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ソールヴェイの歌う風 〜ノルウェーの小さな物語8〜

夜が全ての音と光を飲み込んだようにあたりを闇に染めていた。その上にうっすらと覆いかぶさる霧は白でも黒でもない曖昧な静寂を描き出していた。星の輝きも山肌も自らの存在を控え、凍りそうな空気に混じる夏の草木の匂いだけが現実を語りかけていた。

ボルボ440は山道の脇に設けられた駐車スペースで休止中だ。

啓介は長時間曲げっぱなしになっていた関節を解きほぐそうと体を動かす。あちこちからぽきぽきという音が漏れてしじまに吸い込まれた。

車の向こう側でニーナが同じような仕草をしていた。

「寒いね」

「ええ」

そう言葉を交わした二人の白い吐息が八月の山に溶ける。啓介の頭の中で彷徨っているものも今、そんな風にこの山の闇に抱かれ、世界の一部になってすましこんでいる。

全ての思いが混じった空気を胸いっぱいにかき入れた。

「 KUUKIGA UMAI 」

吐き出す息とともに漏れた日本語が白く溶けて消えた。

夜の闇と山の空気、草木の息遣いと伝説の怪物トロル・・・、そして多分夜気に混じる水の分子も。この場にふさわしい全てのものがここにしかない確かなものを作り出していた。

啓介は目を閉じ、もう一度大きく息を吸い込んだ。ヘッドライトが捉えた僅かばかりの山肌に、同じサイズのジャケットを着た二人の姿がパズルのピースのようにはまった世界。啓介は目を閉じたまま想像した。

「『空気が旨い』ってノルウェー語でどういうの?」

「え?」

体温と同じ温かさの視線に全身が包まれるのを感じた。やがて、一瞬の間の後に答えが返ってきた。

"Luften er deilig."

目を開け、啓介は聞こえたままのものを口にしてみた。

「ルフテンアーダイリ」

意識の外でずっと探してきたであろう何かが突然すっぽりと収まる感覚を手にした。形にならないまま心に沈んでいた諸々の思いが重力から解き放たれる。隣から不思議そうにこちらを眺める意識が心地よかった。

隣から不思議そうにこちらを眺める視線が心地よかった。

「なんか変な表現だよね、ノルウェー語だと。違う?」

夜霧に包まれた栗色の瞳はそれには答えず、きょとんとした表情でただ笑みを返した。啓介も敢えてそれ以上説明を加えなかった。ただ胸の内に現れたものの中に、見知らぬ土地で昨日出会ったばかりの女性(ひと)と一緒にいる意味をぼんやり見つめていた。

見えてくる意味。消えてゆく意味。気づけない意味。気づかないふりをされている意味。捨て去った意味。そして・・・拾い上げた意味。

取捨選択をしながら立ち回り、息苦しさに追われていた日々の後ろ姿を思い起こした。

「ハウゲスンからあのスターヴ教会は遠いの?ウルネス教会だったっけ?」

ボンネット越しに啓介は訪ねた。

「え?」

スターヴ教会を見に行く。800年前の姿が現存しているというウルネス教会を目指そうと思いついたのがこのドライブのきっかけだった。

「ハウゲスンからだと10時間以上かかると思います」

「慣れない人が休憩を入れながらだと15時間かな?」

啓介が笑顔とともに付け加えた。白い半透明の夜の向こうで笑顔が揺れている。冷たい夏の山が今この世でたった二人の時間になった。ウルネス教会行きは、やはり今回の旅では諦めるしかないことだけは確認できた。カラッと澄んだ諦念が意識の中で清々しくもあった。

「じゃ、行こうか。お母さんのところへ」

「ええ」

「このまま一気に行けたらいいんだけど。きついかな」


車は砂利の音をしばらく弾ませた後、程なく自動車道へ出た。

「ウルネス教会は・・・」

砂利の音が消えるのを待っていたかのように切り出された言葉は暗く沈んだものだった。

「実は、ウルネス教会は父がいつか連れて行ってくれると約束した場所なんです」

「え?」

「実際にウルネス教会以外の全てのスターヴ教会は見て回りました」

「そうだったんだ」

啓介は民俗博物館でウルネス教会の写真を見つめていた時のニーナの表情を思い出した。何かを思いつめた、穿つような強い眼差しの謎が今解けたような気がした。

父親との約束の地。

啓介は一人納得した。今度の諦念には少し湿気が混じる。

そこは実際にいつか訪れてみたい場所として、自分の中で小さく膨らみ始めていた。できれば、また今のような形で・・・。

ニーナは今でも父親との約束にこだわっているのだろうか。

重い沈黙が次の言葉を押しつぶす。

「でも、父との約束を果たせる日が来るのか、もう自分でもわかりません」

「どうして?」

「その約束が実現してほしいのかどうかも・・・」

悲しみに溶けたであろう言葉と思い。

「そうか・・・」

じゃあ、僕と一緒に行く?

