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グレーバー&ウェングロウ『万物の黎明』を読んで

この本は、瞬く間に世論を席巻し、歴史を変えるに違いない」と確信する本に、これまで何度か出会ってきた。例えば『ブルシット・ジョブ』『Humankind』『ティール組織』などである。実際にこれらの本は、僕のようなごく一部の人々を勇気づけ、知的興奮に誘った。しかし、残念ながら瞬く間に歴史を変えるような事態にはならなかった。例えば、僕が自称読書家が集まる読書会で『ブルシット・ジョブ』を紹介しようものなら、「え? なんですかその本は?」というような扱いを受ける始末であった。

僕がどういう意味で歴史を変えると思ったのか?と言えば、これらの本を真面目に受け取り、論理的に思考するならば、国家や政治、経済といった社会の組織方法をまるっきり変えるべきであるという結論が避けられないという意味だ。

しかし、件の読書会において、そのことを僕が根気強く説明しようが「はぁ、何をそんなに必死になっているのやら…」という反応を持って迎え入れられた。読書会以外であっても同様である。

あまりにラディカルな真実は、社会の嘘をドラマチックに暴く。しかし、人はそれに衝撃を受けることなく、当惑することがほとんどなのだ。「そんなことはとっくにわかりきっているが、それが一体どうしたのだ?」という反応を引き出して、明日になれば真実は忘れ去れれる。

『万物の黎明』も同じ意味で、歴史的に重要な書物であると確信した。しかし、おそらく即座に世界を変えるようなことはないだろう。それでも、100年後に振り返ったとき、新しい歴史観や人間観を提示した重要な書物だと知られているに違いない。

要するに、古典である。古典とは読んでおいた方がいいと誰もが思っているが、誰も読んだことのない本である。ならば読んだことがない人のために、その内容を記しておこうと思う。

■この本は、「人間ってすごいし、おもしろい!」っていう本

この本を最もつまらない形で説明すると、先史時代についての本となる。「あ、私には関係のない本ですね」と感じるのが一般的な感覚だろう。

あるいは、少しばかり知識人を気取りたい人ならば、次のように問いを立てるときに先史時代について書かれた本を紐解くことがあるかもしれない。

どうして世界はこうも混乱しているのか、どうして人間はかくも傷つけ合うのか、どうして戦争や貪欲、搾取があるのか、どうして他社の痛みに対する徹底的な無関心がはびこるのか。わたしたちは太古の昔からそうだったのか、それともどこかの時点でなにかひどくまちがってしまったのか?

p2

このような問いに答えを与えてくれる本は、大きく2つに分類できる。1つ目の代表例はルソーの『人間不平等起源論』である。ルソーは次のように語る。

わたしたちが狩猟採集民だった頃。人類は、大人になっても子どものように無邪気な心をもち、小さな集団で生活していました。この小集団は、平等でした。なぜなら、まさにその集団がとても小規模だったからです。この幸福なありさまに終止符が打たれたのは、「農業革命」が起き、都市が出現したあとのことでした。これが「文明」と「国家」の先触れでした。「文明」や「国家」のもとで、文字による文献、科学、哲学があらわれました。と同時に、人間の生活におけるほとんどすべての悪があらわれました。つまり、家父長制、常備軍、大量殺戮、人生の大半を書類の作成に捧げるよう命じるいとわしい官僚たちなどです、と。

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ルソーバージョンを信じるのは主に左翼っぽい人たちである。要するに人間はもともと善であったにもかかわらず、人間を悪者にするさまざまな制度のせいで悪人になってしまっていると主張する人々だ。

一方で、もう1つのバージョンはホッブズの『リヴァイアサン』に由来する。

人間は進化の歴史のほとんどを小集団という形で生存してきた。そしてその小集団は主に子孫を残すという関心事を共有するおかげで、いっしょにやっていくことおができた。ところが、このような集団も、けっして平等を土台としていたわけではない。ここにはつねに、「ボス男性」であるリーダーが存在していた。ヒエラルキーと支配、そしてシニカルな利己主義が、つねに人間社会の基礎だったのだ。とはいえ、集団として長期的な本能よりも長期的な利益を優先するほうがじぶんたちのゆうりになる。もっと正確にいえば、最悪の衝動を経済のような社会的に有用な領域に限定し、それ以外の場所では禁じることを強制する法をつくることが、じぶんたちの有利になると学んできたのだ、云々。

