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ソールヴェイの歌う風 〜ノルウェーの小さな物語10〜

一人ぼんやりとフロントガラスの先にある形にならないものを眺めていた。カーラジオからは時折理解できる言葉が混じるフレーズが流れてきたが、全体としてそれらは全て見知らぬものたちだった。確かでない世界にしばらく身を沈めるうち、意識は次第に記憶の隙間に落ちていった。理性の網にかかる過去の絵はいずれも灰色にぼやけているものばかりだった。

「・・・お母さん、もう離婚しようと思ってるの。・・・」

霞んだ声が現在進行形で啓介の魂に語りかける。父喜一郎の苦渋に満ちた表情。兄啓一郎の蔑んだような視線。そんな碌でもないものが詰まっただけの過去。

緑の視線がこちらを見つめている。

「またあいつか」

『そいつ』はいつの間にか旧知の間柄のような存在になっていた。

啓介は硬いため息をついた。

やつは一体驚愕しているのだろうか、それとも嘲笑しているのだろうか。

その詮索から逃れようと色の失せた過去のシーンの数々を頭の中で手荒く引っ掻き回した。ふと、かつて部屋に置いてあった水槽を眺める自分の影に行き着いた。小学生の頃、熱帯魚の飼育に夢中になっていた啓介。グッピー、セルフィンモーリー、ブラックモーリー、プラティ、ソードテール。色が踊る。艶やかな卵胎生メダカが鱗に観賞用ライトを爆ぜて泳ぎ回る中、30匹ほどのネオンテトラが青と赤の点滅を添えている。極彩色の景色の中で静かに温水を巡らせる濾過器の柔らかい音。身の回りの何もかもが水の流れに吸い寄せられ、感覚を削ぎ、時間を止める。すっきりと澄んだ視覚と聴覚だけを携えて、黙ったまま90センチ幅の水槽の前に立ち続けた。心の水平線がまっすぐ平らに、途切れることのなく伸びていた時間。色鮮やかな風景が蘇る。脳裏に浮かんだ水槽のガラス面に映る自分の姿。ただ自分自身だけがそこにいた。そう信じていた。しかし、その隣にもう一つ、うっすらとした大きな影があった。

「誰だ?」

不意に浮かび上がった疑問。その疑問に狼狽する己自身。

影が一枚一枚ゆっくりと重なり、色が形をなす。

現れたのは父喜一郎だった。

「そういえば・・・」

父喜一郎はよく啓介の部屋へやってきては何も言わず水槽を眺めていた。啓介と一緒に眺めていることもあったように思う。啓介が部屋に入ってきたときには既にそこにいたこともあった。何か言葉を交わした記憶はあるが、久しく音声は途切れてしまっている。ただ、今、その映像の中にある父の影は、これまで啓介の記憶の中に生きてきたそれよりもずっと濃いものだった。

かつて熱帯魚飼育を快諾した喜一郎に一番驚いたのは啓介自身だったのではなかったか。喜一郎が水槽を覗き込む視線。あれは緑色の濁った緑色をしていたのだろうか?いや・・・。

啓介の背中でじりじりと重たい汗が広がった。胸の上下運動と呼吸のリズムがバランスを失い始める。何かが喉を押さえ込み、逃れようとする意識が身悶えした。

突然、視界の端を赤いジャケットを着た長身の誰かが横切った。啓介は絡め取られていたものを振りほどくように慌てて車を降りた。そして叫んだ。

「モルテン!」

「はっ」とした表情とともに、青い瞳は啓介を捉えた。怪訝そうにする雰囲気を強引にかき分けながら、啓介はモルテンに近づいていった。

「どうしたの?」

上ずった声でたずねられた。

「面会時間は午後からだろ。ひょっとしてすぐに追い出されるんじゃないかなと思って待ってたんだ」

モルテンはあの後、結局一人で出かけたのだが、啓介もニーナが母親の寝室へ消えてからふらりと街へ出たのだった。そんな説明を今、モルテンはやや警戒した表情で聞いていた。

「久しぶりにお姉さんに会ったのに・・・、いや、久しぶりだからかな。なんかぎくしゃくするすることもあるよね。うまく話せないっていうかさ」

啓介はそんなことを人に話しかけている自分自身に驚いた。同時に、それが自分自身に発せられた言葉のように感じていた。

だからどうすべきなのか?

