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M・Horkheimer「今日のペシミズム」(1971)試訳

大統領のお言葉に感謝します。今、私の念頭にある「今日のペシミズム」の理念についてお話しようと思います。

まず、ペシミズムの先史を指摘しましょう。すでに古代人はペシミズムを心得ていました。紀元前三世紀には(キュレネの)ヘゲシアスという、自殺が彼にとって正しい答えのように思われる世界を見てきた思想家がいました。彼の門下生は少しもこの帰結を歪めようともしませんでした。後に、ヘゲシアスは存命中にそのことについて繰り返し非難され、黙殺されていました。仮にヘゲシアスと懇意にしていたエピクロス派の中でペシミズムがラディカルな方法であるように思われていたら、ショーペンハウアーから現在までの全精神史におけるストア派的な方向性と同じ様になっていたでしょう。ペシミスティックな哲学は総じて、形而上学と同様に科学と宗教とともにありました。世俗的思想と宗教的思想の対立はヨーロッパの中に、特にルネサンス以降、広まっていきました。以前、広範な社会諸階層の中でもその後19世紀から20世紀まで、神や神々を信じず彼らを否定してきた個々人は、多くの人間にとって無神論者などではなく、単に制限されていたのであり、どうかしていたのです。全知全能の存在に導かれることも創造されることもなく、地上がそこにあるとどうして主張できるか、とほとんどの人は考えたのです。まず、ガリレオの発見や新たな世界像のその他の創始者の帰結として、それ自身無限小の球体を無限大の他の球体のもとで形成した太陽の周辺を飛び回る宇宙の一片としての地上が現れて以来、それから研究と神学との対立は明らかとなっています。しかし、未だにショーペンハウアーの時代や、彼固有の見解に応じるという両方でさえ、社会の維持のために必要であった当時、両者を結びつける試みが必要となりました。そうした努力は、偉大な近代哲学の社会的意義にとって最重要な基礎の一つを形成したのです。

こうした統一は困難を極めました。科学は認識と仮説、つまり事実によってすでに証明するか、未だ厳密に吟味されうる諸命題を含んでいます。その他は非真理となっています。科学的な研究は、正しい空間的時間的立場によって、信頼できるアーカイブを含めて重要なデータを規定することを可能にする形式を発見しようと努力しています。そうした実証主義を前にして、どのように宗教、すなわち創世記や神的な支配というのは救われねばならないのでしょうか?宗教改革は信仰の概念による問いを解消することを考えていました。実際の真偽と並んで、それらに従って試験的な厳密さではない神の言葉、すなわち宗教改革者によって訳された聖書とは別の言葉が存在しています。そうして、ヨーロッパの人間性の大部分のために判決が下されたもの、互いについて独立したどころか人間的生における矛盾した分野である信仰と知の両分野の妥当性が生じました。宗教は精神の引き出しになり、科学はその他のものの引き出しとなりました。両者は単に理論ではなく実践において受け入れていました。機会を規定する決められた日のうちに、宗教に応じて、その他の点では現実的に目的にかなったことに相応しく振る舞っていました。

