毒育ち女が考える結婚
(※画像はいらすとや様よりお借りしました)
注意事項
・当記事はあくまで個人的解釈および考察に過ぎず、特定の人物に対する誹謗中傷を目的とはしておりません。
・当記事には筆者の性格の悪さが過分ににじみ出ており、不快に思われる可能性があるので閲覧は各自自己責任でお願いします。当記事によるいかなる責任は一切負いかねます。予めご了承ください。
顔も合わせずに貰うご祝儀はうまいか?
もうすぐ六月、いわゆるジューンブライドである。コロナ禍でなければ、多くのカップルが挙式や披露宴を予定していたことだろう。
世間的には早い方なのかもしれないが、友人や同級生らが籍を入れるような年齡に差し掛かっている。いまだ学生気分に浸ったままで結婚もジューンブライドもクソもないといった状態の私は、昨今のSNSにおける婚姻報告とは必要なのだろうかと日々疑問に感じている次第だ。もちろん親族、職場、ごく親しい友人間の報告は理解できるが、「たまたま同級生だっただけ、偶然同じサークルだったお前の結婚なんて知ったこっちゃない」が私の本音だ。それ以上に“オンラインご祝儀”というシステムに私は納得できていない。まあ結婚には金が入用だから仕方ないのかもしれないが、直接「おめでとう」も言われずに貰うご祝儀とは、本当に嬉しいものなのだろうか。そんな“オンラインご祝儀”をせしめた者とは、学生時代からどこか金に困っている節があったような気がしなくもないが、これ以上は私の口から何も言うまい。まあ一つだけ言わせてもらうとすれば、学生時代から人格者で有名だったカップルは「コロナが終息したら皆に会えることを楽しみにしています。今回はあくまで報告まで」といった気遣いを見せてくれたことくらいか。
結婚は「人生の墓場」
もちろん結婚は喜ばしいこと、祝福されるべきことだと私も人並みに思いたいが、「結婚は人生の墓場」とはよく言ったものである。私が一方的に“同じ側”だと認識している既婚友人らの結婚生活を垣間見ると、まさにそうだと感じざるを得ない。そしてその友人らは、私が万が一毒祖母やかつての母との問題に向き合わなかった世界線の私なのかもしれないとも感じている。
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学生時代の友人であるHは、「結婚および育児している自分」に酔いしれて浮かれているタイプである。そんな彼女は結婚報告や結婚披露宴の様子はもちろん、家族で食事をしたこと、旅行に行ったこと、そして鮮明な子供の顔写真まで逐一SNSに載せてくれるが、危機管理能力というものがまるで見当たらない。そんな“幸せに満ち満ちた”彼女のSNSを眺めながら「今度某掲示板に生息するロ○コン共にてめぇの子供の写真を晒してやろうか」と私は密かに笑っている。
そのHとは対照的に私の高校の同級生であるMのSNSは、常に愚痴と同情を引くような投稿で溢れている。その投稿を見る度に「そんなに夫が嫌ならさっさ離婚しろよ。まあできないんだろうけど」という言葉が首元まで出かかるが、口が裂けても言えるはずがない。万一そんなMが妊娠でもしたら……という考えが頭を過ぎらなくはないが、それ以上は私の管轄外である。
義実家との折り合いが絶望的に悪いKは元アルバイト仲間だが、彼女の義両親も私の毒祖母に負けるに劣らないなかなかのパーソナリティをお持ちのようだ。ただ彼女に対する本心を吐露させてもらえば、結婚前の挨拶時から義実家のパーソナリティの不安定さを認知しており、周囲からも結婚を反対されていた以上は、K自身にまったくの責任が無いとは言えないはずだ。Kの夫は将来的に自分の両親との絶縁を考えているようだが、それが今後生まれてくる子供にどう影響するのかは、単純に知的好奇心が刺激されるばかりだ。
リングで戦う者と野次馬の私
私は性根が腐りきっている人間なので、先の彼女らの抱える不幸話は蜜の味そのものだ。彼女たちに時として同情することはあれど、この匿名空間に甘えて思い切り吐き出せてもらえば、「自分や配偶者、義実家のパーソナリティをよく理解もせずに結婚した結果だろ、バーカざまぁ見ろ!」と思うところもある。しかしそれは結婚や育児というリングの上で戦っている彼女たちを、私は安全地帯から野次馬として嘲笑っているに過ぎない。もっともそのリングで戦おうとする意思、つまり今の社会を鑑みた上で結婚して子供こさえようと思えるメンタルに私は舌を巻くばかりである。
