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8. 概念モデルの言語論理学からの考察 ~ Frege、Russel、Wittgenstein


はじめに

このコラム集の、”3. モデリングとは ~ 現象学からの考察”では、”Art of Conceptual Modeling”で解説している概念モデリングの妥当性について、哲学的な観点からの考察の一貫として、フッサールの現象学の観点からの考察を解説しました。個人的には十分な考察が出来たかなと自画自賛しているのですが、モデリングの役割を考えると、言語や論理学からの考察を加えると、更に考察に厚みが加わるだろうと考えています。
と、いうことで、今回は、現代論理学の基礎になっている、フレーゲ(Frege)、ラッセル(Russel)、ウィットゲンシュタイン(Wittgenstein)の言語哲学を基にした考察を解説していく事にします。

参考にした本

なんといっても、私は哲学のプロフェッショナルではない(ある意味汚い言い訳w)ので、それぞれの哲学者が書いた著述を直接読むのではなく、要点をまとめてくれている一般書籍の解説を参考に考察を進めることにします。
今回使ったのは、

です。

Frege から Russel、そして Wittgenstein への流れ

先ずは、「言語哲学がはじまる」で解説されている言語哲学の流れとポイントを簡単に紹介しておきます。

新たな意味の算出可能性の問題

この本のとっかかり(P3)で挙げられている、言語に関する最大の問題は、

  • 有限の語彙と文法からなる言語を使って、何故、”新たな意味を持った文を際限なく作り続けることが出来るのか

  • 生み出された文を、何故、容易に理解する事が出来るのか

というものです。この本は、この問いを、20世紀の哲学者たちが、どのように哲学的に解明(説明ではない)していったかを解説しています。
言語哲学系では、人間の思考は、言葉があって初めて成り立つ、という考え方があるようです。少なくとも、思索にふけりつつ、社会的な営みを健全に回して生きていくのに必要な思考は、言葉がなければ成り立たない、という意見には基本的に賛成というのが私の意見です。だからこそ、図で補強された言葉で記述するモデルが、人間の世界に対する理解を記述できるわけですから。

この本の冒頭を簡潔に略そうと思ったのですが、なかなかに難しそうなので、適宜、引用していく事にします。

語彙と文法を適当に組み合わせれば、新しい意味を持つ文を幾らでも作れそうな気がするのは当たり前のことに思えます。例えば、「猫が富士山に登った」(本文P3より)なんて、簡単に作る事が出来ます。それで、作成した文を理解するにあたっても、この文を構成する語のそれぞれの意味が判れば、理解するのは簡単に思えます。が、

文の意味を理解する前に、まず語の意味を理解しているのでなければならない。「猫が富士山に登った」という文を理解する前に。「猫」、「富士山」、「登った」という語の意味を知っていなければならない。これも当然のことと思えます。だけど、このあたりから、実は怪しくなってきているのです。文の意味の理解は語の意味の理解から成り立っている。では、語の意味とは何か。それを文の意味について論じる前に考えておかなくちゃいけない。この当然とも思える考え方をひっくり返したのが、フレーゲなのです。

「言語哲学がはじまる」 P5

ということで、この単純な考えは浅はかのようです。

個別性と一般性のギャップ

何故かというと、この考え方をよくよく吟味していくと、”個別性と一般性のギャップ”という問題に先ずぶち当たります。

「猫」の意味は一般性を持っている。しかし実際に出会えるのは、個別の猫でしかない。ならば、どうやって私たちは「猫」の意味を理解しているのか。

「言語哲学がはじまる」 P18

”一般性の意味を持つ「猫」はどこにいるのか、それは我々の心の中だよ”とジョン・ロックという哲学者は考えたそうで、そのような概念的な存在を”一般観念”とか”抽象観念”と呼ぶようです。これ、いわゆる、フッサールの現象学で否定されていた、プラトン流のイデアと同じに思えます。
何故壁にぶち当たるか、詳しくは、「言語哲学がはじまる」を読んでほしいのですが、

  • 「猫」の意味はその後の指示対象である

  • 「猫」の意味は一般性を持っている

  • 実際に出会えるのは個別の猫でしかない

が正しいとするとする考え方を”一般観念説”と呼ぶことにします。

個別の猫たちから一般観念を抽象する。「猫」という語の指示対象はこうして心の中に形成された猫の一般概念である。

「哲学がはじまる」P22 ‐ 一般観念説

この考え方に対する批判は以下の通り。

  • 一般観念とは何か

    • 各人が心の中で思い浮かべた「猫」はしょせん個別の猫でしかありえない

  • 一般観念説はコミュニケーションを不可能にする

    • 他人の心の中は覗けないので、他人が思い浮かべている「猫」が、自分が思い浮かべている「猫」と同じか判断できない

  • 観念もまた個別的でしかない

    • 他人の思い浮かべる観念だけでなく、自分の中で思い浮かべている観念も、その時々の個別な観念にすぎない

結果的に、

…道端や公園といった環境の中で出会うのは全て個別の猫たちでしかないように思われます。他方、「猫」という語は猫一般を意味しているでしょう。そう考えると、「猫」という語の指示対象は世界の中には存在しないように思われてきます。