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このバージョンは右翼っぽい人々が準拠することが多い。「人間社会の不平等はある程度仕方ないよね」とか「国家や警察は必要だよね」と主張するのに便利だからだ。

さて、これまで先史時代に関する問いを立ててきた人々は、この2パターンのどちらかに回収されてしまうことがほとんどだった。どちらのパターンもしかし、この本を読めば理解できることは、どちらも正解であり、どちらも間違いであるということだ。

著者たちが指摘したいのは、そもそも先史時代の人間たちが「こうあるべき」と考えられる社会形態に大人しく収まって、その通りに活動しているわけがないということである。先史時代は「政治形態のカーニヴァル・パレード(p5)」であったというのが、著者たちの主張だ。

人間は原初の時代にあっても、もっと知的で、大胆で、遊びのようにさまざまな社会の組織方法や農業や狩猟のあり方を試してはやめ、また新しい方法を試していた。だから後世の学者たちによる「野蛮段階」「未開段階」「首長制」「国家」「都市」といった分類にすっぽり収まるようなことはない。そのような主張を行うために、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカなどの世界各地から得られた最新の考古学知見と人類学的知見が総動員されている。

この本で紹介される事例の大半は、きっと歴史の教科書に載せるには苦労する。なぜならルソーやホッブズを準拠した大きな物語に明らかに矛盾するからだ。都市と呼べるようなシステムを構築しながら、まったく王や権力といった存在を登場させることのなかった人々。あるいは、王や権力を打倒して平等を実現したような古代都市。遊び半分で農業をはじめては、即座に切り捨てた集団。武力を全く持たないまま官僚制をスタートした国家。小規模のバンドでありながら、絶大な権力を発生させた社会。現代人よりも知的で論理的な議論を繰り広げる「未開人」たち。現代人よりも自由にグローバルに移動する人々。1年のうちに数ヶ月だけお遊びの王様を仕立て上げる文明。巨大な建造物を権力なしに作り上げた村落などなど。

よくよく考えれば、当たり前のことなのである。僕たちはあれこれと意識的に試行錯誤しながら生きているのだから、同じ人間である先史時代の人々も、あれこれと意識的に試行錯誤していたのだ。しかし、僕たちは先史時代のことを考えるときは、運命に奔流に流されるがままの素朴な人々であったと考えがちである(そのような過ちを犯している著作として、たびたびハラリ『サピエンス全史』やダイヤモンド『銃・病原菌・鉄』といったベストセラーが登場し、槍玉に挙げられる)。

なぜか? 著者たちは社会科学そのもののあり方に原因があると説明する。

社会科学は主に、人間が自由ではないこと、つまり人間の行動や理解がみずから統制できない力によって規定されている自体を研究してきた。それゆえ、人間が集団的にみずからの運命を切り開いているようにみえたり、あるいは自由そのものを表現しているようにみえたりする説明は、すべて幻想にすぎないと退けられる傾向があった。

p565

だから、多くの社会科学がテクノロジー決定論や階級決定論のような形に落ち着いてしまったのだという。

そしてこのような社会科学の考え方は象牙の塔の中で大人しく収まることなく、僕たちの社会全体を覆い尽くしている。僕たちは都市に暮らしているのだから、大規模な社会に暮らしているのだから、高度なテクノロジー社会に暮らしているのだから、「今のこの社会形態に必然的にたどり着くのだ」というシニカルな諦めムードが蔓延しているのだ。『サピエンス全史』や『銃・病原菌・鉄』なども、それに一役買っているように見える。

しかし、過去の人々は僕たちを勇気づけてくれている。大規模な人口で偉大なモニュメントを作るのにも、官僚制も王権も必要なかったとすれば? 警察も、国家もなく、都市が運営されていたとすれば? 障がい者をはじめとした異端児たちも尊敬され、天寿を全うできる原始社会があったとすれば? 僕たちが同じことをやってのける可能性は十分にある。