自分に問うた。しかし、この問いの解が簡単には見出せないことも自身の経験から知っていた。埋められない距離は沈黙となって時間を屠る。行き先を失った視線が足下に落ちた。

「ハウゲスンのカフェ、体験してみたいんだけど。ちょっと付き合ってくれる?」

見つけ出したものは何でもないものだった。硬い表情で固まっていたモルテンはその突拍子もない提案に足元をすくわれたのか、やや驚いたような笑顔で頷いた。

「あの向こう岸へ渡る大きい橋があるよね」

「リソイ橋のこと?」

「名前は知らないけど、多分それ」

モルテンの表情が少しほぐれた。

「あれを見上げるような感じでコーヒーでも飲みたいんだけど。ハウゲスン風のを」

「ハウゲスン風ってどんなのか知らないけど、橋を見上げるような場所には喫茶店、あるはずだよ」

モルテンは「行こう」と目で合図をした。


やがて二人が腰を下ろしたのは、近くからリソイ橋を見上げることができる絶好のポジションのテラスだった。ニーナが眠るであろう対岸との間には静かに波が揺れていた。

「ここから見上げると相当高いね」

テーブルに並んだ二つのコーヒーから立ち上る湯気が、まだ醒めやらぬ午前の冷え込みと北欧の夏の淡い日差しの間で戯れていた。その朧げなうっすらとした香りの幕が二人の間の意識を遮っているようだった。

「あの一番真ん中のところまでは何メートルあるの?」

啓介の人差し指が示す先を見つめながらモルテンが困ったような顔をした。

「え?考えたこともないよ」

二人を隔てる意識のカーテンがざわめいた。戸惑いを隠すような、少し尖った幼い声が記憶に共鳴した。啓介は軽い微笑みを返した。何かを受け取ったという証をこの瞬間に刻み、伝えておきたかった。

ゆっくりとカップを手にし、口へと運ぶ。腕の上下運動がぶら下がっていた幕を揺らし、薄ぼんやりとした光とひんやりとした空気が間を行き来した。口内に広がる黒い液体が夜明けを告げる鐘のように意識に染み込んでゆく。

啓介は通りかかったウェイトレスにも同じ質問を投げかけた。聞かれた真意を推し量るように彼女は一瞬、押し黙った。やがて啓介の目線の先を確認するようにゆっくり振り返ると、小首を傾げた。そろりと視線が返ってきた時、彼女は答える。

「さあ・・・、わかりません」

完璧な答えに、啓介の気分は晴れ渡った。

ウェイトレスは振り返り、青い瞳でもう一度ちらりとその橋を見上げると、静かに立ち去って行った。

「絵になるね。この街は。写真に撮っておきたい風景がいっぱいあるけどカメラ持ってこなかったな。って、そもそも持ってないんだけどさ」

橋を眩しそうに見上げる啓介をモルテンが探るように見つめている。

「この辺にカメラ屋あるかな?」

「うん。この上に出たところにハラルツガータっていう通りがあるから。この町のショッピング・ストリート。そこにあると思うよ」

「よし。じゃあ、後でカメラ買いに行こう」

「え?今、買うの?」

風に流されてきたカモメの鳴き声がテラスを横切った。波の打ち寄せる微かな音楽が周囲に溢れている。同時に、それは潮の香りが作り上げた幻想にも思えた。それぞれの胸の内の複雑さをなだめすかすような平凡な時間が流れていた。