 近代哲学の最重要モチーフの一つは次の点にあります。すなわち、宗教の根本概念、とりわけ神概念を科学とともに一致させるということです。先入観にとらわれない哲学的功績をデカルト以来、精神史上ではなく人間性の関心から読み取る人は、認識理論的な範囲において明確に確証される著名な哲学者の独創性が神の証明の過渡期によって慎み深い結合能力に変化するような経験をすることになるでしょう。デカルト自身、周知のように覆しようのない真理を発見するために、要するに疑いえないものを発見するために、ひたすらすべてのものを疑う必要がありました。そうすることで、デカルトはコギタチオ、意識の事実、否定の余地のない所与性、その起源と意義を追い出しましたが、問いを引き出すその確実性を追い出すことはしませんでした。そうした事実の秩序つまり四次元空間の同一構造における思考事実を消化することは、主観すなわち知性の反抗性の知的機能の事象、つまり人間による自己保存の一道具であります。学問が構想に近づいているこうした知性の反抗性とともに、あの偉大な観念的近代哲学が始まったのです。しかし、神概念は体験を精密に加工することに基づかずに、伝統的なもの、すなわち意識的かつ無意識的な情念を通じて、宗教的な組織化を問うことなくして存在しない思考に基づいています。完全無欠な本質の現存在についてのデカルトの証明は、スコラ哲学を超え出ることなく、一般にスコラ哲学の結果生じたように思われます。デカルト以後、全能なものを人間的に表象することでもって、この現実を含めて考えねばならないのです。永遠は存在せねばなりません。というのも、この世における主体というのは、明晰判明に主体の意識に固有である、永遠についての終わりなき卓越した理念を自身の諸力からでは作り出すことができないからです。人間が「それ」を考えることができることは、「それ」の存在証明とみなされます。「…神もまた存在するということは、私が存在し、完全無欠な本質すなわち神の理念が私の内に存在することを通じてのみ理解されるという終局に、ひとはあらゆる方法を用いて至らねばならぬ」神学概念が問題であるのならば、デカルト主義者の功績の鋭い洞察力に対してこの論証は、近代哲学の生産力の欠如を明らかにしています。例えば、論理的原理のような我々の理性こそ疑わしい理念の一部であると考えたライプニッツは、真理の理念と並べて神の理念もまた述べていました。

 慈悲深いものの存在についての慰めの思考を維持しようとする試みのための先例は、カント哲学を形成しました。この哲学が、思想的に突如現れた最重要なものの一部であるということは、否定できません。創造者の現存在についてのカント特有の証明は、自身が否定したスコラ的証明に少しも勝っていません。彼は、汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ、という戒律、すなわち定言命法がすべての人間の内に住み着いていることを明らかにしました。すべての人間はあらゆる他者を単に手段として扱うのではなく、同時に目的として扱わねばならないので、カントは同様の意味で、すべての存在者は彼自身のように前進することを欲することができねばなりませんでした。そうした命法、最終的にずばり個人を前にした尊敬以外なにものでもないものがすべての人間の中で重要な関心事であると述べることは極端であり、カントの次のような主張から結論を引き出すことはさらに極端であります。すなわち、生得の戒律というのは、あらかじめその戒律の意のままになるための自由を規定し、神にしか主体に自由を与えることはできないという主張です。最高の本質の存在は、カントによってこうして立証され、この存在は最終的に理性が住み着いている戒律から推論されます。創造者だけが戒律を付与できたのです。この証明はデカルトの証明以上に逃れられないように思われます。デカルトとカントが肯定的な来世の確証を基礎づけることに移行するとき、そして根拠のあることよりも楽観的である理念をあらわにしようとするとき、最高に偉大な思想家(デカルトとカント)によって、明敏さというものは取り除かれてしまいました。

 哲学史は、その歴史が追求してきた目標、つまり科学と宗教の宥和が理論的には成されえないということを示しています。それとともに、すでにルネサンス以来本気で危機にさらされたものというのは消滅しました。それはつまり、超越論的なものから生まれた生の意味、すなわちこの時代の恐怖をすでに数千年に渡って認識し経験してきたすべての人間の憧れ(die Sehnsucht)の対象であります。生きるのに必要不可欠かつ生命に関わる科学の研究と神学的意味の結びつきの解消は、予期せぬ同一性のように必然的に、専ら悪を前にした善の否定神学的な優位、真なる愛、生死に対する誠実さ、そして幸福や不幸に関わっています。仮にこれらが合目的性から善なるものや劣っているものにさえ委ねることがないのなら、なぜこれらはその逆として善いものであらねばならないのでしょうか?健康な人間の生というのは、フロイトの定義によると、働き、喜ぶ力があることらしいです。あらゆるこうした能力のひとつの目的は、歴史が巨大なカタストロフが全くなく進行するとき、動物の能力よりも聡明になり、同時に少しもリアリティがないものとなります。純粋にプラグマティックな諸傾向でないものへの没入は、子供だましに過ぎません。

