

⑩こうした状態は永遠でもなければ、人間諸力の今日の発展段階にも相応しくない。現在、社会的な諸事象を人間の計画に従わせることへの全く異なった始まりが姿を見せている。場合によっては、あとになってからもう一度、この時代が社会的機構の単に自然的でありそれゆえ悪しき諸機能から、社会的諸力の意識的な共通作用への移行と見做されることになるかもしれない。いずれにせよ、あなた方は次のことについて私に同意することになるだろう。すなわち、社会の出来事の単一な意志への不十分な依存関係は変更不能でなければならないわけではなく、今日の社会的状況の特殊な構造の独自性の中で基礎づけられうる、ということである。なるほど、単一の組織や計画の意味においてこうした構造をますます変化させることでもって予言もまた、安全の高度な度合いを獲得することになるだろうという法則は、―我々の問題を顧慮に入れても―公式化されうる。社会的な生が盲目な自然現象の性格をますます喪失し、ますます社会が理性的主体として成立する準備を整えれば、それだけいっそう社会的な事象もまた、はっきりと予言されうることになる。未来についての社会学的諸判断における現在の不確実性は、現在の社会的な不確実性一般の写し鏡にすぎない。

⑪したがって、予言の可能性はもっぱら方法の純化や社会学者たちの洞察力の鋭さに依存するものではない。そうではなく、同程度に彼らの対象の発展、すなわち社会それ自体の構造の変化にも依存している。予言が社会領域上よりも人間の外部にある自然の領域上でのほうが必然的に容易であるということを言いたいわけでは全く無い。むしろ予言が容易になればそれだけいっそう、単なる自然における予言の対象は縮小し、その対象は人間の自由に従属させられるのである。というのも、真の人間的自由は無条件のものや単なる任意のものと同一に扱われうることはなく、この自由は理性的な決断を通じて我々の内外での自然を支配することと一致しているからである。こうした状況が社会にとって典型となるために、社会学者たちの課題だけでなく人類が前進しようとする力が全部ひっくるめて存在する。そして、厳密な予言を手に入れるための社会学者たちの骨折りは、理性的社会の実現を目指す政治的な努力に転化するのである。



[1] デュプラ「社会学的予見研究入門」『国際社会学ジャーナル』1932.

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