「ねえ」

「ん?」

「どうしてニーナと一緒にここまで来たの?」

兄弟でも年長者をファーストネームで呼ぶことに対してもう違和感は感じなかった。

「人助けが一つ。それと・・・、彼女のことをもう少し知りたかったことがもう一つかな」

「知りたかった?」

「オスロでは最初に話したときは元気があって、生き生きと輝いていた。でも、ここまでの道中、陰を感じさせたり、しっかりしていたり、弱いところを見せたり。北ヨーロッパの天気みたいにいろいろな表情を見せるもんだから・・・。なんだかわからないけど目が離せなくなった。興味が湧いてきたってやつかな。彼女の周囲で回り始めたこと全部に」

目の前をボートが一艘、白い船体に陽の光を映しがら通り過ぎた。啓介はしばしその眩しい反射光を目で追った。その光の束には危険な香りはなかった。

「彼女を見ていると自分のことを考えさせられてしまう。今まで見ないようにしてきた自分自身のことをね」

己自身を取り繕うような言葉が空っぽの体内にこだました。並んだコーヒーカップの向こうに戸惑いの表情が揺れている。後に続かない言葉を軽いため息で埋め合わせた。

急いで解を手にする必要はない。

「とにかく、みんなそれぞれにいろいろと抱えているんだなってこと、実感してるよ。今更ながらね」

そう言い終えると、啓介は静かにカップを口元へと運んだ。カップの中の液体には凛とした朝の気配が満ちていた。啓介は異国の表情を確かめるように、ゆっくりとそれを飲み下した。

「あ、今朝、喧嘩でもしてたの?」

生活が奏でる音も周囲で人が揺れ動く影も全てが小さな穴にするりと吸い込まれていった。それが答えだった。

「原因を知らないから簡単に言えるんだけど・・・」

一瞬の躊躇が言葉を阻んだ。先程飲み下した清涼な空気が言葉から邪気を払い落としてくれたように感じた。

「なんか、感情を晒し合える家族っていいなって思えた」

伏し目がちに訝しげな表情が次の言葉を待っている。食器の触れ合う音が二人の間を通り過ぎた。

「僕には兄が一人、妹が一人いるけど、あんな風に何か言い合ったことがない」

「ない方がいいんじゃない?」

「どうだろう?なんだか、お互いに隠し持っている何かがあるっていうか・・・。切れ味の鋭い刃物なのか、棒切れなのか・・・、あるいはただの輪ゴムみたいなものなのか・・・凶器なのかさえわからないけど、傷つけられるものの存在を感じてたな」

すらすらと出てきた思いは生まれると同時に崩れていった。その瓦解の速度についてこられたのかどうか、モルテンの表情からは読み取れなかった。

「ふふ。なんか不気味だよね、言ってること」

「でも急に帰ってきてなんだかんだ言われるのも嫌だよ」

「なんだかんだ?」

どこか吐き捨てるように響いた言葉が乾いていた心の襞を震わせる。剥き出しになった戸惑いが心の底にあった腫瘍に触れた。軽い電気ショックの後、忘れていた扉がそっと押し開けられた。そこに現れたのは遠く懐かしい匂いだった。久しく蘇ることを封印されたそれは音と映像を添えながら、今や確かに実在したのだという主張とともにこちらを見つめている。


「お兄ちゃんはねぇ・・・。なんていうか考えすぎなのよ。人生、もっと気楽に生きればいいのに」

翠子があっけらかんとした調子で口にした。それはあの時、高校二年生の本心が語らせる声だったはずだ。手に持っているのは・・・外国のビールだ。

「こら。女子高生がビール片手に知った風に人生を語るな」

ビールを取り上げるようとする啓介の素ぶりをひらりとかわし、安全な間合いから屈託のない笑顔を向ける翠子。年が五つ離れた兄に比べ、二歳違いの妹は啓介の傍らにいても最も違和感のない存在だった。近頃の高校生っていうのは一体どうなっているのだろうなどという柄にもない年長者然とした台詞で、今日も閉ざされた扉を緩めてしまう啓介。ラッパ飲みでビールを流し込む喉が軟体動物のように波を打つのを眺めていると、世の中に溢れる悩み事は全て解決が約束された寸劇のように思えてしまう。