 哲学的試みが挫折してしまった後、固有の理論と実践の内にある譲歩を介した科学との対立を減らすための理論的な裁き手は、いまや面倒なことになってしまいました。実証主義の勝利は密かに高く評価されています。私が思うに、宗教の自由主義化は理論的な宥和が機能不全になったことを告白しています。生の意味は幻覚となりました。ショーペンハウアーは次のような帰結を引き出しました。すなわち、他なる生物の苦しみから分かつことのできない固有の生の悪徳への洞察は正しい、つまり、苦しみ続けている人間と動物との統一、自己愛(ナルシシズム)からの離反、最終目的としての個々の安寧への欲望からの離反、望んで人格ではなく普遍的なもの、すなわち無の中の死を目指す統一は正しいということです。ペシミズムは生への意志の否定です。仮に例えば今日共産主義的正義の名におけるテロリズムのような過去数世紀が隣人愛の宗教の名の下での形容しがたい拷問や殺人を際立たせているのならば、現在、静止した現存在は往々にして、自身にずっと起き続けているものの恐怖に負っています。当然、深淵なる真理として原罪からの教えを受け入れた、多くの生の領域における振る舞いを通じて原罪は、日々新しく証明されています。ひとは進歩した社会の多くの勢力圏を示す政治と外交にだけ思いを寄せています。仮に左右のファシズム体制の同志たちが、自身は大量殺人者であることを知っていたのだとしても、西側の国の大臣はそうした体制の同志たちと握手をします。現代史を熟知しているあらゆる人間が驚愕していた一方で、こうした同志たちを、大衆を前にして親しげに根拠付けていることがあります。同時に、微笑むことは正しいのです。というのも、正しさというのは彼らの国や緊急緩和の利害関心の内で起こるからです。しかし、そのような場面は原罪の一つひとつとは異なった集団が不可分であるという例であり、好ましい生というのは、過去や現在の悪行を前提としているのです。

 もしも慈悲深き存在、つまりあの世での最高秩序についての思想、そして拡大しているプラグマティックな科学主義であるこの世界としての他なるもの(ein Andere)についての思想が最終的に消滅せねばならないのならば、ショーペンハウアーが認めたペシミズムは最後の形而上学的真理として残ります。彼のペシミズムはラディカルなものではありませんが、宗教的、キリスト教的、仏教史的諸理念は彼の作品の内に存在しています。キリスト教への近さについて私はすでに述べました。仏教は信仰であり、最終的にあらゆる生命は、仏教が由来している統一の内に戻っていきます。個性というのは無常であるものの、他なるもの、絶対的なもの、そして永遠を指し示すといいます。ショーペンハウアーに従えば、もし意志が他の個性に影響する個体として作用するのならば、意志などというものはくだらないだけでありますが、もし個体が「然り」と言う代わりに他の存在とともに個体の真なる同一性を実現し、個人特有のものとして他の存在の苦しみを意識するのならば、意志はくだらないものではないのです。ブッダの教説の意味に従えば、エゴイスティックでナルシシズム的な生への意志は、ショーペンハウアーが「それ自体」、専ら意志として把握する総体の内で死ぬとき、消滅することになります。

