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【期間限定試し読み】貴志祐介『秋雨物語』収録短編「こっくりさん」全文特別公開!

貴志祐介さんによる至高のホラー短編集『秋雨物語』が待望の文庫化!
刊行を記念して、本作に収録された4つの短編の中から「こっくりさん」を期間限定(※)で全文公開いたします。
抜け出すことのできない絶望を、どうぞお楽しみください。

※公開期間:2024年10月25日(金)~2024年11月15日(金)17時59分まで

『秋雨物語』あらすじ

失踪した作家・青山黎明が遺した原稿には、彼が長年悩まされていた謎の転移現象の体験が記されていた。霊能者を招くなど転移が起きないよう試みていた青山だが、更なる悪夢に引きずり込まれていく――(「フーグ」)。前世の報いを背負った青年の生き地獄、この世のものとは思えない絶唱を残したレコード、人生の窮地に立たされた4人が挑む命がけのこっくりさん。秋雨の降るなかで、深い絶望へ誘われる至高のホラー4編を収録。


『秋雨物語』試し読み


こっくりさん


2003年11月28日 金曜日

 階段は、児童が勝手に上がれないように古い机や椅子でふさがれ、その上に空の段ボール箱が積まれていたが、こんどうたくは、狭い隙間を擦り抜けて、小学校の屋上へのドアに手を掛けた。
 思った通りだ。施錠されている。
 職員室のキーボックスからくすねてきたかぎを差し込むと、音がしないようにそっとひねって、鉄製のドアを開けた。
 そのとたん、視界に光があふれた。息もできないくらい強い風が押し寄せてくる。
 屋上に出てドアを閉じると、行き場を失った風はおさまった。
 拓矢は、がらんとした空間を見渡す。ゆうにバスケットボールのコートくらいありそうだ。両側を高いフェンスに囲まれているので、乗り越えるのには苦労しそうだが、やってやれないことはないだろう。
 拓矢は、ゆっくりとフェンスに近づいた。誰かに下から目撃されると、まずいことになる。身を低くして、そっとフェンスに顔を近づける。
 校庭には、低学年の児童がちらほらいたが、大半はもう下校してしまっているようだった。
 こちらに視線を向けている子はいない。……今が、チャンスなのかもしれない。
 拓矢は、フェンスを見上げた。真ん中で継ぎ足された部分はオーバーハングになっていて、よじ登るのは難しそうだが、何とか乗り越えて、飛び降りさえしたら、すべてが終わる。
 ここ数日間の苦しみ――際限のない後悔と恐怖の時間も、たった十二年の人生も。
 目を閉じると、いやおうなく、あの光景が浮かんできた。

 激しく炎を噴き出すテント。激しく揺れ、断末魔のように身をよじっている。
 獣のような恐ろしい叫び声。それを、なすすべもなく、ただぼうぜんと見守るしかない。
 だが、一番怖かったのは、もうもうと異臭のする煙を上げるテントが、動かなくなった後の静寂だった。

