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毒育ちが語るドラマ『最愛』

(画像はhttps://www.tbs.co.jp/saiai_tbs/より)

注意事項

・当記事はドラマ『最愛』の視聴を前提としており、大いにネタバレを含みます。未視聴の方の閲覧は推奨しません

・当記事はあくまで一視聴者の個人の感想、解釈、考察に過ぎません。当記事によるいかなる責任も負いかねますので予めご了承ください


皆様見まして? ドラマ『最愛』を 

『イカゲーム』の記事でも少し触れましたが、二周するレベルの神ドラマでした。ただ当作品はリアルタイム視聴でないと起こらないカタルシスがあるのかもしれないですね。と言うのも姉は私の二週目に付き合う形で視聴したのですが、「確かにめちゃくちゃ面白かったけど、もう一度は見ない」と(笑)
まあ姉の反応は置いておくとしても私個人としては、『最愛』をリアルタイムで存分に堪能できたことに感謝しかありません。展開が気になり過ぎて仕事に手がつかなかったり、酒を飲みながらあーだこーだと考察して一週間を待つ、これぞテレビドラマの醍醐味なのではないかと私は思いました (さすが「ドラマのTBS」)

誰から誰にとっての最愛か

①達雄(光石研)⇔梨央(吉高由里子)・優(高橋文哉) 家族愛
②梨央⇔優 兄弟愛
③加瀬(井浦新)→梨央 兄的な家族愛と恋心
④大輝(松下洸平)→梨央 兄的な家族愛と恋心
⑤後藤(及川光博)→梓(薬師丸ひろ子) 家族愛と忠誠心
⑥渡辺昭(酒向芳)→康介(朝井大智) 家族愛(個人的には執着に思えるが)
⑦橘しおり(田中みなみ)→自分自身?過去の自分? ※もう一人の梨央や違う世界線の梨央のメタファーか

 ざっと書き出しただけでも登場人物にはそれぞれ何かしらの愛を持っている訳だが、誰かの「最愛」は誰かにとっての悪や障害ということもあり得る。あるいは誰かの「最愛」が、誰かの「最愛」を歪ませたり潰したりする可能性もある。視聴しながら「生きとし生きる者の最愛は両立しないのが現実なんだな」とあらためて感じた次第だ。

???「愛ほど歪んだ呪いはないよ」

毒育ち女が考える「愛」

 結局「(最)愛」とは何なんだろう、と『最愛』を見終わってもなお私は考えている。

 平板な表現で恐縮だが、私個人としてはまず愛とは「一緒に楽しく食事をすること」「喜怒哀楽を共有すること」「お互い様と言えること」であると認識しているが、要は「一貫した責任を以てして相手に接すること、向き合うこと」に尽きるのではないか。

 時として相手の自立を考慮して厳しく接することもまた愛なのかもしれない。相手が辛い時にただ寄り添うことも愛と言えるだろう。はたまた遠くから見守ることも、世界を敵にしてでも信じ抜くことも、短所も長所も互いに受け入れることも、容認はせずとも否定はしないこともすべてある種の愛であると私は思う。

 その最たる愛こそが「最愛」であり、多くの人は肉親や配偶者、そして自身の子供に向けられているのではないか。残念なことに私自身は一部の肉親に対してその「最愛」の感情を抱くことは叶わなかったが、愛の形とは対肉親だけとは限らないだろう。友愛、推しへの愛、組織愛、師弟愛、隣人愛、故郷愛、地元愛など「一貫した責任を以てして相手(または対象)に接すること、向き合うこと」さえ満たせば、そのすべてが「(最)愛」と成りえるのだ。

歪んだ愛もまた「最愛」

 ただ自己愛が強い人間とは往々にして甘言密語、無責任な称賛や甘やかし、目に見える愛情だけを愛だと勘違いしている。先に述べたように、「(最)愛」には様々な形があることも知らずに。