 とどのつまり、もはやペシミスティックでない、宗教と似通った形而上学的な期待は、哲学的反省を必要としています。カントにとっても多性(die Vielheit)は絶対とは見做されず、観照の主観的形式の結果と見做されています。ユダヤ―キリスト教的宗教と同様にその領域の思想家にとって、多性や絶対、無制限よりも高次の単一性は、単数にすぎません。ひとはこう問うことができました。なぜ神、すなわち一なるもの(Eine)は古代世界観における神々よりも多いのか?と。万象すなわち無と同様の普遍へ帰すること(死)でさえ、多性に対する単一性の概念の優位に基づいています。そのような序列が初期支配形態の帰結であるような何かは、社会的に自身が事実であると考えさせるのでしょうか?いずれにせよ、宗教や哲学においてその何かの妥当性は、論理的にその逆よりも確かであることはないように思えます。現象つまり現実世界としての他の現実についての諸テーゼは、彼自身の作品の内で明言された戒律を傷つけ、無効としてしまったカント以後、思想に関して矛盾に陥る専門分野にさえ関係してしまっています。そのような問いによってペシミズムは強固なものとなりました。来世、天空、天国に関する教説は今日、もはや厳密な思想と一致することはありません。神的な権威の理念は、プラグマティックで実証主義的な予想でないものすべてと同様に古めかしいものとなって現れます。愛すなわちエロティックな憧れ(die Sehnsucht)でさえ、技術進歩ゆえに追い抜かれてしまいました。というのも、洗練された暮らしを通じた欲求よりも性的享楽の方がピルを容易に実現できるからです。かつてロミオとジュリエット、ファウストとグレートヒェンなどによって愛や悲しみそして希望を表現してきた芸術や詩は、博物館的になってしまいました。生理学的心理学的機能を科学的に探求することでさえ、すでに人間の図像を成立させることを止めてしまいました。科学的洞察は、その都度統合によって精算されることなく、技巧的で特別な認識上で解消してしまったのです。およそ50年前の普通の医者がまだ今日の医者のように個々の臓器を全く知らなかったことは真実でありますが、その医者が個々の患者に多くの時間を割くとき、しばしばその医者は若者、その父親、その家族にわたってその患者の人生そしてその患者自身のことは少ししか知っていなかったのです。もしも専門家のチームが病気や症状を超えて単に専門的な判断を形成するだけでなく、その判断の完全な有様を考慮に入れた治療を公式化しようとするのならば、その専門家チームは集まらねばなりません。多くの青少年は、いくつもの他の規律におけるのと同様に薬においても、最小の事物について綿密な認識があるにも関わらず、なにかあるものが秩序の中にはないということに気がついています。個々の諸科学の中で専門化する知的進歩を精算しようとする理性的思考は、大学や学校が証明するように、発展に遅れをとっています。かつて諸科学の成果を統一することによって世界の図像を得ようと試みた哲学でさえ、結局、断念してしまいました。このプロセスは必要不可欠です。個人は、取るに足らない理解であろうと、たいてい実際に、全体の理解にまで教育されることはできません。いずれにしても、個人は自身のがっちりと周りを固められた労働共同体の向こう岸であらゆる権限を喪失してしまいます。個人は社会の善悪の生によって規定されている機能によって、ますます強力で社会的な装置の歯車になっていますし、その歯車の装置の奉仕者になっているのです。

 ショーペンハウアー以来、ペシミズムはさらに広くなっていく土壌を社会的に発展させる状態に行き着いてしまいました。死と同様に生において、哲学やまずもって正当な神学の最重要なテーマを形成していた個々人の運命は、ただ来世においてだけでなく、素朴な現実においてでも、その個々人の意味を喪失してしまっています。合理的に、公正に社会が機能すればするほど、万物はますます代替可能になり、それぞれの個性の差異は狭まっていきます。歴史の内在的論理(Die innere Logik der Geschichte)は単に階級格差を撤廃することを示しているのではなく、集団によって限定された個々人の間にある差異も指し示しています。もしも戦争や他のカタストロフが、全世界を包括する自己保存の諸機能への進行をこの世で妨げることがないのならば、人間性などというものは、他の生物と同様に画一的な種属になってしまいます。そして想像力、宗教と憧れ(die Sehnsucht)、それ自らで自律している思考は、種々の(der Species)時代遅れとなった自惚れとして姿を現します。精算された未来は現在の恐怖に従属します。現在と予測可能な未来との混沌は一時的なものであるのです。かつて文化と呼び、不正による多くの理由に基づいて、個人的な感情の表現としての芸術や、単なる表象としての最高の存在ないし他なるものに捧げられた宗教を解消できなかったものは意味を失い、もはやその損失が埋め合わせられることはありません。しかし、思考する者ないし一匹狼は、他のもの、すなわちショーペンハウアーにとって核心となる美徳や共苦、共喜、それどころかこの俗世とは異なる他なるものへの現代的でない憧れ(die Sehnsucht)と並ぶ、全く文化から守れないことを試すことができました。我々の哲学者(ショーペンハウアー)は、次のように言います。すでにエンペドクレスは「我々の現存在の惨めさを完全に見極めていた。……そして、世界は惨めであり、ほぼ真なるキリスト者同然の嘆きの谷(ein Jam-mertal)である。エンペドクレスは、後期プラトンのように、世界を、我々が閉じ込められていた真っ暗な穴と比べている。我々の現実存在において、エンペドクレスは、追放と惨めさの一つの状態を見ている」と。古代ペシミズムは、続行されるままになってしまいましたが、血みどろの中世そして現在の恐怖政治によってだけでなく、社会的発展への洞察によってでも増大してしまいました。事実、技術的進歩と同様の革新が、偉大な物質的同一性とともに新たな諸秩序を生じさせているとしても、文化は、かつてそれが主人の所有物であったような幸福でいる能力を拡大させましたが、以前から抑制してきたものの上で適切に広まることはありませんでした。結局、正しい社会と同時にあらゆる善なる諸力の具体化は必然的に人間の内に現実化されるというマルクスの想像は、彼の鋭い洞察力にも関わらずユートピアであり、さらには古典的な想像よりも極端であります。