「言語哲学がはじまる」 P35

であり、

文の意味に先立ってまず語の意味を捉えようという方針

「言語哲学がはじまる」 P36

これが間違いだという結論です。では、どう考えるか。それを、ラッセル、ウィットゲンシュタインは考察しました。

私たちは、ただ対象に出会うのではなく、事実に出会う

ウィットゲンシュタインの「論理哲学論考」の冒頭は、

1. 世界は成立していることがらの総体である
1.1. 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない

「言語哲学がはじまる」 P39

で始まるそうです。おぅ…これ、概念モデリングの概念情報モデルに通じる考え方ですね…。これは後に詳しく考察することにして先に進めます。
要するに、一般概念説が破綻しているのは、”ことがら(事実)の総体”であって、”ものの総体”ではないのにも関わらず、先に事実から切り離された個々のものの意味が共有されていると考える点にあるようです。
つまり、語の意味からはじめるのではなく、文の意味から出発する、という事です。

語は文との関係においてのみ意味を持つ

要約するのが面倒なので、引用しますね。

銘記されるべきは、完全な文の全体
語の内容が表象不可能であるからといって、それは、その語にいかなる意味も与えず、使用を禁じる理由にはならない。一見すると表象不可能性がそのように解されると思えるのは、語を孤立させたうえで考察し、意味を問い、そうして表象を意味と解してしまうからであろう。かくして、心の中に対応するイメージが存在しない語はまったく無内容に思えてしまう。しかし、つねに銘記されるべきは、完全な文の全体である。そこにおいてのみ、語は本来意味をもつ。そのさいときおり心の中に思い浮かぶイメージは、必ずしも判断の論理的構成要素に対応しているとは限らない。文が全体として意義をもつならば十分なのであり、それによって文の部分も内容を得るのである。

「言語哲学がはじまる」 P43

このように、文全体を基本にすえることを、”文脈原理”と呼び、その逆の、”語の意味は文の意味以前に語だけで確定する”という袋小路に陥る基本的な考え方の事は”要素主義”と呼ばれています。
「言語哲学がはじまる」のP45で、甲板や幕板、脚などの部品から組み立てられた机が例として挙げられています。これらの部品はテーブルの部品であってはじめて、甲板、幕板、脚という意味が生じるのであって、バラバラなら、単なる、あるサイズに切り分けられた木工部材にすぎないという事です。おぅ…これも、私が良く概念モデリングのドメインの考え方を話すときに使うロジックと同じですね…。まぁそれも後ほど詳しく考察することにして先に進みます。
大事なので繰り返しますね。

文脈原理
文の意味との関係においてのみ語の意味は決まる

「言語哲学がはじまる」 P46

この原理は、フッサールの、

人間の世界を事実としての世界としてでなく、「関係の世界」、すなわちたえず「意味」と「価値」の連環として編み変えられている「関係の世界」として捉える事、これが「世界」を「本質」としてとらえる視点の核心

現象学的還元、コギタチオ(意識体験)

にも通じるなと思いながら話を進めます。

述語を関数として捉える

ここで事実と文の関係を考えます。言葉の重要な働きを考えると、”世界のあり方を描写する”ことであるのは間違いありませんと。
おっ…圏論で考察したことに近いぞ…と思いながら話を進めます。
そうであれば、言葉の意味を世界との関係に捉えようと考えるのは自然です。この捉え方としては、

  • 指示という関係

  • 真偽という関係

の二つが候補になりますが、前者は結局一般観念の議論につながって袋小路にはまってしまうので、候補からは外れます。結局、筋が良いのは、後者であり、

文はある事実のもとで真偽になる
真偽を文と世界の基本的関係と捉えると、個別性と一般性のギャップにも悩まされる必要はなくなります。「ミケが寝ている」という一般的内容をもった文は、ある場面での特定の事実のもとで真になる、このことになんの奇妙さもありません

「言語哲学がはじまる」 P50

ということで、真偽という関係を基本に捉えて、そこから考えていくというのが、論理哲学の基本だそうです。
以上を踏まえ、”ミケは猫だ”という文を考えてみると、この文において、「猫」は述語として用いられています。「ミケ」の部分を「…」に変えると、「…」の部分に、「タマ」とか「ポチ」とか「夏目漱石」とか、文法的には何を入れても良く、それぞれについて世界のありようをもとに、真、偽が決まります。そうすると、「…は猫だ」という文は、「…」の部分に何らかの語を入れると、真偽が決まるので、述語は関数と捉えて良いということになります。
歴史的には、述語のことをフレーゲは単に”関数”と呼び、ラッセルは、”命題関数”と呼んだそうです。実は微妙に両者の意味は異なるようですが。
で、述語を命題関数として捉えることは、文脈原理とも矛盾しません。