実に不毛かつ非人道的な議論に過ぎないが、身の程を理解して“あえて”子を設けない人間と、身の程を弁えずに結婚と育児を経て毒親になった(なりつつある)人間とならばどちらがより罪深いのだろうか。
過去記事でも何度か述べたが、毒親育ちや複雑な家庭環境を持つ者が子供をつくるなとは決して言わない。(若干の優生学的思想は含めど、私は反出生主義者ではないことを予め断っておく) より個人的な見解を示せば、八割から九割方の解毒を終えてから結婚や出産を選択肢に上げて万が一解毒が完了しない場合は結婚、特に出産は諦めようと“今は”思っている。それほど現在の私には子供を産み育てる自信も余裕も経済力も到底足りないからである。
もっとも毒祖母との諸問題にケリがつかない、つまり毒祖母がこの世に存在する限り、私が結婚や出産に前向きになることはほぼないだろう。
“生存戦略的”な結婚
理想の結婚とは、「互いに愛し合った上でその後の人生を支え合う決意をしたカップルが入籍すること」だと私は思う。「病めることも健やかなるときも愛し合うことを誓いますか?」と神父が新郎新婦に問う理由はまさにそれである。ただ結婚とは、そのような美しい“愛の形”だけに留まらないことを私は理解しているつもりだ。例えば(毒)親から離別するため、経済的理由や利害関係から、そして単純に一人で生きていけない、といった様々な“生存戦略的”理由から婚姻関係を結ぶ者も確かに存在する。
単身生活に耐えうるほどの仕事やキャリア、技術、経済力、生活力、そして屈強な精神を兼ね備えている者ならば、独身を選択しても構わないだろうが、“それらを何一つ持たなかった”私の毒祖母や私の母はまさに“生存戦略的”に結婚したとも言える。無論当時の時代背景も考慮すべきだろうが、祖父母についても両親についてもほぼ愛が無かった夫婦だったと私自身は感じている。その愛の無さこそが我が家における諸問題を引き起こしたのかは定かではないが、少なくともその一端を担っていることは間違いない。
入籍とは所詮紙切れ一枚で済むことであるが、現代社会においてその責任は非常に重大である。子供が産まれれば責任の重さはさらに増す訳だが、“生存戦略的”に婚姻関係を結んだ者たちがその責任を果たせるのかは甚だ疑問である。子供じみた青い理想かもしれないが、結婚生活にしても育児にしても最後は愛着スタイル、ひいては愛情に帰着すると私は思うからだ。
ただ産み増やせばいいってもんじゃない
ここまで長々と書き連ねたが、結局社会的にも生物的にも結婚、出産、育児を経験した者が勝者である。その一方で子をもうけなかった既婚者や単身者は皆敗者になるが、「繁殖」を目的と据えればこの“暴論”はたちまち正解になる。
ただ現代社会においては、やたらめたらに子供を産み増やしても困るのが現実だと、私は常日頃から感じている。仮に子供を産んでも「その時代の社会および環境に適応して生活を営める一人前の大人」に育て上げないと、宇宙人としてほかの善良な市民を脅かす存在になってしまうからだ。やがてその宇宙人がまた同じような人間を生み出して……という負の連鎖が何世代も続いていく可能性が高い。私自身も毒祖母という名の宇宙人を身近に持つ存在ゆえに、その負の連鎖に加担しないという保証はどこにもない。先述したように“今”の私にはまだ子を産み育てる自信など皆無であり、ましてや私のような下等生物に子を設ける資格なども無いと思っている。
もっともいくら少子高齢化が叫ばれようともこれだけの数の人間が存在すれば、「自分くらい子供産まなくてもええんちゃうかな?」と感じてしまうのが正直なところだ。なおかつ漠然とではあるが、「こんな世の中に子供を産み落としてええんかな?」という懸念が大きいこともある。こんな捻くれた思考を持つ人間が生まれてしまうのもまた、毒親(毒家族)による負の連鎖の結果であろう。
向こうしばらくは結婚や育児といったリングに上がることはなく、私は野次馬の一人としてリング上で展開される試合を眺めていく所存だ。こんな野次馬魂たくましい人間が、リングに上ったところで野垂れ死ぬのが関の山であるからだ。血と汗を流しながら戦っている彼ら彼女らを、私は畏敬の念と嫉妬心、そしてわずかな軽蔑を交えながら見つめている。このリングでの戦いの先に、いったい何があるのだろうと。
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