「ふう。長いものには巻かれて、適当に親の言うことを聞いてやっていきゃ人生安泰。きゃはは」

子供の頃から、どちらかといえば啓介に似ていると言われてきた顔立ちの妹。性格的には活発で物怖じしないところがあるのは啓介とは対照的だった。そんな妹の人生マニュアルが収まる場所は啓介の内にはなかった。

「お前のようにあっけらかんと割り切れればいいんだけどな」

諦めたような表情で啓介が返す。妹の性格を心底羨んでの言葉であり、自分にないものへの憧れが混じった思いでもあった。しかしその瞬間、翠子の目からスッと何かが消えた。

「私、何も悩み事がないように見えるかな?」

「えっ?」

意外な台詞に啓介の視線は行き場を失った。突然重大な告白が降って来たようなそんな戸惑いに襲われた。重い空気が喉元を締め付け、言葉の通り道を塞ぐ。眼前にある妹の表情は啓介の記憶の中のそれとの明らかに繋がりを欠いていた。

お前は誰だ!

心の絶叫とともに、真空に放り込まれたような絶対的な孤独を感じた。しかしそんな一瞬が実は夢であったかのように、次の瞬間にはいつものきらきらした雰囲気に包まれた翠子がいた。

「ああ、美味しい」

ビールを飲み下す音が何かを心の底にしまい込もうとしているかのように響く。そして啓介は一瞬前に見た光景の存在を既に疑い始めているのだった。目の前で歌うように話を弾ませる翠子。おぼろげにかすみ始めた先ほどの陰。どちらが翠子自身なのだろう?

それからほどなくして啓介は安達家を出た。翠子との会話もそれが最後のものとなった。以後の展開は母祥子が書き綴る安達家内の様子から想像するしかなかった。妹は掟通りに医学の道に入り、卒業を待たずに大病院の後継者と婚約をした。妹の本心がどこにあったのかは今となってはわからない。ただ、あの日垣間見た翠子に会うことはないだろうとの予感が啓介の胸の扉に鍵をかけてしまっていた。

啓介はモルテンの見つめている先に視線を戻し、続けた。

「でも、関心がないってことは、つまりそこここですれ違う赤の他人と同じってことだよ。兄弟なのに。同じ家に何年も一緒にいるのに。もっと・・・なんていうか、お互いを晒し合える存在じゃないかな、家族って」