「…は猫だ」という述語の意味を<xは猫だ>という命題関数として捉えるという考えは、まさに文脈原理の考え方ー語の意味はその語だけでは決まらない。文の意味との関係においてのみ、語の意味は決まるーに従っています。

「言語哲学がはじまる」 P59

「言語哲学がはじまる」では、この後延々と説明が続きますが、要するに、”新たな意味の算出可能性の問題”の解決の糸口は、”述語”を”命題”と捉えた”文脈原理”であるというお話。
また、”命題関数”という用語から容易に連想がつくと思いますが、論理学でよく出てくる、”すべての”とか”存在する”とか、”かつ”、”または”、”でない”という”論理語(論理定項)”の紹介があって、論理語を使うと、文を組み合わせることができます。これらを使えば、基本的な命題を組み合わせて、更に長い文を作っていく事ができます。

文=命題⇒文の意味=真偽への関数…え?

ここまでの説明をまとめると、あらゆる文は命題として記述することができて、その文の意味は、世界に対して真か偽かであることになります。
え?それで充分なの?って思いませんか?
※ この議論、圏論でも似たような話が出てくるんですよね…多分、言っている事は同じな気がする…
だって、「猫」という語の意味は、”真”か”偽”かっておかしいでしょう!
※ なんとなく頭に、NHK の笑わない数学のパンサー尾形の姿が浮かんだぞ(笑)
で、フレーゲはどうしたかというと、「意味」には実は二つの意味があるのだと考えたそうな…
そこで出てきたのが、”指示対象”と”意義”という二つの考え方。で、その二つを、そのもとになっている二つの用語と共に説明しておきます。

  • 外延

    • ある概念に対して、その概念に当てはまる対象

    • ⇒ Bedeutung :指示対象

    • その言葉が”何を”しめすか

  • 内包

    • ある概念を取り出すときの属性

    • ⇒ Sinn : 意義

    • その言葉がその指示対象を”いかに”指すか

命題関数は外延的な捉え方で、普通に我々が文の意味と思いがちなのが、”意義”ってわけですね。「言語哲学がはじまる」でも書かれてますが、”意義”とか言うと、大仰な感じでこちらの方が重要な気がしますが、単なる”意義”という用語であることにご注意。

他にも、信念文的なものはどうするんだとか、色々と解説があるので、「言語哲学がはじまる」を読んでもらう事にして、話を巻き気味に進めます。
ここでフレーゲ的な枠組みをまとめておくと、

フレーゲ的枠組み
文脈原理合成原理の提唱
固有名、述語、文は、指示対象意義という二つの意味の側面をもつ

「言語哲学がはじまる」 P111

実は、この枠組み、上手くいかないらしいんですね…。文脈原理は良くても、合成原理がNG
結果として、ラッセル、ウィットゲンシュタインに続くことになります。

ウィットゲンシュタイン的枠組み

あれ?ラッセルは?はいはい、そういう人は、「言語哲学がはじまる」を読んでくださいね。あ、でも用語の説明がないとNGなので、そこだけ書いていきますね。
ラッセルが提唱したアイデアの中には、”記述理論”というものです。

記述理論
確定記述を用いた文は、命題関数を用いて、その命題関数に当てはまるものがただ一つ存在することを主張する文に読み替えることができる

「言語哲学がはじまる」 P133

確定記述とは、”伊藤博文”のような固有名ではなく、”初代内閣総理大臣”のような属性によって対象を特定するような記述のことだそうです。
ラッセルは、文の二つの側面の内、”意義”は認めず、”指示対象”のみで論理を構成しようとしたそうです。その論考をもとに、「知識の理論」という本の草稿を書いて自信満々で出版しようとしていたらしいのですが、ウィットゲンシュタインの批判を受けて、出版を取りやめたそうです。
どうやら、”指示対象”だけでは要素主義に陥って文脈原理をみたさなくなってしまい、結局、一般観念の時と同じように袋小路にはまってしまうらしいです。
それにしても、「知識の理論」を書いたときのラッセルは既に超有名な論理学者だったらしいのですが、無名の若造に批判されて、それを素直に受け入れたらしいですね。いやぁ、ラッセルっていい奴じゃん!私もそうありたいものです。

ウィットゲンシュタインの批判とは、既に前の方で書いた、

1. 世界は成立していることがらの総体である
1.1. 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない

「言語哲学がはじまる」 P180

です。要するに、ラッセルの立場は”指示対象”のみで文の意味を考えるということで、”指示対象”=”もの”なので、それだけだと世界を記述することにはならない、ってわけです。ラッセルの論考には”文脈原理”が欠けている…なんと!そりゃ駄目だ!