人間はせいぜい150人程度としか仲良くできず大規模な社会では官僚制が必要になるとお説教してくる「ダンバー数」のような概念も、無視すればいい(この本ではダンバー数に対する批判もある)。そのような決定論を乗り越える力を、僕たちは持っているのだから。

人間ってすごいし、おもしろい。

そう感じさせてくれる本が『万物の黎明』である。すごいくて、おもしろい人間たちなら、きっとワクワクする未来を作れるはずだ。

たとえば、「労働なき世界」とかね。


■「新しい労働哲学」との関連について

『万物の黎明』には、僕が提唱する「新しい労働哲学」「労働なき世界」を裏付けてくれる記述がいくつかあった。

1つは、人は権力構造なしに大きな仕事を成し遂げることができる可能性だ。

僕は「労働なき世界」を誰も権力によって強制されることなく、楽しく生きているだけで人々が必要とするニンテンドースイッチのようなものが生産される社会であると定義している。ニンテンドースイッチを作るには大規模な工業システムが必要であって、それは今のところ指揮命令系統と、非人間的に退屈な分業システムで成り立っている。

僕は誰もが自発的に楽しく働きながらニンテンドースイッチが生産されるような組織形態が存在するのか?という点について、自信を持てずにいた。ブルーカラー労働者を大規模に楽しく組織化する方法としてティール組織には注目していたが、ティール組織は「人間がものすごく立派な人格者になったら実現できるよ! でも、みんな利己的だから無理だよね!」的な反論に遭うのが常だった。

しかし、『万物の黎明』は古代の人々が似たようなことをやっていることを教えてくれた。これは「ほら、いけるやん?」という説得材料になりそうだと感じた。

大規模な社会を組織する方法は、ある種のテクノロジーである。権力や妬み嫉み、社内政治が発生しないように慎重にルールを作るというやり方はティール組織ではお馴染みのものだったが、似たようなテクノロジーは古今東西あらゆる状況で開発されてきたことがわかった。人間はそういうことができる生き物なのである。


2つは、過去の人々が遊びのような感覚で生活し、イノベーションを起こしていたことだ。

「労働なき世界」では、人々は自分がやりたいと思うことだけに熱中することになる。それはつまり遊び半分で生活必需品が生産され、遊び半分でイノベーションが起きるという意味である。本当にそうなるのか、未だ僕には自信がない。しかし、実際のところ過去にはそのようなライフスタイルの体現者たちがいたらしいことがわかった

過去の人々がそのようなライフスタイルを体現できたのは、彼らが根本的に自由だからだ。その共同体を離れても生きていける自由を持っているし、その共同体で誰かの命令を拒否しても生きていける自由を持っている。だからこそ、好きなことを好きに試す自由を持っていた。

「新しい労働哲学」は人間の自由を最重要事項と定義している。人々が自由であればあるほど、社会は良くなると主張している。だからこそ自由の価値を高めてくれる『万物の黎明』は「新しい労働哲学」を援護射撃していることになる。


■まとめ

なにはともあれ面白い本だった。自分たちの思考習慣が覆されて、新しい視野が開ける体験は、人生の中でそう何度も味わえるものではない。この本の読者は「読まないと人生損しているよ!」と言いふらしたい誘惑に駆られることだろう。もちろん、僕も例外ではない。

売れて欲しい。でも、売れたら売れたで誤解されそうな本でもあるので、誰も読まずに、僕のような一部の陰気臭い左翼たちの界隈だけでワイワイ盛り上がりたい気持ちもある。『ブルシット・ジョブ』はそこそこ売れたが、誤解、曲解のオンパレードで、結局誰も真面目に受け取らなかったのだ。そんなことになるのなら、売れなくてもいいかもしれない。

だが、後世から見れば間違いなく重要な書物だろう。「労働なき世界」、つまり人間のユニークさを誰もが知っていて、人間の自由が最大限に尊重される世界では、『万物の黎明』に書いてあることは当たり前のオンパレードである。「著者たちは何と戦っているのやら…?」と呆れ返る可能性すらある。だが、社会の根底をなす思想とは、そういうものだろう。

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