 甘言蜜語も度を過ぎれば、たちまちただの依存、服従、執着、利害関係といった歪んだ愛になる。『最愛』における渡辺親子はその歪んだ愛に近いと言えるが、彼らにとってはそれが「最愛」であるのもまた事実である。たとえば毒親や毒家族が一方的に押し付ける愛も本人がそう言い張れば「最愛」なのだ。そして正直死んで当然と思える、というかむしろ揃って死んでくれて清々するような渡辺親子も確かに「最愛」という感情を持ち、それを向ける相手が居たはずである。

 しかし私個人としては「最愛」が成立するには、相思相愛という名の信頼が必要不可欠なのではないかと。 真田親子と加瀬や大輝が持つ「最愛」は言うまでもなく相思相愛と信頼が垣間見える関係性であった。 しかし渡辺親子について言えば、父親から息子への「(私からすれば実に歪んでいる)最愛」は明確に描写されていたが、息子から父親への感情に関しては不明瞭である。私の稚拙な考察では、おそらく息子はさほど父親に興味がない、もしくは心底見下しているまであり得るかと。 劇中の随所にそのような“含み”を持たせている点も『最愛』の素晴らしいところの一つなのかもしれない。私なら一から十まで書いちゃうわ。

「最愛」が常に正しいとは限らない

「最愛」の人に幸せに生きてほしいのは、人間誰しもが抱く当たり前の願いである。ただその「最愛」という感情が引き起こす事象が必ずしも正しいとは言い切れないという事実を、見事に描き切っているところが『最愛』の最たる魅力なのではないか。

 たとえば加瀬は、真田親子(特に梨央と優)への「最愛」を大義名分に康介を遺棄し、さらにその父親を殺害した。時を経て橘しおりから脅迫を受けると、再び梨央と優への「最愛」から(結果として)橘しおりの命を奪ってしまった。加瀬に対しては「最愛を名目にすれば、何してもいいんかい!」と憤る一方で、それも人間が持ちうる「最愛」の形一つであり、人間が抱える矛盾そのものであると私は認識している。大輝、優、後藤、橘しおりに関してもそれぞれの「最愛」のために(大なり小なり)ルールやモラルから外れた行為を行っている、それもそれぞれの「最愛」ゆえである。


 私が『最愛』から学んだのは、愛にはさまざな形があること、第三者からすれば愛ではないと思えても当事者にとっては愛である以上誰もそれを否定できないこと、である。そして「最愛」という感情が常に正しいことをもたらすとは限らない、ということだ。

 これだけの人間が生きている以上、それぞれに「最愛」という感情とそれを向けられる相手が存在する。愛ゆえに人を生かすこともあれば、愛ゆえに人を傷つけ、貶めて、時として殺めてしまうこともある。戦争や紛争も突き詰めていけば、それぞれの故郷や同胞への「最愛」が最大の引き金なのかもしれない。

 もしも各々の「最愛」をまっとうに貫ける世界だったら、まず毒親や毒子供のような存在が生まれることはないのかもしれない。渡辺親子の背景は特に詳しく描かれてはないが、その世界に生まれていたら康介もあのような愚行に手を染めなかったかもしれないと私は想像する (そうだったとしたら『最愛』という物語は始まらない訳だが)

 そもそも誰か「最愛」が立つと、ほかの誰かの「最愛」が立たないって変な話であると私は感じている。愛とは相対的なものではなく、絶対的なものであるはずだし、今はそう信じたいからだ。

 私の拙い文章力と語彙力では『最愛』の魅力の百分の一、いや千分の一も語り切れていないが、本当に素晴らしい作品に出会えて喜ばしい限りである。ほんの少しだけ無理筋な場面もあったが、キャスト、脚本、展開、音楽すべてがパズルのピースのように美しくはめ込まれていた。何よりもこのパズルのラストピースは、宇多田ヒカルが歌う主題歌「君に夢中」だと私は感じた。『ノーサイド・ゲーム』と米津玄師の「馬と鹿」、『アンナチュラル』と同じく米津玄師の「Lemon」くらいのビタビタ感だった。良作だから主題歌が映えるのか、主題歌が良いから作品が光るのか……とにかく神ドラマには神主題歌ありということである。

 ちなみに母は大ちゃん派、私は加瀬さん派、姉は優君派と、それぞれ「最愛の」相手がいましたとさ。ちゃんちゃん。

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