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毒育ち女が語る映画『セブン』

(タイトル画像は、https://www.youtube.com/watch?v=FRwBn7FJrKcより)

【注意事項】

・当記事は映画『セブン』の視聴を前提としており、大いにネタバレを含みます。未視聴の方の閲覧は推奨しません

・当記事はあくまで一視聴者の個人の感想、解釈、考察に過ぎません。当記事によるいかなる責任も負いかねますので予めご了承ください


毒親、「七つの大罪」に当てはまる説

「七つの大罪とは」
キリスト教において罪の根源とされる7種類の悪しき感情、欲望などを指す語。一般的には「傲慢」、「嫉妬」、「憤怒」、「怠惰」、「強欲」、「暴食」、「色欲」の七種が数えられる

https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%83%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%BD%AA

『セブン』(デビッド・フィンチャー監督,1995年制作)を視聴していた私は、毒親/毒家族とは「七つの大罪」のいずれかに当てはまるのではないか、という仮説に至った。特に「傲慢」「嫉妬」「憤怒」に該当する毒親/毒家族が多いのではないか。というのも私の毒祖母は、色欲と暴食以外をコンプリートしているというなかなか罪深い存在である。

『セブン』は猟奇的な連続殺人事件のインパクトやフィンチャー監督が放つ独特なビジュアルに目を奪われがちだが、その根幹には家族や親子というテーマが存在するのではないかと私は考える。というのも『セブン』の冒頭は夫婦喧嘩による殺人事件の現場であり、サマセット(モーガン・フリーマン)が子供を気にかけるシーンで始まるからだ。もしかすると、この事件も親が「七つの大罪」のどれかを犯した結果として起きたものだったのかもしれない。

「憂鬱」も大罪の一つだった

 私が『セブン』においてもっとも注目した登場人物とは、主人公のミルズ(ブラッド・ピット)でもサマセットでもジョン・ドゥ(ケビン・スペイシー)でもなく、ミルズの妻・トレイシー(グウィネス・パルトロー)である。トレイシーは終始虚ろで不安げな表情を浮かべている。それがまた彼女の翳のある美しさを引き立てているのだが、彼女が「憂鬱」に苛まれるのも無理はない。夫の転属と共に知らない土地への引越し、騙されるような形で掴まされた訳あり物件、仕事最優先な夫、そんな最中で判明した妊娠……そうなれば確かに藁をも縋る思いでサマセットに相談するかもしれない(詳細は後述にて)

このトレイシーとサマセットの両者が共通して抱く、「こんなクソみてぇな社会に子を産み落としていいものなのか……」という鬱屈とした考えは未婚子無しの私にも理解できる。

 実は、このトレイシーが抱える「憂鬱」もかつては「八つの枢要罪」(「傲慢」、「虚飾」、「怠惰」、「憤怒」、「憂鬱」、「強欲」、「色欲」、「暴食」)の一つであった。サマセットやトレイシーのように人々の出産や育児を妨げてしまったり、時として人を自死に追い込んだりする「憂鬱」という感情は、キリスト教の観点からすればかなり罪深いのかもしれない。後に「虚飾」は「傲慢」に、「憂鬱」は「怠惰」にそれぞれ統一され、「嫉妬」が追加されたことで、「憂鬱」は大罪からその名を消すこととなった。


悲観主義と楽観主義

 毒親/毒家族育ちの私から言わせてもらえば、多少の憂鬱さやネガティブ思考を持ち合わせる悲観主義者こそ本来は良き親になれる可能性があると思うのだ。後先も何も考えねぇでポンポン産む球頭お花畑の親たちに比べて。

 とは言うものの親になるには楽観さもなければ難しいだろう。それこそ「私の/俺の子供だから絶対大丈夫!」と前を向けるくらいの確固たる健全な自己愛および自己肯定感が必須である。ミルズはまさに楽観主義者の象徴であり、逆にトレイシーとサマセットは「憂鬱」の罪人という名の悲観主義者である。あるいはミルズは理想主義者で、トレイシーとサマセットは現実主義者とも言える。(以下のサイトを参照にさせていただきました)

 これは私の素朴な疑問なんだが、トレイシーはなぜ知り合ったばかりのサマセットに妊娠の相談を持ち掛けたのだろうか。このトレイシーの“距離感”について、私はどうも腑に落ちない。(私の理解力不足や見落としだとしたら申し訳ない) 失礼ながらトレイシーは親友が居るタイプにも見えず、夫の同僚であるサマセットしか頼れなかった……と、ここは強引に解釈してみる。それと同時にトレイシーが感じていた孤独感や不安こそが、「憂鬱」という罪を引き起こすのだなとも感じられた。

悲観と楽観のバランス

 話は少し逸れるが、もしあのままミルズ夫婦が無事子宝に恵まれていたらどうなっていただろうか。というかミルズって割と血気盛んで私は度々驚いた。見知らぬ記者に対して無用に激昂した結果、不幸にもジョン・ドゥに「憤怒」の対象に選ばれてしまったのだから。彼のその性根が変わらなかったとしたら、トレイシーとその子はミルズに怯える日々を送ることになっていたかもしれない。