 拓矢は、身震いした。もう嫌だ。こんなの、耐えられない。無理……絶対、無理だ。
 立ち上がって、両手で金網をぎゅっと握りしめる。とはいえ、結局は何もできないだろうとわかっていたが。
 そのとき、背後で、鉄のドアが開く音がした。ぎょっとして振り返ると、にいじまはるが屋上に出てくるところだった。
 うっかりしていた。鍵を掛けるのを忘れていたのだ。遼人だからよかったが、先生ならば、困った事態になっていた。どうやって鍵を開けたのかとかれたら、答えようがない。
「今、飛び降りたいなって、思ってただろう?」
 遼人が、大儀そうに歩み寄りながら、軽い口調で訊く。
「何言ってんだよ。そんなわけないじゃん」
 拓矢はとぼけたが、遼人の目をごまかせないことはわかっていた。
「こんな日に死ねたら、最高だよな」
 遼人は、屋上から秋の日差しに照らされた街を見渡して、ぽつりと言う。
「おまえは、別に、あわてて死ななくてもいいだろう?」
 拓矢がそうたずねると、遼人は、鋭い目を向けて反問する。
「この先、俺が、どうなるか知ってるのか?」
「……いや」
「今はまだ、いいんだよ。ときどき頭痛がして、頭がボーッとするくらいだからな。だけど、そのうち、手足がしてきて、視界が狭くなって、言葉も話しにくくなる。もっと脳しゆようが大きくなると、もっともっと悲惨なことになる。詳しく教えてやろうか?」
「いや。ごめん」
 拓矢が謝ると、遼人は、顔をしかめた。
「こっちこそ、ごめん。当たるつもりはなかった」
 遼人は、立っているのもおつくうらしく、屋上の床に腰を下ろした。
「一人じゃ、なかなか、勇気が出ないよな」
「うん」
 そのことは、身にみていた。こんな状況になっても、自分はまだ心のどこかで生きたいと思っているらしい。
「こうなったらさ、四人で、いっせーのせで死のうか?」
 遼人は、不穏なことを言い出す。
「四人って? かえではわかるけど、あと一人は?」
しんいちだよ」
 遼人は、口元に小学生らしからぬ皮肉な笑みを浮かべる。
「お父さんが死んで、人生が真っ暗になったらしい。給食費も払えないから、大学進学なんか絶対無理だって。将来はどうせ、使い捨ての派遣社員になるかブラック企業で過労死するだけだし、何の希望もないから、今のうちに死にたいって言ってる」
 何なんだよ、それは。負け犬根性にもほどがあると拓矢は思った。ほかの三人と比べたら、まるっきり説得力がない。
「まあ、俺からしたら、ふざけんなって感じだがな。でも、本人が本気で絶望して死にたいと思ってるなら、他人が批判することじゃない」
 遼人の話を聞いていると、とうてい同い年とは思えなくなってくる。そういえば、遼人は、IQテストのスコアが200を超えていたという噂があった。IQとは、精神年齢を実年齢で割った百分比のことらしいから、精神年齢は二十二歳くらいなのだろうか。
「四人で死ぬって、どうやるんだ?」
 そんなの、うまくいくはずがないという気はしたが、一応訊いてみる。
「手をつないで飛び降りるのは、全員のタイミングが合わなければ、うまくいかないもんな。引っ張られて落ちるんじゃ、怖すぎだし」
 遼人は、すべてを考え抜いているようだった。
「一列に並んで首をるのも、ビビって自分だけ生き残ったら最悪だしな。うまくいっても、見つけた人のトラウマは半端ないから、テロみたいなもんだよ。もっと最悪なのは硫化水素で、関係ない人まで巻き添えで殺しかねないしな」
「だったら、どうしろっていうんだ?」
「まあ、現実的に考えた場合は、やっぱり練炭だろうな。めちゃくちゃ頭痛がするらしいのが難点だけど」
 それだけは、勘弁してほしい。昔から車酔いがひどくてバスに乗る遠足は大嫌いだったが、人生の最後に、どうして、気持ち悪さの集大成を味わわなきゃならないんだ。
「それ、何?」
拓矢は、遼人が持っている、宿題のプリントみたいな紙の束を指さした。
「これな」
 遼人は、うなずいた。
「たまたまだけど、ネットで、めちゃくちゃ面白そうな都市伝説を見つけたんだよ。それで、ちょっと調べてみた」
「都市伝説? 何それ?」
 拓矢は、あきれて訊ねたが、返答に、さらにぜんとさせられる。
「『こっくりさん』」
 遼人は、大真面目に言う。
「はあ?」
 まさか、遼人の口から出てくるとは、夢にも思わなかった言葉だった。
「マジで言ってんの? おまえ、そういうの、一番嫌いだったじゃん?」
「うん。馬鹿な女子が十円玉で集団ヒステリーごっこをする、サイコなお遊戯だと思ってた。でも、こいつは、ちょっと違うんだ」
 遼人は、プリントアウトの束を拓矢に差し出した。読めということらしかったが、目を通す気になれず、押し戻す。
「いいよ」
「まあ、そう言わずに、見てよ。がんばって調べたんだからさ」