モルテンはそれには答えず、ただ残ったコーヒーを一気に飲み干すと、無言で立ち上がった。

「あ、車で送っていこうか?」

黙ったまま首を横に振った。

「車があるなら・・・。サンドヴェっていうところに綺麗なビーチがあるから、・・・せっかくだから行ってみたら」

啓介は対面で揺れる瞳の中心を見つめながらそれを聞いた。淡い光を背負ったその深い青の真ん中で一瞬何者かの影がすっと隠れた。

「ビーチ?」

正体のわからない影が残した歪な空気を、北ヨーロッパの絵に結びつかない言葉で閉じた。

「うん、昔、家族でよく行ったんだけど」

「へえー。ありがとう。考えておくよ」

モルテンはそのまますぐに立ち去ることもなく、しばらく啓介を見下ろしていた。そして小さな子供がするように尋ねた。

「あ、あの・・・、日本って遠いんでしょ」

凝り固まった何かを解きほぐすような質問だった。

「まあね。すごく・・・ね」

「世界でさ・・・」

「ん?」

「世界で最初に円周率を11桁まで正確に計算したのは日本人だって、それ本当?」

「え?それは初めて聞いた・・・」

「知らないんだ」

無知をただ正直に晒した。しかし返って来た言葉に軽蔑の色はなかった。表情にも落胆の影はうかがえない。裸の言葉のやり取りが忘れていた傷跡を優しく撫でた。やがてどこか寂しそうに小さく笑うと、モルテンは一つ大きく息を吸い込んだ。それからゆっくりと、今度は一つ残らずといった風にそれを吐き出した。別れの合図ははにかんだ笑顔だった。そして背を向けると、ゆっくりと歩き出す。後ろ姿が次第に小さくなっていく。その動きを見つめながら、啓介はたった今交わされた言葉の輪郭をなぞった。

「置いてきたものは遠くになりにけり・・・か」

曲がり角の向こうに消えたものからゆっくりと視線を切り離した。一つ小さく息を吐き、空を仰ぐ。切れ切れになった雲のかけらが悠然と上空を泳いでいた。目に映っているものは世界のほんの小さな一部に過ぎなかった。そして、それが残りの全てにつながっているに違いないことを同時に実感した。

ゆるい風を切って一羽のカモメが頭上スレスレを横切った。

ふと見ると、店内に見えるカウンター横の壁に一本のギターが掛けてある。啓介はそれに吸い寄せられるように店内へと進んだ。埃をかぶったクラシック・ギターだった。年季を感じさせるものではあったが、一見して安物ではないことがわかる。かといって高級ともいえないものだろう。ただ所有者に愛され、大事に使い込まれた感じだけは状態から伝わってきた。胸に眠っていた何かが広がる。通りすがりに目にしただけのような古びたギターがなぜこんなにも心に引っかかるのだろう?啓介は自分でもその問いに答えられないでいた。

「すみません」

暇そうに洗い物をしていた中年男性が怪訝そうにこちらに視線を向ける。この店のマスターなのだろうか。日陰の中に眠る不確かなものを一身に背負ったような、感情も風貌もおぼろげな姿が不思議にも啓介中に滞留していた重いものを吹き払ってゆくようだった。

「これ、弾いてみてもいいですか?」

啓介はその不確かな光景に手招きされるように普段の自分にはあり得ない問いを発していた。淡い光の中に浮かぶその目にゆっくりと予期せぬ親しみが広がるのがわかった。

「『また来る。それまで預かっておいてくれないか』って言ってそれっきりの古い友人が置いていったものなんだけど・・・。俺は弾けないからさ。弾いてやってくれるならそのギターも喜ぶよ」

啓介は埃を軽く吹きはらい、愛おしむようにそれを取り上げた。そして近くにあった椅子に腰掛けると、全体を撫でるように状態をチェックした。幸いにもフレット部分、ネックに異常はないように思えた。サウンドホールに見えるラベルは、持ち主を失ったそのギターがスペインから来たことを物語っていた。

緩んだ弦を締め直そうとペグを回す。かつての輝きを失ったそれが悲鳴をあげる。聴覚は記憶の底に眠る音を探っていた。脳裏には様々な過去のシーンが現れては消えた。全てはモノクロだった。弦を切ってしまわないよう慎重に指に力を加えながら、音と音とを重ね合わせる。重なり合うのは音だけではなかった。忘れられ、ただあてもなく浮遊していただけの過去が今に繋がり、意味へと姿を変えてゆくようだった。

指先を圧する弦からの強い反発力が記憶の扉を開放する。特に音楽に熱を上げていたわけではないが、なぜかよく一人で弾き語った曲があった。誰かに聞かせるわけでもなく、ただ一人口ずさみ肌に染み込んだ曲。その感覚が体と心の全体に蘇った。それは啓介が唯一奏でることができる曲でもあった。