では、ウィットゲンシュタインの主張はどういうものかというと、”指示対象”も必要ないという考え方。ウィットゲンシュタインがやりたかったのは、哲学的な観点から、人間の思考の限界を見定めることであって、思考が言語を組み立てるのではなく、そもそも、

言語が思考を成立させるのであって、言語以前の思考という考えには意味がない

「言語哲学がはじまる」 P177

であると説いたんだそうです。なるほどね。”思考”という言葉は結構漠とした言葉ですけど、系統だって何かを考えたり、複数人で何かをやっていくためには、言語がないと成り立たないよね、と、考えれば納得です。要するに、ここで”思考”と呼んでいるなにかは、そういうものだという定義と言っても良いでしょう。

他に、「言語哲学がはじまる」の解説で、なるほど…と思ったのが、ウィットゲンシュタインは、新たな意味の算出可能性の問題について、説明したのではなく、解明したいのだ、という点。

  • 説明

    • 自然科学的な取り組み

  • 解明

    • 哲学的な取り組み

これ、面白いなと思いました。そういう意味では、私の概念モデリングに対する、哲学的な観点からのアプローチ=解明、数学的な観点からのアプローチ=説明、だなぁ…と、妙に納得した次第。
この辺りのテーマを私がプレゼンする時には、ちゃんとこの二つを区別して説明することにしたので、聞く側も、そういう意識で聞いてもらえるとよろし。

ちなみに、思考可能なものの”総体”の事を、”論理空間”と呼ぶそうです。
「言語哲学がはじまる」のP182 あたりの説明では、我々が非現実の可能性も含めて様々に考えることができるのは、

  • 言語を使って、事実から対象を取り出して可能的な事態に組み立てなおす

ことができるからだ、というのがウィットゲンシュタインの主張

対象を分節化するときには、同時にそれによってどのような可能的な事態が考えられるのか了解されていなければならない

「言語哲学がはじまる」 P188

つまり、

…まず現実に成立している事実を対象に分節化してから、その後で可能的な事態が思考可能になると考えたくなるところですが、これは実状ではありません。対象が分節化されるときには、その対象がどのような可能的な事態に現れうるかも同時に理解されているのです。ある対象について、それがどのような可能的な事態に現れうるかということを、ウィットゲンシュタインは「論理形式」と呼びます。これは「論考」の最重要概念です。

「言語哲学がはじまる」 P191

ということだそうです。”論理形式”には以下の二つがあります。P194

  • 対象の論理形式

    • その対象がどの可能的な事態に現れうるか、その論理的可能性のこと

  • 語の論理形式

    • その語がどの有意味な文に現れうるか、その論理的可能性のこと

たぶん、この文面を読んだだけだと、なんのこっちゃだと思います。理解したければ、「言語哲学がはじまる」を買って、熟読してくださいね。
※ この辺り、圏論で整理できそうとおもいつつ…

この二つ、循環してない?と感じる人もいると思いますが、対象の論理形式と語の論理形式は同時に成り立っているので、循環的説明ではないとのこと。

「全体は部分から理解され、同時に部分は全体から理解される」という「解釈学的循環」という考え方に馴染んでいる人には違和感なく受け入れられるでしょう。

「言語哲学がはじまる」 P205

なるほど…なんというか、この判り難さは、概念モデリングにおけるドメインの説明が難しい理由と同じっぽい感じがします…
こういう、ウィットゲンシュタインの言語観を

  • 全体論的言語観

というそうです。そして、

論理空間 可能な世界の集合

「言語哲学がはじまる」 P210

だそうです。
加えて、記述理論ならば、一昔前の AI が自動生成したような、語を文法に従って並べただけのでたらめな文章が意味を成さない文は、無意味であることを明確に説明(ラッセルの論だけでもいいのかも)できます。それを含めると、文は、大きく、”有意味”と”無意味”に分類でき、さらに、

  • 有意味

    • 現実の世界に合っている ⇒ 真

    • 現実の世界に合っていない ⇒ 偽

  • 無意味

という三つの分類のどれかになります。

ウィットゲンシュタインの枠組みについてまとめられている文面を引用しておきます。

…語は対象を表し、語の理解には論理形式の理解が伴っているとします。そしてそこから論理空間を形成して、論理空間上で文の真理条件を捉えます。ここにおいて、語の意義は考えられていません。また文の意味としては真理条件しか考えません。

「言語哲学がはじまる」 P222

ということで、フレーゲが必要とした、外延と内包は必要ないということでした。

多分、言語哲学自体は、今も進化を続けていると思いますが、まぁ、プロの哲学者ではない身の私としては、論理学の哲学的基礎としてこの程度まで知っていたら十分だと思うので、このセクションはここで終わりにします。

概念モデルの考察

以上を踏まえて、フッサールの現象学や圏論を踏まえた私の感想を交えながら、概念モデリングで作成するモデルについて考えていきます。
ちなみに、私の理解では、現象学や圏論で行った考察と矛盾するところは何もなかったと判断しているので、このコラム集で前に書いた記事と何ら矛盾するものはなく、それらも土台にした考察であることにご留意ください。

