プログラミングを学び始めた矢先、ノーコードがアツいという風潮を知った男。

WEBアプリやモバイルアプリを、コーディングなしで、まるでレゴブロックを組み立てるように実装するプログラミング手法…ノーコード。『.Bubble』なんかが代表例らしい。僕も考え方自体は知っていたが、どうせたいしたことはできないだろうとこれまでは歯牙にもかけなかったが、NewsPicksが大々的に特集をし始めて、ちょっと気になってきた。

なぜ今さらこんな言葉が流行り始めたのか。わからない。noteも広い意味ではノーコードプラットフォームの一種だと思う。ほんの20年も時代をさかのぼらなくても、htmlとcssがかけなければ、ブログをアップすることなんてできなかったのだから。そう考えれば、アメブロだって、Twitterだって、ノーコードだ。

僕は趣味で作曲をしたりするが、使っているのはiPhoneの無料アプリの『GarageBand』。超・簡単に曲が作れる。最近はプロでも使っている人がいるらしい。これもノーコードだ。

何を言いたいのかというと、ノーコードって、今までにも存在していたものに新しい名前がついただけのものということ。サブスクリプションサービスとかと同じ部類。(言って見れば、新聞も、国家も、サブスクリプションサービスだ)

だからといって、有効ではないということでは、もちろんない。

僕の心情としては、プログラミングを学び始めた手前「こんなもの、テンプレートに支配される上、サービス提供者が潰れたら終わる!やはりプログラミング言語を学ばねば…」みたいに否定したい気持ちに駆られている。しかし、どんなふうに予測してみてもノーコードが広まっている未来しか想像できない

ここで注意しなければならないのは、コーディングとプログラミングは別ということだ。(ここまでごちゃまぜで書いておいてあれだが…)

これは僕の解釈だが、プログラミングとは作業手順を考えること。コーディングは、謎のルールに従って、マトリックスっぽい真っ黒の画面にびっしりとコードを書くこと。ノーコードはコーディングしないが、プログラミングする

どんなデータ構造で、このボタンを押したときにどんな処理をおこなって…というのは考える必要はなくならない。ノーコードを活用する場合でも。ただ、それを実現する方法が、コードを書くのではなく、レゴブロックを組み立てるように画面を操作するかの違いだ。後者の方がハードルが低い。

ハードルが低いということは、プログラミングを民主化することにつながる。今まで民主化されてきたものはたくさんあるが、プログラミングはされてこなかった。先述のブログを書くことも、音楽を作ることも。料理や動画撮影、動画編集なんかも一部のプロのものから、民主化されてきた。

民主化された時に起きるのは、裾野が広がる。つまり盛り上がる。でも、今までいた人たちの立ち位置は変わっても淘汰されることはない。打ち込みソフトでピコピコ音楽を作る人が出てきても、何万時間も鍛錬を積んだ指先で演奏するストラディバリウスには価値がある。スマホによって一億総カメラマン時代に突入したがが、プロのカメラマンは必要だ。要は使い分け。どっちがよくて、どっちがバビロンみたいな議論こそがバビロンというわけだ。

ここで、僕は少し考えた。今からPythonを覚えるのは、たくさんのベテランエンジニアの大乱闘に乱入することになるが、ノーコード(例えば.Bubbleなんか)なら、まだまだ古参ぶれるのではないだろうか。ノーコードは簡単とはいえ、コーディングとは違った独特な作法があるので、そのスキルは貴重だ。音楽が民主化しても、みんなが音楽を作るわけではないのと同じように、なんだかんだ価値があったりする。

ということで一度使ってみた。Pythonの文法は役に立たないが、同時進行で学んでいたWEBアプリの構造に関する知識は活かせそうだ。(というより、その知識がなければ、たぶん開発できない。)HTMLやCSSについての知識も、なんだかんだ活きてきそうな雰囲気がある。

あっちこっちに迷っているが、PythonとDjangoの勉強は、もうそろそろサービスが作れるんじゃないかというところまできているので、とりあえず次のチェックポイントまでは完走したい。そのあとにノーコードもやってみることにしよう。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!