子供の時、青春ドラマでよく耳にした、誰かを求めてやまない歌だった。そんなドラマが青少年の間で人気を博していた当時、自身はまだ小学生で、正直、登場人物の葛藤はおろか、そこに描かれた人間関係もよく理解できなかった。なのに、どうしてこの曲に執着してきたのか。啓介は自分でもその理由について考えることもなく過ごしてきた。歌詞に出てくる「あの人」は窓の外でただ揺れているだけの影だった。

「人は皆 一人では生きてゆけない」

何度か口ずさむフレーズ・・・。それは果たして真実なのだろうか。

歌いながら啓介は歌詞が描く世界の意味について考えていた。曲は静かに続く。

自分の心の中に誰かに委ねることができる場所があるのだろうか。

答えの出せない問いが啓介の胸に重くのしかかる。その重さを引きずったまま最後の弦を弾き終えた。

程なく二人の人物からの拍手が届いた。客のいない午前中のカフェにいたのは啓介の他に先ほどのマスターらしき中年男性とウェイトレスだけだった。

「すいません。訳のわからない言葉の歌、聞かせちゃって・・・」

マスターは大仰な仕草で「気にするな」と合図した。そして勢いよく親指を立てながら尋ねた。

「それ、中国語かい?」

「いいえ、日本語です」

「あんた、日本人?」

「はい」

「へえ。俺は今、生まれて初めて日本人に会ったよ」

「そうなんですか」

「ここらあたりはあまり外国から観光客も来ないしね」

啓介は答えに窮し、ただ笑顔を返すしかなかった。外国人によく誤解される日本人特有のそれだ。今だにそれが出てくることに苦笑を隠す。

「で、わざわざどうしてこんなところまで来たんだい?」

「今はオランダに住んでるんですけど・・・」

はっ。そうだ。どうして俺はここに来たんだろう。

啓介は改めて自分に問うてみた。もともとはヘッダールに向かう予定で・・・。しかしその前はウルネス行きを考えたのだった。もっと遡れば、なんとなくふらっと見知らぬ国に流れ着いた・・・、いや、目的もなくどこかに流れ着きたかったのだと言えよう。ここは予定表に記されていなかった滞在地だった。確たる理由などなかった。では、ここに至るまで何をしてきたのか。時間を巻き戻し、記憶を手繰る。彼女と交わした多くの言葉。行き交った感情。自分に追いすがるあの視線。啓介はずっと何かを探していた。そうだ。探していたのだ。過去と現在において。

「ちょっと探し物があって・・・」

驚いたような表情の後に人懐こい笑顔が続いた。そして答えた。

「へえ。わざわざこんなに遠くまで。見つかるといいね」

啓介はそれにはあえて言葉で答えず、笑顔を返した。今度の笑顔にはきっと伝わるものが備わっているはずだった。

明るい日差しに戻り、改めて周囲の夏を確認する。ぐるりと視線を泳がした中で、ふくよかな女性の彫像がするりと視界を横切った。



後記

『ソールヴェイの歌う風(十)』、最後までお読みくださり、ありがとうございます。

この小説は私個人が実際にノルウェーを一人旅した時の記憶に基づき書き下ろした創作小説です。滞在した当時の状況をできるだけ忠実に再現したつもりですが、登場人物に関しては実在の人物とは一切関わりがございません。

作品中、文学表現の可能性を試すべく、画像や音楽を貼付しております。筆者が抱いた心象風景をできるだけ読者と共有できればとの考えに基づく一つの試みです。併せてご堪能いただけると幸いです。

さて、今回ご紹介しました曲はVictoria Nadineさんという方の"Du er ikke alene"というタイトルの歌謡です。邦題では「あなたは一人じゃない」となります。この小説の骨格を支えるテーマの一つでもあります。じっくりお楽しみください。

最後に、作中貼付した画像は以下の無料画像サイトからお借りしました。スペースの都合上、一つ一つの作品に関する詳細を記すことができません。この場をお借りしてお詫びするとともに、素晴らしい作品を無料で提供されてくださるアーティストの方々に対し、深く感謝いたします。

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