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カミュ『ペスト』が新型コロナのせいで売れているらしい

カミュの『ペスト』が売れているらしい。ぼくの理解では、この本は不条理と対峙する「反抗的な人間」を描いた小説だ。主人公のアルベール・リウーの名前をとって『リウーを待ちながら』というマンガも作られた。これも未知のウィルスのアウトブレイクを描いたマンガだ。

不条理というのは、明晰な意識を保ったままの人間の前に現れる不合理な現象のこと。『ペスト』における不条理とは、ペストのアウトブレイクだ。閉鎖されたアルジェリアの街でペストと戦う人間たちの姿が描かれる。世界は不条理だから、個人の人生に大きな意味はない、「大きな物語」に自分を投げ込めと言ったサルトルとは違い、カミュに「大きな物語」への信仰はない。彼は、不条理に共産主義とか全体主義とかの人工的な「大きな物語」で抗うことを徹底的に由としなかった。彼の小説は、常にひとりの人間が、人間として不条理に抗う姿を描いている。ナチスとか共産主義とかの「大きな物語」が大きな惨禍を人間に与えていた、または与えている最中の1947年に書かれた小説だ。

戦後の日本はこの「大きな物語」を否定することから始まった。吉田茂の長男の吉田健一が1957年に新聞に書き、ピチカート・ファイヴも引用した「長崎」というコラムがある。

戦争に反対するもつとも有効な方法が、過去の戦争のひどさを強調し、二度とふたたび……と宣伝することであるとはどうしても思えない。戦災を受けた場所も、やはり人間がこれからも住む所であり、その場所も、そこに住む人たちも、見せ物ではない。古きずは消えなければならないのである。
 戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだわつてみたところで、だれも救われるものではない。長崎の町は、そう語つている感じがするのである。

戦争という「大きな物語」に反対するのは、個人が各自の生活を美しくし、それに執着することである、というのはカミュと同様に、「大きな物語」がどれだけ人を不幸にしてきたかという実体験から出てきた言葉だ。

最近では『天気の子』かな。

天気なんて、狂ったままでいいんだ!

これは、陽菜を彼岸から助け出すときに、帆高が叫んだ台詞。日本の大半が水没しても、個人の人生を犠牲にすることがあってはならないという、新海誠さんの叫びが、あの台詞につまっている。

僕は今回の新型コロナの騒ぎのような、不条理が現れたとき、いつも自分が「大きな物語」に取り込まれてないか、深海魚のようにじっとしながら観察している。『Joker』という映画は、自分を不幸にした不条理に対抗するために、「大きな物語」に取り込まれていく男の物語として観た。悲しいけど、取り込まれるともう戻ってこれないんだよね、人間って。

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