見出し画像

2.素人日本語教師がやってきた

海外で仕事を得るということ

現在、日本語教員養成のための講座が各種あり、その能力を証明する試験なりもあるそうだ。同時に、海外で日本語を教えることを夢見ている若い方をネット上でもちらほらお見かけする。若いうちからそうしたトレーニングに身を置き、切磋琢磨している方を前にすると、自分のような者が15年もの長きにわたってその「憧れ」のポジションにいることを心苦しく思ってしまう。同時に、自分がここにいるのは自分がここで棲息でき、他者が持っていない「何か」を持っているからだという気もする。その何かとは・・・。


以前、採用された学校長がネイティブ・スピーカーを採用したがっていたらしいということには触れた。それでいけば、私かもう一人の日本人女性が俄然有利な立場にある。しかし、今振り返れば、それ以外の思い当たる節としてあげられるのは現地語能力ではないかと思う。授業は実際には英語、あるいはその能力があるのならばフランス語ですればいいのであるが、ベルギーのオランダ語地域の場合、学校内部の公式文書は全てオランダ語で処理しなければならない決まりがある。これは法律でそう決められているのであり、建国以来、幾度となく言語によって政治問題が持ち上がってきた国の知恵として、地域による行政言語の棲み分けを明確にした政策の結果である。当然、学校からのメールも全てオランダ語だ。つまりは、行政言語であるオランダ語がわからなければベルギーのオランダ語地域の公的機関、あるいは学校のように公的に政府からの補助金が注ぎ込まれている機関では働くことができないわけだ。この点で、面接に来ていた二人のフランス人カップルは恐らくオランダ語が話せなかったのではないだろうか。普通のフランス人はオランダ語のようなマイナーな言語は勉強しないと思う。偏見かもしれないがw。

私の場合、採用時には特にオランダ語能力を証明する公的証明書のようなものの提出は求められなかったが、その後、それを要求されるという話が持ち上がり、かなりハイレベルな語学試験に合格しなければならないと噂されたことから、非常に焦ったことを覚えている。明らかに非ヨーロッパ言語話者にとってのみに過度の負担を強いる制度だと感じたからだ。結局はオランダ語地域の教育機関(授業はオランダ語で行われている)で教員養成課程を修了し、そのことでオランダ語能力ありとするとなったことでこの問題はクリアできたが。

では、面接に来た二人の日本人のうち、私の方に仕事が回ってきたのはなぜなのか。もう一人の応募者であった日本人女性もオランダ語は話せた。ここで自分との違いはなんだったのかと考えた場合、思い当たるものはフランス語能力だった。当時、既にかなり忘れてしまっていたが、フランス語検定二級を取るぐらいには過去、勉強していた。オランダ語地域にある学校とはいえ、そこはブリュッセルとワーテルローの間にある、実質的にはほぼフランス語地域であった。実際問題としてフランス語話者の生徒が多く、フランス語がわからないでは仕事に支障をきたす。学校という現場が圧倒的に女性優位の職場である以上、男であるという理由で採用されるとも考えにくい。今となっては、これも私の想像に過ぎないが、ベルギーにあるその職場でその当時必要とされたであろう道具を、何故か偶然にも私が全て揃えていたということだけは言えそうだ。その質はともあれ・・・。


今後もし、海外で日本語教師の職を得たいというのであれば、あるいはたとえ日本語教師でなくても何か海外で仕事を見つけたいのであれば、行きたい国の現地語事情はしっかり確認しておいた方がいいだろう。もちろん、英語だけで仕事を得ることも可能ではあるだろうが、現地語能力を身につけることで現地の労働市場に現地の人と対等な立場で参入することができるようになる。それだけで何か現地の競合者に対してアドバンテージがあるとは思わない。ただ、より対等にスタートラインに立てることは非常に重要だ。

私自身は以上のようなことを念頭に置いて外国語を学習してきたことはなく、偶然により自分が差別化され、それが結果的に「今」に繋がっただけであるが、やはり偶然というのは侮れないとつくづく思う


初めての生徒

さて、ややこしい言語事情を抱えた学校での教員生活がスタートした。仕事は一応オランダ語を使うという建前がある一方で、実際の教室ではフランス語が使用言語として重要な地位を占めるという状況だ。私の採用を後押ししたかもしれない校長の方針としては、教室内では学習言語で授業を行なって欲しいということらしい。

冗談じゃないですね。日本語初心者に日本語で授業なんて!