個別性と一般性のギャップ、及び、命題関数

これ、既に、”Art of Conceptual Modeling” を読んだ人なら、完全に、

  • 個別性 ⇒ 概念インスタンス

  • 一般性 ⇒ 概念クラス

じゃない…と思うでしょうね。で、思い出してください。「ミケは猫だ」っていう例文。これは、「…は猫だ」が、「ミケ」に当たる部分を変数とする命題関数だよって話でしたね。ならば、

  • 概念クラスは概念インスタンスに対する命題関数である

といえるでしょう。
また、概念クラス特徴値の組(これはこれでいわゆる、外延だよね)の関係もまた、形容詞の述語としての命題関数と考えられるでしょう。例えば、「そのリンゴは赤い」という文があったとすると、「そのリンゴ」は目の前にあるリンゴでしょうから、論理文風に、
「目の前にあるのはリンゴであり、かつ、リンゴには色という特徴値があり、そのリンゴの色という特徴値の値は、赤だ」
と、書き換えれば、なるほどそうだなと感じるでしょう。
加えて、「言語哲学がはじまる」の P73 に”関係述語”という用語が出てきますが、これは明らかに、概念情報モデルの概念クラスの間に定義された Relationship(日本語で”関係”と書くと紛らわしいのでこのコラムでは英語表現で統一)、もしくは、Relationship を雛形にした概念インスタンスの間に張られたリンクと考えられます。
加えて、「そのリンゴはとても赤い」というような文における「とても」は副詞ですが、これも、色という特徴値の値の赤には何種類かあって、関係述語(リンク)でつながった何かの概念インスタンスが持っている、赤みの基準をもとに比較している、もしくは、色という特徴値の赤みは単なる列挙値ではなく大小関係もあり、「…はリンゴである」という命題関数が真になる概念インスタンス群の色の値の中央値や平均値に対して上位にある、というようなことを記述する文に変換すれば、副詞もまた概念情報モデルの道具立てで記述する事ができるでしょう。

要するに、

  • ”概念情報モデル”で記述する、概念クラス、特徴値、Relationship は、概念インスタンスとリンクを規定しつつ、一般性の語で、言語で記述するのと同等の能力をもつ

という、概念情報モデルの記述の有効性を示していることと同義であると考えられます。ということは、概念情報モデルの道具立てを使えば、言語と同様、”新たな意味の算出が無限に可能”であるといえることになります。
ただし、文が現実と合致するには、有意味でかつ、意味が真でなければならないので、現実を記述する概念情報モデルは、有意味な命題関数を記述でき、かつ、それに従って存在が許される概念インスタンス群とリンク群は、真でなければならないという制約がつきます。この制約は、概念情報モデル作成時の、そのモデルが現実世界に合致したモデルであるかを検証する際の基礎になります。モデラーは、この制約を骨身に沁みさせてモデルを作らなければなりません。

話は逸れますが、「言語哲学がはじまる」P18 の個別性と一般性のギャップという問題に関する議論は、問題意識は異なりますが、圏論による考察で書いた、世界と一対一のインスタンス、リンクの世界と、クラス、Relationship の世界の話と論理の展開が似ているなぁ…と感じました。

文脈原理と記述理論、そして、全体的言語観

まず、ウィットゲンシュタインの、

言語が思考を成立させるのであって、言語以前の思考という考えには意味がない

「言語哲学がはじまる」 P177

この考え方と、前節の”概念情報モデル=言語”と併せれば、私の概念モデリングに対する疑問の「現実世界の対象を”概念モデリング”で正しくモデル化(記述)できるのか?」の答えは、そもそも現実世界の対象を認識するのは思考であり、思考は言語でしか成り立たないので、言語と同じ能力を有する概念情報モデルをベースとする概念モデルの道具立てがなければ、思考は成り立たないという前提条件になり、かつ、概念モデルは命題関数を記述できるので、この問いに Yes と答えることは、こちらも前節で書いたように、

  • 概念モデルが有意味でかつ、意味が真になる命題を作れること

と同義になります。現象学での考察を加えれば、概念モデルがそうなっていることを、関係者全員が同意すること、という条件が加われば、私の第一の疑問の「現実という”客観”の世界と人間の”主観”を通じて認識した世界は一致するか」に対して、Yes と答えるための十分な根拠になると思われます。また、私の第二の疑問の「一致するとして、その記述方法として”概念モデリング”は適切か」については、文と同等の概念モデルの命題関数作成能力があるということで、こちらも Yes と答える根拠になるでしょう。

ちなみに、「圏論の歩き方」の第10、11章では、なんとなくラッセルレベルで止まっている(ということは要素主義の破綻の問題をはらんでいるかも)論理の様な気もするのですが、その後の論理学の展開が解説されているので、興味のある人はそちらも読んでみてください。
個人的には、圏論の各書籍の説明では、「そもそもモデルって何なのよ?」という定義が欠けている気がするのは私だけでしょうかね。

