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毒育ちと復讐心


注意事項

※復讐や殺人に関する内容および表現により、気分を害される可能性があります。あらかじめご了承ください。





私は復讐したくて仕方がなかった

 過去記事では散々綺麗ごとを書いてきたが、身も蓋もない話をすれば、「毒祖母を殺したい」と私は思っていた。それも一度や二度だけではない。結局殺人を犯す勇気のなかった私は、自分が自殺して毒祖母が命より大切な家を事故物件にしてやると目論んだ。しかしその計画も未遂に終わり、今ではこうして毒祖母への呪詛を綴っている次第だ。

 復讐の最高値とは、殺人もしくは自殺だと私は思う。相手の命を奪いたい、あるいは自分の命を絶ってでも報復したいという考えに至るのは、相当な怨恨であるからだ。次点が社会的制裁、経済的制裁、その末端は嫌がらせであり、それらすべてに共通する行動原理は、「相手に痛い目を見てほしい」という一心のみだ。
 ただし、復讐にはリスクがつきものだ。たとえ嫌がらせ程度に留めたとしても何かしらの罪に問われる可能性は大いにある。復讐とは非常にコストパフォーマンスが悪いと言える。怒り、憎しみ、時に強い殺意を抱いたとしても多くの人は、「何でこんな奴のために(自分の)人生を棒に振らなければならない?」と我に返る。そして自分や家族の生活、大切な存在、社会的役割等を優先することで復讐という選択肢は徐々に消滅していく。無論加害者から受けた痛み、負の感情が完全に消えることはないだろうが。


道徳と人権

 道徳とは、「児童生徒が生命を大切にする心や他人を思いやる心、善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身につけること」だと文部科学省は掲げている。要約すれば、「みんな仲良くしましょう」という大半の人間が頭の片隅で願っていることだ。安定した社会築くためにも児童たちにこのような理想像を伝えることは、確かに大切な教育の一つだと思う。
 一方で人権とは、「自分の人権のみならず、他人の人権についても正しく理解し、その権利の行使に伴う責任を自覚して人権を相互に尊重し合うこと、すなわち人権の共存の考えととらえること」だそうだ。道徳と比べてより現実的な思考であり、一種の処世術とも言える。高等学校以上になると人間関係は一層広範囲化および複雑化し、先の道徳という理想像がたちまち崩れることがある。その際に必要なのが、「お前のことは嫌いだが、お前の最低限の人権は尊重して命を取ったり立場を脅かすことはしない」という人権的思考ではないだろうか。

 話を復讐に戻すが、“何をされたとしても”あくまで相手の人権は最低限守るべきということだ。(例:容疑者の人権保護、私刑や報復の禁止) 復讐をすれば、自分もまた加害者に成り下がってしまうと共に、復讐が認可された社会など世紀末へとまっしぐらだ。


毒親への“ささやかな復讐”

 その理論に則れば、仮に毒親から非道な行為を受け続けても彼らの人権を侵害してはならないことになるが、無論“頭では理解している”つもりだ。しかし毒親問題とは、実に一筋縄ではいかないと私は辟易し続けている。
 白状すれば、私自身も毒祖母に対する“ささやかな復讐”は何度も行ったことがある。毒祖母の食器に殺○剤を吹きかけて放置する、毒祖母の洗濯物を玄関の三和土にこすりつけてから畳む、毒祖母の布団や寝室に殺〇剤をかけまくる、毒祖母の歯ブラシで某所を掃除をする、必要な会話以外はひたすら無視をする……といったところか。(余談だが、このような行為を実行して思ったのは、主婦/主夫などの家事を担う人間を敵に回すと非常に恐ろしいということだ)
 それでも毒祖母は何一つとして変わらなかったし、その行為に対して怒りをぶちまけてくることもあった。(特に無視という行為は、彼女の強い自己愛を刺激するようで何十回、何百回も衝突した) そんな行為を数年と繰り返した。何度やっても同じ結果なのに、私も自分をコントロールできなかった。何よりも“ささやかな復讐”を重ねる度に強い自己嫌悪感に襲われ、自分の存在を呪った。その限界に達した時、冒頭の「毒祖母を殺したい」という領域に辿り着いたのであった。今となってはその一線を越えなかったことに安堵しているが、それでも私が抱いた怒りや憎しみが消えることはない。

 毒親の人権は最低限守るに越したことはないが、侵害してもいい時があると私は主張する。暴論ではあるが、正当防衛と主張できる範囲での“ささやかな復讐”に留めれば一向に構わないのではないだろうか。もちろんその事実を他人にひけらかしたり、決定的な証拠を残したり、警察沙汰になるようなことは避けるべきだと添えておく。 
 特にパーソナリティ障害の傾向が強い人間には、正攻法である議論や説得などまったく利かないため、時として“拳”で反撃しなければならない。

 越えてはらない一線を越えてしまうよりは、“ささやかな復讐”で済めばいいのではないだろうか。毒親という存在は、それほど子供の人権や未来を踏み躙っているのだから。


結局は赦せなくても《手放す》

 詰まるところ復讐は何も生まないし、根本的な解決には至らないのが真理だ。万一私が毒祖母への復讐を遂げていたら、私は今このような生活を送れてはいなかった。もっとも母や姉に多大なる迷惑を掛けていたはずでそれを想像しただけで胸が張り裂けそうだ。もっとも今度は“復讐を犯した自分自身”が憎くなっていたに違いない。その憎しみこそ自分が死ぬまで消えることはなく、それ以上の拷問があるだろうか。
 怒りや憎しみといった負の感情を自分の中で認めることは確かに大切だが、それに飲まれて復讐に走っても何も意味はない。自分自身で少しずつ消化して、ゆくゆくは《手放す》他ないのだ。

 そして「自分自身が真の意味で幸せになること」こそが、毒親や加害者に対する“最大の復讐”だと私は考える。加害者から受けた負の感情にとらわれている、すなわち僅かながらでも復讐心を抱いている間は、それは叶わない。

 負の感情とそれから生まれた復讐心を《手放す》ことができた時に人は成長し、強くなるのだと思う。



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