まあこれぐらいのことは日本語教育未経験者でも想像することはできた。一方で心の中では「ああ、フランス語やオランダ語を使わなくてすむという大義名分を得たな」と、ホッとする自分もいた。結局、教科書が英語だったと言うこともあって、あまり深く考えることもなく英語を使って授業をすることにした。適当に日本語を前ながら・・・。

英語で仕事をするなんて自信の欠片もなかったが(今でも)、英語で書かれた教科書の内容をフランス語に直したり、瞬時にオランダ語に脳内変換することの方がもっと面倒そうだったので仕方があるまい。妥協というやつだ。そんな消極的な決心とともに、のこのこと教室へ向かった。


ここで一つ大事なことを指摘しておきたい。これは現在でもそうなのだが、ヨーロッパでは外国語学習に対する根本的な誤解があると感じる。経験から予測しようというのは行動として理解はできるが、こと外国語学習に関しては、ヨーロッパの人々が経験したことのある外国語、つまりは英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語などの学習経験を介して日本語や中国語の学習過程を思い描いた場合、それは相当に怪しいものと言わざるを得ない。初学者でもヨーロッパ言語話者なら、他のヨーロッパ言語は学習開始後三ヶ月もすれば曲がりなりにも少し話せるようになる(と、フランス語担当の同僚が豪語していた!)のとは訳が違うのだ。

そんなヨーロッパ言語話者の日本語学習。過去、自分にとってヨーロッパ言語の学習の何が難しかったのか、ドイツ語とオランダ語の近さ、韓国語や中国語学習時のとっつきやすさなど、自他の立ち位置を入れ替え、比較しながらいろいろな学習者の学習過程を想像してみようと努めている。そしてそこから学習継続のヒントとなるようなアドバイスを発見できればと思っている。


周囲数メートル四方の剥き出しのブロックで仕切られた教室。来るところまで来てしまった感のある人生最初の日本語の授業だ。そこには七人が席に着いていた(多分・・・)。年齢、性別、肌の色は意外とバラエティに富んでいたように思うが、所詮は七人という極小クラスだ。東洋系、ベルギー人フランス語話者、モロッコ系移民、男性三人、女性四人で、年齢層としては10代後半からもうすぐ年金生活という幅広さがあった。簡単に言えば、非常に多様性のある構成だった。

教室にはとりあえずパソコンがあったが、昨今のように、インターネット環境が整っているわけでもなかったので教科書中心の講義式授業にならざるを得なかった。記念すべき最初の授業で何を話したのかは記憶にも記録にもない。恐らく、日本語という言語の仕組みと挨拶、少しの自己紹介についてぐらいしか話せなかったはずだ。英語で意外と意思疎通ができたことには安堵した。一人の初老風の女性が少し居心地悪そうな印象だったが、相手をする余裕はこちらにもない。こうして休憩までの二時間はあっと言う間に過ぎ去った。やれやれ。ひとまず教員室に引き上げる。

そして休憩後、教員室から戻ってきた時には生徒は六人になっていた。例の居心地悪そうにしていた女性は早速脱落したようだ。居心地の悪さは恐らく日本語という言語の壁で、それが想像以上に高かったということなのだったのかもしれない。最初、結構パニックになっていたようなので。

日本語学習時間二時間というのは私が持った生徒の中では今も破られぬ最短記録である。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?