啓介は自分がまだそんなことが言える存在ではないことを虚しく理解するしかなかった。

ハイビームを保ったままのヘッドライトが白く反射する漆黒をかき分ける。山道がその先から湧いて出るように途切れなく続いた。


道路標識に'Haugesund'が現れてからどれぐらい走っただろう。永遠に続くかと思われた山道もしばらくはエンジンブレーキを使う頻度が多くなっていた。重力に乗って滑り落ちる感覚を過ぎると、不気味に黒く眠る深遠なフィヨルドの海沿いを幾度もすり抜ける。この道程が最終局面に近づいていることを気づかせる。啓介の気持ちは心なしかそれを残念に感じ始めていた。

中央分離帯に街灯が並び始め、運転席から見える周囲の風景と道路の状態は自然から切り離されてゆく現実を語っていた。程なくニーナの生まれ故郷に到達するはずである。時計は午後十一時になろうというところだった。

「ハウゲスンに近づいて来たようだね」

考え事をしていたようにフロントガラスを見つめていたニーナが我に返った。

「ええ。この先で国道も終わります」

ロータリーをいくつか通り過ぎるたびに街の輪郭がよりはっきりとし始める。日付が変わろうとするハウゲスンの街はオスロとは全く別の顔で待っていた。ここは啓介の知るヨーロッパの都会ではなかった。しかし街灯と黄昏の余韻にぼんやりと包まれたその装いは、確かに人が安らいで暮らせる場所のように映った。

助手席からの指示に従い、車の速度を落としながら薄い光の中を走る。左右にハンドルを切り、最後に道なりに左へと進むように促された先に突然、道路が空に伸びてゆくようなカーブが現れた。列をなして続く淡い光沢の誘いがジェットコースターの光景に重なる。

それは少し殺風景な感じもする対岸への橋だった。かなりの高さで市街地を結んでいる印象で、運転席から追う仰角は遮られるものもないまま無言の夜空へと吸い込まれた。啓介がその先にあるものを想像しようとした次の瞬間、視線は空へと舞い昇る鳥のそれと同化した。

これまで手にしたことのない風景を予感させる時間だった。

やがて、その出口の不確かな軌道の最高点をゆっくり通過する。運転者の意識は人々の眠りを抱く灯のさざなみへと連れ戻された。眼下に揺れる黒の平面がそのことを確信に変える。

時間にして十秒程度の小行程。啓介のこの街への興味を強く刺激する時間だった。その建造物が地理的な意味以上のまだ見ぬ何かを繋ぐ存在に思えた。その何かの中身はまだはっきりとはしない。今はただ底冷えのする自問だけがただ目の前を通り過ぎていくのだった。


橋を渡り終え、余韻を引きずったまましばらく教えられた通りに車を走らせる。そして程なく、停車を求められた。

「ここです」


実家に到着したようだ。薄暗い道に並ぶ家々はやはり積み木のような形で、一様に整然と敷き詰められていた。フロントガラスを通して見た空気は白黒写真のようだった。ざらついた感覚を心によこすが、同時によそ者の視線を迎え入れる鷹揚な印象も見られる。ドアを開けるとひんやりとした潮風がさらりと頰を撫でた。啓介は自分がこれまでに至ることがなかったどこかにたどり着いたことを改めて感じた。

内部の様子は特段変わったところもない普通の生活がうかがわれる空間だった。家具や調度品が決して過剰に詰め込まれているわけではない。効率よく質素に、しかし快適さを損なわない工夫が見られる場所を作り出していた。ただ、テーブルに置かれたままの食器やシンクに残された洗い物。ソファーの上に脱ぎ捨てられた衣類が、起こったことの慌ただしさを物語っていた。

