ソールヴェイの歌う風 〜ノルウェーの小さな物語9〜
九
夜の病棟は凍りついたように静かに、そしてぼんやり異端者を見下ろしていた。自然のものではないそれは夏を背に、どこか魂が抜け落ちたような顔をしていた。内部に足を踏み入れると、病院特有の刺激臭が眠気を威嚇してくる。スニーカーが絞り出す靴音が所在無げに薄暗い廊下に吸い込まれる。
しばらく無機質なリズムに感情が掻きむしられた後、やがてニーナは一つの病室の前でそっと立ち止まった。一つ小さな深呼吸をした後、扉を少し開け、中に向かって声をかけた。理解できない言葉が啓介の心にざらついた。
やがて廊下の薄暗闇に溶け込むように、背の高い一人の青年が現れた。ニーナとその青年は言葉を発することもなく一瞬、深く見つめ合った。そしてニーナは青年の肩にゆっくりと顔を埋めた。青年の腕がゆっくりと背中に回される。焦点の定まらぬ視線でそれを眺める啓介。鼓膜の内側を重い波がなん度も打ちつける。音のない鐘が体内に響く。
と、小さくなった背中越しに囁くような何かが混じるのに気づいた。それは声を押し殺した嗚咽だった。ただ黙ってその悲しみの湖に溺れる啓介。
ニーナが青年に話しかける。その声も涙に濡れている。青年が優しく語りかけるように言葉を返す。それに頷くニーナ・・・。青年の発する言葉には彼女の涙を拭う何かがあることがうかがわれた。
啓介は自分自身の存在を喪失し、緑色の視線でその光景を眺めることしかできなかった。そうだ。その視線こそ、あの緑色の男のそれと同じものだった。熱く腐敗した何かが精神にできたひび割れに流れ込んでくる。体の内側のどこかが軋むのが聞こえた。
やがてニーナは涙を拭いながらこちらに向きなおった。得体の知れないものに備え、全神経が身構えた。啓介の身長より少し高い位置から黒く澱んだ瞳が見下ろしていた。
「ごめんなさい・・・。弟のモルテンです」
先程の光景が、姉弟が互いを労わりあう姿だったのだと啓介は理解した。全身から力が抜け落ちる。それは映画でも見かけたことがありそうな、西洋社会では極めて普通の家族の感情表現だった。同時に啓介がまだ踏み入れたことのない場所でもあった。
ニーナは啓介が理解できない言葉で弟に何か話し始めた。恐らく、自分たちがここに至った経緯を話しているのだろう。
「わざわざありがとう」
話を聞き終えた後、モルテンと紹介された青年が英語で話しかけてきた。高校生でも母語と英語が瞬時に切り替わる環境にはもう慣れている。
「大丈夫、当然の人助けだから・・・。それよりお母さんの具合は?」
「母は今、眠っています」
そうニーナが告げた後、啓介たちは話ができそうなスペースへ移動することにした。そしてモルテンに向かい合って腰掛けた二人は、ニーナの30分だけという提案を契機に昨日の出来事を聞くことになった。
彼らの最愛の母親は昨日の午前中、睡眠薬を大量に飲んで自殺を図ったそうである。幸い、試験に向けて図書館に勉強をしに行っていたモルテンが、いつになく早めの昼食を取りに帰宅して異変に気がつき、すぐさま病院搬送を行なったことで大事には至らなかった。また、過去二回そうだったように、今回も飲んだ薬の量が直接死に至るほどのものではなかったとのことだ。
彼らの話すところによると、父親が蒸発して以後、母親は二人の子供を抱えて気丈に生きていた。ただ、ニーナがオスロ大学へ入学して以後、気持ちが不安定になり始めていたようで、実際に今回を含めた自殺未遂はいずれもそうした時間の中で起こった。
その説明を聞きながらニーナの心中に思いを巡らす啓介。何故か放浪するペール・ギュントの姿が脳裏に思い浮かんだ。
おのれ自身であること、おのれ自身であること、おのれ自身であること・・・・。
啓介は自問するようにその言葉を自分に投げつけていた。
今、ニーナの胸の内で確実に彼女自身を責めているもの、そして啓介自身を苛んできたもの。その言葉は対面する三人の間に何かを突き立てようとしていた。
「・・・お母さん、もう離婚しようと思ってるの。・・・」
見慣れた筆跡の一節が頭を打った。
その夜は看病を続けるためニーナ一人を病院に残し、啓介とモルテンの二人が無言のまま帰宅の途についた。重く澱んだ空気を抱えながらあの橋を三たび越える。人々の生活を支えるために存在する変哲のない建築物。それが今、異端者の中で力を生む。まどろみのふちをさまよう神経に神秘の息を吹きかけ、抗う重力が心に被さる錘の一枚一枚を引き剥がす。啓介はこの橋を越えるごとに自分を覆っているものを払い落としていくのを感じた。