 ショーペンハウアーについて、私が見た限り、ペシミズムは、どれほどそれが今日の状況に適応しようとも、絶対ではありません。仮に方法論が救いを形成するのならば、ペシミズムは、利己心に拘束されないあらゆるものの帰還を普遍的な意志の内で教授します。それゆえショーペンハウアーの諸著作の他の部分によってと同様に、ペシミズムは、キリスト教に結び付けられています。ペシミズムは一つの慰めを知っています。今日、我々がそのことについてうっかり口にされうるような諸動機はだんだんと弱まっているということが言われるままとなっています。ひとえに、過去の苦しみや現在の不正、精神的意味を欠く未来への展望について心得ている人間と共同するという、進歩それ自身によって危険にさらされた憧れ(die Sehnsucht)が依然として残っています。もしもそうした人間が集まるのならば、この憧れ(die Sehnsucht)は、独断的ではない方法で、それ自身において神学的な契機を包含する一つの連帯(eine Sölidarität)を基礎付けることができるでしょう。「批判的理論」(››Kritische Theorie‹‹)としてのフランクフルトをそこにおいて認めるものが、その連帯の最後の否定的姿勢と結びつくことになるでしょう。そうした姿勢の憧れ(die Sehnsucht)によって結びつけられたものは、絶対者つまり超感性的存在や神ないし救済については何も語り得ず、知識すなわち各々の知識を絶対的真理として明言できませんが、連帯(die Solidarität)を広めることはでき、それでも、いかに支払っている必然的な進歩がかけがえのないものなのかということに直面しても、苦しみを減少させるために変化され保存されうるものを示す能力はあります。全宇宙の悪を肝に銘じつつ、それらすべての能力にもかかわらず可能なものをより良くしようと試みる、非楽観主義的でない実践は理論的なペシミズムと結びつくのです。神と悪魔についてのこうした実践に固有の判断は、あの連帯(die Solidarität)における諸活動を絶対的な真理とは見做さないでしょう。その固有の判断が諸事実を立証することに限定しない限りで、諸活動はいつでもそうした判断の連関を意識するようになります。

 即席で私は、なぜペシミズムは生産的でありえたのかということをなおも暗示するのと同様に、何か今日の世界について相応しいものに寄与できるのか、ということを試みました。敵と任命したヘーゲルと同様にショーペンハウアーは、いや、それどころかこうした無駄な試みの中での偉大な哲学というのは、まずもってそうした反省を可能にしました。ペシミズムは史的-哲学的(historisch-philosophische)経験と偉大な哲学の継承者とを一致させようとしています。ペシミズムの普及は、さらなる善人を、至るところでいやます独占的専門教育としてもたらしうるでしょう。

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