「誰もいないの?」

「ええ。弟は多分まだ病院だと思います」

そう言いながら、ニーナはとりあえず家の中に残る異変を正常に戻すべく、軽く後片付けを始めていた。

「あの、啓介は私の部屋を使ってください。私は母の寝室を使いますから」

「ええ?僕はソファーでもいいよ」

「いえ、長い間運転してくださったんだから、ベッドでしっかり休んでください」

実際、啓介の体のあちこちが悲鳴をあげていた。素直に好意に甘えるしかなかった。

「ちょっと待っててください」

そう言い残し、ニーナは二階へと消えた。

「啓介、どうぞ」

しばらくしてそう促され、招かれた部屋へ上がっていった。それはニーナがオスロへ出るまで毎日を過ごしたと思われる場所だった。

その六畳ほどのスペースは暖かい照明によって濃くなったベージュの壁に囲われていた。分厚い書物が並ぶ木製本棚が対角線上に向かい合うように二つ並ぶ。入口からの正面奥には大きめの窓。ベッドはその前に置かれていた。机は本棚の一つに沿うように置かれ、その上に辞書のような本が立つ。もう一つの本棚の隣には小ぶりな洋服ダンスがあった。壁に貼られた数枚のポスターや絵は恐らくノルウェーの歴史的遺構を語るものなのだろう。啓介も見たことのない、キリスト教的なものとはどこか違う装いの建築物を表現したものばかりだった。とてもティーンエイジャーの女の子が占有していたとは思えない雰囲気だった。唯一、部屋を満たすかぐわしい香りだけが主人が女性であることを悟らせた。

「あの、申し訳ないんですが、私はこれから病院へ行きます。啓介は先に休んでていいですから。病院にいる弟と交代しないと。彼は来週大事な試験があるので、ゆっくり休んで勉強させないと」

「病院は近いの?」

「橋の向こうへちょっと行ったところです」

「そう。じゃあ、車で送っていくよ」

「ええ?でも、ここまでずっと運転して疲れているでしょ?」

「大丈夫だよ。こんな時間に女の子を一人外で歩かせられないよ」

「ごめんなさい。でも・・・」

「大丈夫。行こう」


病院へ向かうために再びあの橋へと向かう。オレンジ色に照らされた道が今度は真っ直ぐに空に伸びる。星々の輝きと夜の雲が闇色を広げる空へ招き寄せられた先に、ゆっくりと対岸の街の明かりが返ってきた。



後記

『ソールヴェイの歌う風(八)』、最後までお読みくださり、ありがとうございます。

この小説は私個人が実際にノルウェーを一人旅した時の記憶に基づき書き下ろした創作小説です。滞在した当時の状況をできるだけ忠実に再現したつもりですが、登場人物に関しては実在の人物とは一切関わりがございません。

ハウゲスンの町にかかる橋

作品中、文学表現の可能性を試すべく、画像や音楽を貼付しております。筆者が抱いた心象風景をできるだけ読者と共有できればとの考えに基づく一つの試みです。併せてご堪能いただけると幸いです。

この小説を書くにあたっていろいろな創作の可能性を試していますが、その中でも重要なものに、「理解できない言語を耳にした時の人の心の揺らぎ、そういったものを文学表現の中で実現してみる」というものがあります。
この物語では啓介とニーナは英語で話しているという設定になっていますが、啓介が思わず日本語を口にした部分をローマ字で表記し、彼が自身の耳で聞き取ったノルウェー語はそのままノルウェー語で表記してあります。
啓介もニーナもお互いに相手の母語が理解できませんが、理解できないもの、この場合は言語ですが、そうしたものを前にした時に人が直面する戸惑い、そしてそれを克服しようとする想像力、こうした心の営為を次への展開へのきっかけとして織り交ぜてみました。
それが上手くいったかどうかは不明ですが、安易に使用言語を擦り合わせることで失われるものがあるはずです。そういった無視されがちな小さな現実を掬い上げ、創作に織り交ぜることで、独自の表現の世界を作り上げることができればと思っています。

最後に、作中貼付した画像は以下の無料画像サイトからお借りしました。スペースの都合上、一つ一つの作品に関する詳細を記すことができません。この場をお借りしてお詫びするとともに、素晴らしい作品を無料で提供されてくださるアーティストの方々に対し、深く感謝いたします。

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