さて、文脈原理ですが、

文脈原理
文の意味との関係においてのみ語の意味は決まる

「言語哲学がはじまる」 P46

というものでした。これ、概念情報モデルの道具立てである、概念クラスとRelationship 双方の重要性に直結しているなと思うわけです。一方で、ラッセルが陥った、そっち行くと袋小路にはまるよ、という、要素主義をもとにした合成原理もまた、興味深いですね。
モデリング初学者が描くモデルは、個別性と一般性の区別がついていないものが多いという大きな問題はとりあえずおいておいても、無意識のうちに、概念クラスにのみ意識があてられて Relationship がおろそかになり、雑に線が引かれているだけのモデルが多い印象があります。
※ あれ、オブジェクト指向プログラミングと、OMT法由来の Composit (Associate)の記法のせいじゃないかと疑っている私
これは、知らず知らずのうちに、要素主義に陥っているんじゃないかと思うわけですね。要素の意味が確定しているなら、後は文法に従ってはめ込めば、意味が成り立つだろうという合成原理を知らず知らずのうちに実践しているという状態。文脈原理だけでなく、

1. 世界は成立していることがらの総体である
1.1. 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない

「言語哲学がはじまる」 P180

対象を分節化するときには、同時にそれによってどのような可能的な事態が考えられるのか了解されていなければならない

「言語哲学がはじまる」 P188

…まず現実に成立している事実を対象に分節化してから、その後で可能的な事態が思考可能になると考えたくなるところですが、これは実状ではありません。対象が分節化されるときには、その対象がどのような可能的な事態に現れうるかも同時に理解されているのです。ある対象について、それがどのような可能的な事態に現れうるかということを、ウィットゲンシュタインは「論理形式」と呼びます。これは「論考」の最重要概念です。

「言語哲学がはじまる」 P191

辺りを読み合わせれば、概念クラス(あるいは概念インスタンス)だけでは、世界の総体は記述できないし、その概念クラス(あるいは概念インスタンス)の意味も確定できないということになります。
何が言いたいかというと、世界を記述するための肝は、概念クラス(あるいは概念インスタンス)ではなく、むしろ、Relationship(あるいはリンク)だということです。Relationship(あるいはリンク)が記述されることによって、はじめて、命題関数の構成が可能になるからです。
ついでに言っておくと、概念クラスに対して定義される特徴値の組(あるいは概念インスタンスの値が確定した特徴値の組)もまた、命題関数の構成を可能にする要素であるので、特徴値もまた、おろそかにはできません。

ただね… Relationship については、もう一つ気になるところがあるんですね。「言語哲学がはじまる」P57 で、”関係述語”という用語が解説されています。これは、概念情報モデルの Relationship に相当する話ですね。「言語哲学がはじまる」には、「x は y の親だ」という例文が出てきます。これは、”x” を主体にした ”y”の述語ですよね。じゃぁこの逆は何なのよ?っていうのが私はとても気になるんですよ。現実世界にこの文の命題関数を真にする事実があったとすれば、 y を主体にした x の述語に相当する事実も必ずあるはずですよね。であれば、「yxz だ」という文が記述できるはずで、この z は何なのか?
え?、の反対は子供だから、「yx子供だ」でいいんじゃないかって?そんなに単純でいいんですか?どんな状況を記述するかによって、z にはいろんな述語が当てはまりますよね。ならば、その述語を特定してあげないと、結局、xy の意味も確定しないことになります。
現実世界を記述した文(モデル)の意味を確定するには、Relationshi の両側に、それぞれの概念クラスから見た、述語(Relationship の両端に定義する意味に相当)の定義が必要が必要なのは間違いありません。
しかし、olog や OWL、DTDL 等のオントロジー系モデルの記述方法は、概念クラスに相当する要素に従属した形式で Relationship を定義するものが多く、これ、要素主義、合成原理をベースにしているのでは?と疑った次第です。特に DTDL は、Relationship の定義を Interface の定義に従属させるのではなく、独立して定義できるように変更したほうが良いと思う。まぁそうすると OWL ベースの RDF を素直に変換できなくなるけどね。OWL の場合、この Relationship の双方向性をどう定義するのか、そのうち、調べてみることにします。更に言えば、Relational Theory も、Relationship を主として考え直すと、違う新しい世界が見える気がします。
現実世界を記述する適切なモデルを描きたいと思っているよい子のみなさん、是非、Relationship をちゃんと定義してくださいね。

さて、次は、全体的言語観です。「言語哲学がはじまる」から引用しますね。

ラッセルは要素主義的に一つひとつの語について語の意味を考えようとしました。フレーゲは「文の意味との関係においてのみ語の意味は決まる」と、文脈原理を提唱しました。ウィットゲンシュタインは文脈原理を文から言語全体へと最大限に拡張したといってもいいでしょう。このように、「言語全体との関係においてのみ語の意味も決まる」とする考え方を「全体論的言語観」と言います。