現れては消える光の鏡がフロントガラス越しに次々に追い越されては背後に霧散する。同乗者の顔に張り付いた粘土細工のような不動の視線。全ての視線の先にあるものはそれぞれに異なっている。鈍っているでもなく、研ぎ澄まされているでもない状態にある感覚が一瞬一瞬の物語を聞きとめようとした。啓介は今、無意識にある者の後ろ姿を追っていた。
午前一時も過ぎようとした頃、啓介はその日目にした様々なシーンを抱きながらようやっとベッドに潜り込んだ。ニーナが悩み、悲しみの涙が染み付いているであろう空間。窓越しに見える北欧の明るく眩しい夜更けに、そして寒く暗い朝に彼女は何を思ったのだろう。自分自身の住み慣れた匂いの中で、過去に何を刻んできたのだろう。
啓介の心の中でまた一枚何かが静かに落ちていった。
この閉じられた空間に残されたニーナの過去に思いを巡らしながら、啓介はゆっくりと眠りに落ちた。
耳慣れない抑揚の会話に啓介は目覚めた。焦点の定まり切らない視界の中、置かれた状況を理解しようとかすんだ周囲に目をやる。沈んだ水の底からゆっくりと浮かび上がる泡のように、昨日の出来事が頭に蘇ってくる。
ああ、そうか。なんとかという街に来てたんだったっけ。
覚めきらない記憶がゆっくりと形を現してきた。走る車窓からちらりと見た木造建築、薄い雲をちりばめた広い空、耳に届いた名前も知らない鳥たちのさえずり。夕暮れの陽光が作り出した物体の妖しい影。人工的な光に抗う山の夜霧とそれに混じる夏草の芳香。肌を撫でる湿った冷気。それら全てのものが曖昧に名残をとどめていた。啓介はふとラジオから流れてきた懐かしい音楽を思い起こす。それに続いたのは・・・。昼と夜の間で揺れ動いた感情の交換だった。それだけは確かなものとして思い起こすことができた。
啓介はまどろみの中を漂いながら、まだ見ぬ町の朝の表情を思い浮かべようとしていた。視界の裏側で緩やかに広がる太陽の赤い指先。喜怒哀楽のうちの影だけをかざしてきた者たちは今、新たに生まれた何者かの背後で息を殺しているのだろうか。この時代のこの町で、街灯と闇が戯れていた時間は何を前にして引き際を知るのだろうか。トロルたちを消し去った鐘の音はどこかで響くことがあるのだろうか。
あいも変わらず耳に届く言葉は理解できない。若い男女が何か重要なことで言い争うような様子であることがうかがわれた。視線が時計を捉える。午前十時を過ぎていた。
「やばっ!」
そそくさと身支度を整えた啓介はゆっくりと部屋のドアを開き、リビングへ降りていった。二人の声が次第に大きくなってゆく。
開け放たれたドアの向こうで青い二つの視線と朝の光に迎えられた。
「グモーン」
青い視線が驚いた様子を見せ、振り返った栗色の視線は少し滲んだ瞳のまま笑顔をよこした。
"God morgen"
"God morgen"
ニーナとモルテンがバラバラに挨拶を返した。重ならない波が周囲の空気をばらばらにする。
「どうしたの?」という啓介の戸惑った様子を遮るようにニーナが訊ねた。
「よく眠れました?」
「うん。ぐっすり眠れたけど・・・。でもニーナ、いつ病院から帰ってきたの?」
「今朝早くに母が目を覚まして、それで少し話しました。面会時間は午後なので、とにかくもう大丈夫だから家に帰って休みなさいって母に追い返されてしまいました」
「昨日はずっと徹夜?」
「椅子に腰掛けてちょっと眠ったぐらい」
ニーナはそう言うと、力なく笑った。
「あ、朝食用意してありますから、テーブルにどうぞ」
そう言い終わるのを待たずに、傍らにいたモルテンは自室に引きこもってしまった。普通ではないその様子を啓介は視界の端で追った。
「ごめんなさい」
ため息と謝罪がないまぜになった言葉だった。
「どうしたの?なんだか喧嘩してたように見えたけど」
「ええ」
啓介の向かいに腰掛けながらニーナは俯いた。話そうか話すまいか決心しかねるように、眉間を陰が覆っている。
「あの、別に無理に話すことないよ」
重いものを引きずるように向けられた瞳にはしかし、何かを懇願するような弱々しい光が揺れていた。啓介は軽く視線で相槌を送った。