 もちろんミルズ自身と彼のパーソナリティだけを責めるのはお門違いだと思う。刑事という職業柄、ストレスも相当溜まることは想像に難くないからだ。
 これはあくまで私見でしかないが、医療関係、警察関係、金融関係、法曹関係、教育関係に従事している親を持つ子のパーソナリティはどことなく不安定に感じられる。(そのご多分に漏れずに、かつての我が家もそれに該当した) おそらく多くの場合、母親が一人育児に晒される上に父親は多忙・激務ゆえにストレスが溜まってそれを身内にぶつける……という状況になりやすいからであろう。もちろん親のパーソナリティや環境に依存する部分もあるが、元来パーソナリティが安定していたとしても何かの拍子に大きく変貌してしまう可能性もある。
 
 前項で楽観(理想)主義と悲観(現実)主義の話をしたが、出産や育児においてはそのバランスが肝なのだなと感じる次第だ。
 ミルズは良くも悪くもロマンチストすぎるし(ロマンチストゆえに理想との乖離に激高しやすいのかもしれない)、トレイシーはトレイシーで現実を見過ぎて臆病になってしまった。しかし夫婦二人で上手く支え合うことさえできれば、互いの欠点を補うことはできたのではないか……と私は考えたが、そんな“理想”もジョン・ドゥの手によって無惨なまでに壊されてしまった。

ジョン・ドゥの正体

 一連の事件の容疑者であるジョン・ドゥは、パーソナリティ障害者(特に自己愛性パーソナリティ障害、反社会性パーソナリティ障害の傾向が強い)、ひいては安全基地なき子供の成り果てと私は推測する。しかしジョン・ドゥの過去に関する描写はほとんどないので、あくまで推測の域を出ないが。

 このジョン・ドゥ、なぜだか金と教養は持ち合わせているが、それらを手にしたパーソナリティ障害者ほど恐ろしいものはないなと。(いかんせんケビン・スペイシーの怪演が過ぎるんだわ 「刑事さー--ん!」) 彼が猟奇事件を起こしたのは「ミルズに嫉妬したから」と述べているが、その真意は不明瞭である。社会に何かしらの警鐘を鳴らしたかった、あるいは復讐を果たしたかったのだろうか……いやそもそもジョン・ドゥの正体や目的なんてのは正直どうでもよくて、彼の存在とは作品内における「舞台装置」に過ぎない。強いて言えばジョン・ドゥは「七つの大罪」の「嫉妬」を“便宜上”担っているだけで、大雑把な表現で恐縮だが、「社会における不条理」という概念そのものだったのではないか。そして、彼は一連の事件の“真犯人”とは限らないこともあわせて指摘しておく。

「この世は素晴らしい。そのために戦う価値がある」

 それにしてもサマセットがトレイシーに過去を打ち明けた際に発した、「私の選択は正しかったと信じている。だけど、ただの一日ももしあのとき違う選択をしていたらと考えない日はない」という台詞ほど辛いものはない。

 人間とって最大の使命とは子を産み育てることとすれば、そうでない人間は罪人、「七つの大罪」で言えば「怠惰」あたりに当てはまるのかもしれない。もちろん独身子無しの私自身も含めて。

 しかし毒育ちの立場から主張させてもらえば、子供を産んでおきながら子供と向き合わない毒親は、より罪深い存在なのではないか。それこそ冒頭で指摘したように、毒親とは「七つの大罪」のいずれかに該当する罪人とも言える。罪の総合デパートとも呼べる毒祖母を身近に持つ私の脳内には、やはりそのような考えが過ぎってしまう。

「そもそも論」にはなってしまうが、人間誰もが愛する人との子供を産み育てたいと思い、それを実現できるような持続可能な社会が“理想”であるはずだ。その“理想”のためにサマセットは「社会における不条理」であるジョン・ドゥを捕まえるべく奮起し、最後はミルズが「憤怒」にのまれないことを強く願ったのではないか。そしてトレイシーから相談を受けた後のサマセットの頭には、常に彼女とその子供の存在があったと思われる。結果として、サマセットの“理想”と願いはジョン・ドゥという不条理の前に打ち砕かれてしまった。(巷ではサマセット黒幕説も囁かれているが、本稿においてはそれは考慮しないことにする)

 そう考えると、『セブン』とは子供を持たなかった悲観主義者および現実主義者であるサマセットが、ミルズやトレイシーとの出会いからわずかに生まれた“理想”を求めて藻掻き苦しんだ物語とも捉えられる。

 最後はヘミングウェイの「この世は素晴らしい。そのために戦う価値がある」で締められる。サマセットはその節の後半のみに賛同するが、彼は以前のような単なる悲観主義者ではないように見て取れた。

 そのサマセットの姿を見て、私自身も自分で子を産み育てることは無理かもしれないが、他に戦う方法はあるのではないだろうか──今、自分ができることを成せばいいのではないか、と思えたのであった。

『セブン』は観る度にしんどい気持ちに“させられる”が、それだけ私自身に刺さる作品の一つなのである。「この世は素晴らしい。そのために戦う価値がある」の半分だけを信じて、今後とも稚拙ながら毒親/毒家族に関する“生き墓標”を記していきたい所存である。


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