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毒親と負のコミュニケーション


 私が思い出せる限りの毒祖母の発言は、他人の悪口や貶し、暴言、人の足元を見た罵りがほとんどを占めた。それを“負のコミュニケーション”と定義すれば、毒親とはそれを介さないと他人と繋がれない事に私は気がついた。例えばテレビ観賞一つとっても毒祖母は「この人(出演者)嫌い」や「つまんない」ばかりでドラマを見ても建設的な感想の一つも言わなかった。(言えなかった、が正しいのかもしれないが) その一方で少しでも感動的なシーンに差し掛かると、毒祖母はやたら大袈裟に涙を流していた。それも“泣いてる自分”に酔ってたいただけだと思うと、心底気持ち悪いと感じる。
 このように毒祖母の中心は常に彼女自身であったのだが、そんな人間が他人はもちろん家族や子供とさえ健全な信頼関係を結べるはずがないと、私は断言する。


毒親には他人と共生する概念がない

 毒親の多くはパーソナリティ障害や発達障害(の傾向がある)などの原因から、他人と共生する概念や他人への配慮を有していない。ゆえに毒親のような人間が、他人と健全な信頼関係を築くなど到底不可能だ。一般的に人間とは相互扶助や共感を通して相手との信頼を深めていくはずだが、毒親らにそんな“芸当”をこなすのは無理な話である。
 健全な信頼関係を構築できないとなると、“不健全な関係”でも構わないから誰かと繋がりたい、という歪んだ思考に陥る太が、その思考こそが、毒親が“負のコミュニケーション”に走る原因だと私は思うのだ。(せめて「ひとりでいられる能力」があれば良かったのだが、往々にして彼らは一人で居られない)


不健全な関係を作っては壊す

 毒親の多くは、同性の同級生や同期とコミュニケーションを取ることができない(できなかった)という持論が私にはある。

 ここで味噌なのは、先輩や後輩、異性といった存在は余程の理由がない限りそう無碍な扱いはしない(できない)点である。 同級生や同期が忖度しないのはごく当たり前であり、それが同性ならば尚更である。特に自己愛が強いタイプの毒親は、このような同性の同級生や同期をもっとも忌み嫌う一方で、先輩や後輩、異性に取り入ってその自己愛を満たす(満たしてきた)と考察できる。所謂オタサーの姫や女性が多い界隈に入り浸る“自称”ジェンダーレス男子(逆もまた然り)、サークルクラッシャーといった存在は、後に親となった際に毒親になる可能性を秘めていると私は考える。

 仮に同性の同級生や同期とある程度コミュニケーションを取れたとしても、その手法が負のコミュニケーションであるのも実に不健全だ。他人の悪口や陰口、そして悪事の共有とは時として強い磁力で人を結びつけるが、まともな人間ならば忌避するはずである。詰まるところ自己中心的な人間同士が結びついたところで、遅かれ早かれその関係が破綻する事は火を見るより明らかだ。個人的観測によれば、自己愛が強い人間同士の“蜜月”とは短くて一週間、長くて半年といったところだろうか。その最期は壮絶なマウントや砂かけ合戦に至り、周囲を巻き込む事もしばしばだ。

 いずれのケースにおいても一つの関係が破綻すれば、また新たな相手を見つけて再び関係を築くのが彼らの性だ。その砂城のような関係を作っては壊し、また同じ事を繰り返していく。だから毒親の大半は、付き合いが長い信頼に値する友人や存在を持てない、あるいは不健全な関係を健全だと思い込んでいるに過ぎないのだ。


子供という存在に縋る毒親たち

 スクラップアンドビルドのごとく世を渡り歩いたとしても、若い頃はそう不便を感じないかも知れない。出会いがそこら中に転がっているゆえに関係を築く相手にはそう困らないからだ。それが年齢を重ねていくと、どうだろうか。大人になれば守るべき物や存在が増えるため、新たな相手よりも家族や知己を優先するのは当たり前であろう。そして毒親たちは、親になってから気が付く。自分には信頼できる存在が居ないことに、今後そのような存在と出会える可能性が低いことに。時すでに遅し、大方配偶者とも不健全な何かで辛うじて繋がっているだけなのだろう。

 そんな彼らは、慌てふためくように眼前の子供に縋る。

「お前は私/俺を見捨てないよね/な?」
「私/俺は一人じゃ生きていけない」
「お前は私/俺なしでは生きていけない」

 これらの“呪詛”を子供に向けて唱えることで、彼らは子供を縛り付ける。それが子供の自立や将来を阻害する事など知る由もなく、だ。
 しかしそう“懇願”されたところで残念ながら、他人と健全な関係さえ結べない人間がどうして子を育てる事などできるのだろうか──私はそう思えて仕方がないし、「自分の傲慢さが引き起こした責任をこっちに押しつけないでくださる?」と、笑いながら唾を吐いてやりたい気持ちにさえ駆られる。


行き着く先は破滅と孤独

 当記事を書くにあたって私は終始毒祖母の人生を想起していた。
 毒祖母の生い立ちとは多少は同情すべきものであるが、それ以上に今日日誰一人とも深い信頼関係を築けなかった事に私は憐憫すら覚える。配偶者であった亡き私の祖父をはじめ、腹を痛めて産んだはずの私の母や伯父たち、孫である姉と私、私の父、その他親戚一同、昔の職場でお世話になった同僚たち、所属していたサークル仲間たち、近隣住民……この中の誰一人として現在の祖母を心の底から気にかける人間などいないだから。あれほど「私は友達がたくさん居る」「アンタ(私の母)は性格が悪いから友達が居ない」と抜かしていた癖に最後は誰もてめぇの事など思っていなかったとは、果たしてこれほど皮肉なことがあるだろうか。
 不健全な関係や負のコミュニケーションばかり繰り返した結果、対等かつ信頼に足る存在が見つからなかった毒祖母は、ついに孤独に陥った。他人からの称賛なくして生きていけない彼女は、今や死んだも同然だ。ならば早く肉体の方も亡くなって欲しいと私は切に願ってやまないが。


 砂城を造っては壊してまた造るその姿は、砂遊びを覚えたばかりの子供のようだ。それが本当の子供ならばまだ構わないが、中年や老人がいつまでも遊びに興じていたら──その光景を思い描くだけでも末恐ろしいが、彼らは今日もどこかで虚しい砂遊びに夢中になっているだろう。

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