「モルテンは・・・」
そう言って一瞬言葉が途切れると、再び目が伏せられた。そしてそのまま瞼を閉じてしまった。固く閉じられたそこには永遠を予感させるような絶望的な頑なさが滲んでいた。
涙が一つ、ぽつりとテーブルの向こう側で消えた。
「ニーナ?」
その手招きに反応したかのように、逆光に飲まれて少し色を増した栗色の瞳は帰ってきた。視線と視線が真っ直ぐに重なる・・・。
言葉を欲する思いがある。言葉にした途端に霧散してしまいそうな思いがある。重ねた視線の反対側にそんな危うくも強い灯を啓介は見た。
ニーナの話によると弟のモルテンは日本でいう高校二年生で、もともと学校の成績は良く、勉強が嫌いというタイプでもなかった。しかしニーナがオスロへ出て以降、特にこの半年は勉強に身が入らないのか、かなりギリギリの成績だということらしい。こちらでは落第システムがあるので成績が悪ければ留年するか、進路変更が待っている。もし将来、大学への進学を希望するのであれば、それが可能なコースで高校を修了しなければならない。大学進学を強く勧めるわけではないが、その能力がありながら自ら投げやりになってしまったかのような弟の態度のことを姉としてニーナは気にかけていた。何より、彼の成績の下降が自身のオスロ行きの時期と重なっていることで、原因が自分にあるのではないかと悩んでいるのだ。
そんなモルテンは十日後に、最後の追試が予定されていた。これに失敗すれば留年、あるいはコース変更しなければならないのだという。
啓介はニーナの抱える悩みを聞きながら、今、自分にできることを考えた。しかし何か血の通うものを掴もうと手を伸ばしてみるものの、ただ虚しく空を掴む感触だけが手のひらに返ってきた。他者の内面世界を覆う懊悩を自身の内に描き移す術が見当たらなかった。懸命に絵筆を重ねてみたところで、冷めた日の光が落とす影のようなくすんだ感触だけが重なっては消え、瞬きの間に足跡の余韻だけを残した。何度も同じ行為を意識の中で繰り返す。意固地な感情が目的を失ったそれをさらに刺激する。やがて感覚が摩耗するような恐怖感がじりじりと湧き上がり始めた。行き場を失った焦燥が突然、体に大きな穴を開けた。確かにあると感じていたものが砂時計の中を落ちる砂粒のようにさらさらと落ちてゆく。
不意に背後を誰かが立ち去るのを感じた。
「どこに行くの?」
ニーナが英語で話しかけた。
「病院へ」
背後からも同じように英語が届いた。しかし、そこから先は理解できない言葉が行き交った。姉が諭すように話しかけ、弟がそれに反発するように答えていることだけが啓介に伝わった。小刻みに擦れ合う感情がその場の空気にヒリヒリした電気を張り巡らす。
「病院に行くなら送っていこうか?」
言い争っている風ではなかったが、二つの感情がじりじりと不器用に擦れ合う様子にいたたまれなくなった啓介は思わず話に割り込んだ。突然の介入に二人の会話が中断する。
「ちょっと町の探検もしてみたいし」
「あ、だったら私が案内します」
「いや、病院であまり寝てないんでしょ。しっかり休んだ方がいいよ。それに、知らない町を一人で探検するのはなかなか刺激があっていいし」
三人は互いに割り切れないものを表情に残したまま、それぞれが方向のわからない力に引き裂かれていった。
後記
『ソールヴェイの歌う風(九)』、最後までお読みくださり、ありがとうございます。
この小説は私個人が実際にノルウェーを一人旅した時の記憶に基づき書き下ろした創作小説です。滞在した当時の状況をできるだけ忠実に再現したつもりですが、登場人物に関しては実在の人物とは一切関わりがございません。
作品中、文学表現の可能性を試すべく、画像や音楽を貼付しております。筆者が抱いた心象風景をできるだけ読者と共有できればとの考えに基づく一つの試みです。併せてご堪能いただけると幸いです。
最後に、作中貼付した画像は以下の無料画像サイトからお借りしました。スペースの都合上、一つ一つの作品に関する詳細を記すことができません。この場をお借りしてお詫びするとともに、素晴らしい作品を無料で提供されてくださるアーティストの方々に対し、深く感謝いたします。
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