「言語哲学がはじまる」 P204

文脈原理について、フレーゲのそれは、文それぞれを対象しているのに対して、ウィットゲンシュタインは、文単体ではなく、その文を成り立たせている言語全体を対象にしているという大きな違いがあります。
これは、概念モデリングでいうところのドメインの考え方に合致しているように思えます。概念モデリングにおいては、概念モデルを、概念クラス名、特徴値名、Relationship の意味(両端)、事象名、状態名、アクションで言葉を使って記述していきます。それらの言葉が何を意味するかは、そのモデル化の対象世界(論理空間)の範囲との関係においてのみ決まる、ということになります。この考え方を胸に刻んで、”Art of Conceptual Modeling” のドメインに関する説明を読みなおしてみてください。

「全体は部分から理解され、同時に部分は全体から理解される」という「解釈学的循環」という考え方に馴染んでいる人には違和感なく受け入れられるでしょう。

「言語哲学がはじまる」 P205

再度この文面を引用してみました。「言語哲学がはじまる」の P205のこの文章の前の文章も含めて読んでみてください。
私は未だに、概念モデリングのドメインというコンセプトを、自分が腹落ちする形で、簡潔に、そして、正確に説明するステートメントを持てていません。
概念モデリングによるモデリングを行う場合は、そのモデル化対象の世界 ‐ つまり、ドメイン ‐ を意識しながら、概念クラスや Relationship、特徴値を抽出し形式化していきます。モデリング初期の時点では、ドメインは曖昧で漠としていますが、そのドメインの観点に従って、概念モデルを構成する各要素が、対象とするドメインにおいて意味を成すか、無意味かを判断しながら抽出、形式化を繰り返しながら、最終的には、特徴値を持つ概念クラス群と Relationship 群、状態モデル、アクション記述のモデル群全体で、ドメインは厳密に定義されます。これは、「全体は部分から理解され」に相当します。同時に、モデル群を構成する基本単位は、そのドメインにおいてのみ妥当であるので、「部分は全体から理解される」と言えます。
「言語哲学がはじまる」では、ウィットゲンシュタインの取組の目的が、言語・思考の謎を説明するのでなく、解明することにあるので、これでよいと説明されています。
という事は、概念モデリングもまた、モデル化したい対象世界を説明するのではなく、解明するものなのかもしれません。

圏論との関係性

このコラム集の、”5.概念モデリングに関する圏論的考察”を書くにあたり、圏論の書籍を買い漁って読み込みました。未だに全容を理解するには至っていないのですが、それを踏まえて、言語哲学に関して思ったことを書いておきます。
まず、個別性一般性のギャップについてです。圏論の用語の中で、この個別性にあたるものは、”恒等射(Identity)”であると考えて良いでしょう。例えば、「ミケは猫だ」の例文の「ミケ」、「タマ」でも何でもよいのですが、この例文に絡む、フレーゲをはじめとする哲学者たちの論考は、”個別の対象を人間は区別できる”という点が暗黙の前提になっているのは明らかですが、その暗黙の前提は正しいのかといいうことを考えてしまいました。圏論的には、それは、”恒等射(Identity)”だという説明になるのでしょうけれど、”何故、個別の対象を人間は区別できるのか?”という問いに対する解明は、哲学的には必要なんじゃないの?ということです。実際、「言語哲学がはじまる」の最後の方では、”静的言語観と動的言語観へ”という説があり、時間の流れを考えに入れると、その瞬間、瞬間での個別性しか存在しないわけで、その瞬間瞬間に現れる、個別と認識した対象の一意性を保ちつつ、人間が個別性を認識できることについては、解明が必要なのではないかという点。この辺りの論考は、ハイデッガーあたり?
圏論では、圏を考えて、一つ前の瞬間の域のオブジェクトには、次の瞬間の余域のオブジェクトに、1対1 に写す射がそれぞれある、と考えるのか、それとも、ある瞬間とその直後の瞬間の状態をそれぞれ圏と考えて、その圏の間に関手(射?)が存在すると考えるのか、等、色々と思うところありです。
個別性と一般性の間の関係は、圏論ではあきらかで、一般性の世界の圏は、個別性の世界の圏のスキーマ圏だよ、という事で十分だろうと思います。

次に、述語は命題関数に書き換えられる、についてです。その思考の流れでいくと、文の意味は、有意味な場合は真か偽、または無意味だという事でした。これは、圏論的説明として、「線形代数対話第1巻 圏論的集合論」の第十三章、第14章あたりが相当すると思われます。そうすると、圏論的には、”米田の埋め込み”とか”米田の補題”あたりも関係してくるのか?ってことなんですが、私自身の理解が深まっていないので、このあたりについては、私の宿題とすることにします。ちなみに、ウィットゲンシュタインは、1989‐1951に生きた哲学者なので、圏論はまだない時代の人でした。ウィットゲンシュタインが圏論を知っていたら、どんな風な論考をしたのか、興味深いところです。

圏W の正体

さて、ここまでの考察から、”概念モデリングに関する圏論的考察”で、言及した現実世界(モデル化対象の現実世界)の圏W について再び考えてみることにします。鋭い読者は、この記事を読んで、「あれ結局圏Wって何なのよ?」と思っていたことでしょう。何せ、現実世界を記述するモデル圏M圏W と自然同値でなければならない、とし、概念モデリングの観点から作成した圏I のモデルもまた自然同値でなければならないよ、としか言っておらず、そもそも圏W とは何なのか、名前は付けたものの、それが何者なのか、全く言及していないのですから。
ここで言語哲学の考え方でキーになるのが、まず、ウィットゲンシュタインの、

言語が思考を成立させるのであって、言語以前の思考という考えには意味がない

「言語哲学がはじまる」 P177

でしょう。なんだかんだ言って、圏W は人間の認識と思考の上に成り立つことは否定できないでしょう。これに、文脈原理、記述理論を加えて考えると、圏W は命題論理の文の連なりで記述されると考えるのが妥当だと思われます。絵や図など言葉で書かれていないものについても、人間の脳内では、そこに存在する様々なものや概念を記号化して認識しているようなので、それらも含めても、この議論は成り立つでしょう。とすると、圏W の正体は、論理命題の形を成す言葉で記述された文の連なりであると考えてよいことになります。論理学については、当然、圏論から様々な考察がなされて、圏が定義されているはずです。この圏を、ここでは、圏L と呼ぶことにします。
これまで書いてきた通り、概念モデリングの圏I は、命題論理による記述の表現力と同等ということなので、圏L圏I は自然同値であるといって問題ないということになります。
結果的に、概念モデリングで扱う中心的なモデルである 圏C は、圏I を規定するスキーマ圏であるので、現実世界の圏W(実は圏L)を規定するスキーマ圏であるといってよいということになります。
いかがでしょうか。

説明と解明

繰り返しになってしまいますが、この分類、私のハートに突き刺さったので、再度書いておこうと思います。

  • 解明する

    • 哲学の目的は哲学問題を解消すること。そのためには、ありのままを受け入れ、それを明晰に見通すこと。

    • 哲学の立場

  • 説明する

    • 仮説を立てて説明すること。

    • 自然科学の立場

ということで、前者の”解明する”は哲学に限らず、問題意識に対して、「ありのままを受け入れ、明晰に見通すこと」だというわけです。本来の目的が解明したいだけなのに、何故そうなのかを説明しようとすると袋小路にはまるよというようなことも書かれています。
何かを調査する時、今、それは解明したいのか、説明したいのかを明確に区別して活動することは、とても重要なことだと認識した次第です。この一連のコラムで言えば、

  • 哲学的な観点からの概念モデリングに関する考察

    • 解明する

  • 数学的な観点からの概念モデリングに関する考察

    • 説明する

でしょうか。
では、概念モデリングによる概念モデルの作成は、開発対象の世界を解明するのか、説明するのか、どちらでしょう。

  • 概念モデルの作成は、開発対象世界の解明である

だと私は思っています。まぁ、開発対象世界がどうなっているかの説明は、出来上がった概念モデルを使うのですけどね。

現実世界を記述する概念モデルに求められること

最後に、今回の考察で腑に落ちたことをまとめておきます。

  • 概念情報モデルは、そのモデルを元に、概念インスタンス(とその特徴値の値)とリンクを構成する際、対象世界に対して、それらによって構成される論理文が、有意味でかつ真になるよう作成しなければならない。

    • 概念インスタンスと概念クラスの関係

    • リンクとRelationshipの関係

    • 特徴値と概念クラスの関係、あるいは、値が確定した特徴値と概念インスタンスの関係

    • Relationship と両端の概念クラスとの関係、あるいは、リンクと両端の概念インスタンスとの関係

    • 状態モデル、アクション記述も同様な対応関係があり、命題論理を構成できると思われるが、ここでは省略

  • ドメイン全体は、概念モデルで記述された要素全体で理解され、同時に、概念モデルに記述された要素はドメイン全体で理解される

前者については、”すべての文は命題論理に書き換えられる”、そして、”文は、有意味なら真か偽であるか、無意味である”にもとづいています。という事は、概念モデルの記述能力は、言葉による論理文の記述能力と同等、あるいは、それ以上であるという判断に基づいています。逆に言えば、概念インスタンス、値が確定した特徴値、リンク、概念クラス、特徴値、Relationship (振舞系のモデル要素も加えて)は、そのような記述能力を持つような道具立てでなければならない、ということになります。”Art of Conceptual Modeling”での解説がそうなっているか、今一度確認して、この要求を満たしていなければ、説明を見直す予定です。

最後に

以上で、今回のコラムは終了です。いかがだったでしょうか。
実は、このコラムを書くために、言語哲学の本を読み込んでいるのと並行して、

を読んでいました。妥当な推論が論理的思考力の基礎だということで、こちらも、概念モデリングと併用すると、結構いい感じになるのでは?
こちらについても、もう少し、クリティカルシンキングの理解を深めて、またこのようなコラムを書こうと思っていますので、乞うご期待。


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