 遼人が、身体のつらさを我慢しながら、パソコンに向かっている様子が目に浮かんできた。拓矢は、しかたなく、プリントアウトを受け取って、パラパラとめくりながら眺める。
 それから、もう一度最初に戻り、今度は、もう少しちゃんと読んだ。
 それは、『干し草の山で針を探す』というタイトルのホームページからの抜粋らしかった。都市伝説の99パーセントは、ただのホラ話だが、UFOの目撃情報と同じく、1パーセントの真実が紛れ込んでいると主張しているようだ。それから統計の解釈についての話があったが、そのあたりは退屈なので読み飛ばす。
 問題は、『こっくりさん』の部分だ。通常の『こっくりさん』とはまったく異なっている、いわば闇バージョンが存在するのだという。
 そもそも、『こっくりさん』は、口伝えや見よう見まね、アドリブで行われてきたために、バリエーションが多い。学校で『こっくりさん』禁止令が出るなり、『エンジェルさん』や、『キューピッドさん』などの名前で呼ばれるようになり、さらに、十円玉は止めて手近にある鉛筆を使うように変化した。
 もちろん、その大半では、何一つ起こらない。だが、ごくまれに近くをはいかいしていた低級霊や動物霊を呼び寄せてしまうことがあって、そうした成功例・・・(どこの馬の骨だかわからない霊が出ただけだが)のために、『こっくりさん』は廃れないらしい。
 そして、さらに稀なことらしいが、とてつもない悪霊を召喚してしまうケースがあるという。その場合、『こっくりさん』は、誰かをにえにしないかぎりは帰ってくれないそうなので、地獄絵図になるのだとか。
 もしも、現実にそんなホラー映画みたいなことがあったなら、とんでもない大事件だから、世間の注目を集めていたはずだと思うが、意外と、そうはならないのだという。実際に事件を処理する警察は、オカルト的な解釈はいっさい排除した上、精神的錯乱や薬物の影響といった適当な理由を付け、無理くり・・・・現実的なストーリーに落とし込んでしまうからだとか。
 本当かよと、拓矢は、読みながら思っていた。だとしても、『こっくりさん』をやってて、おかしくなった参加者の間で殺人事件が起きたなんて話、一度も聞いたことないぞ。
 そうした中、あり得ないような偶然がいくつも重なり、闇バージョンが誕生したらしい。
 この後は、「あり得ないような偶然」というのは、統計的にはふつうに起こりうるのだというわけのわからない話が続くが、ここもスキップする。
 闇バージョンは、別名ロシアン・ルーレット・バージョンといって、四人一組で行われる。第一に、全員が命を懸けなければならないくらいの窮地にあることがひつ条件で、そのうちの三人は人生を逆転できる貴重なアドバイスを得られるが、その代償として、残りの一人は命を落とすと信じられているとか。
 拓矢は、顔を上げた。
「何これ? B級ホラー?」
「いいから、最後まで読んでみろって。……実例のとこまで」
 遼人は、ぐったりとフェンスにもたれ、目を閉じたまま言う。
 しかたなく、拓矢はプリントアウトに戻った。
 闇バージョンで降臨するのは、一般的な『こっくりさん』でよく出現するような低級霊とは根本的に霊格が違う存在で、儀式を行う際には、厳格に定められた条件を満たす必要があるということだった。その詳細は、ここには記すことができないが……。
 これだよ、と拓矢は思う。結局、やり方がわからないんじゃ、試してみることもできない。噓八百書き放題じゃん。突っ込もうかと遼人の方を見やったが、相変わらず目を閉じている。実例のとこまで読めって言ってたなと思い、もう少し我慢して読み進めることにした。
 筆者は、闇バージョンが実際に行われたというケースを徹底的にリサーチしたらしかったが、ほとんどがガセネタでとんしかけたという。だが、2000年の11月に行われたケースでは、実際に召喚が成功して、その後、四人のうち一人が本当に亡くなったという確証を得ることができた。
 マジか。拓矢は、ゴクリとつばを飲み込んだ。今から三年前の話だ。
 このときの参加者は、以下の四人だった。本名は確認済みだが、プライバシーを守るため、イニシャルにしてあるという。
 Aさんは、二十代前半の男性。バイク便のアルバイトをしていて、たまたま訪れた会社で、金庫の暗証番号を書いた紙をデスクマットの下に貼り付けてあるのに気付いて、深夜侵入して金を盗み出そうとしたが、警備員に見つかり、み合いの末、殴り殺してしまったという。
 うわっ。何だよ、こいつ。最悪じゃん。拓矢はまゆをひそめたものの、翻って考えてみると、自分の立場はAさんと似たり寄ったりか、もっと悪いかもしれない。
 Bさんは、二十代後半の女性だ。信じていた恋人から裏切られ、ゴミみたいに捨てられて、生きる望みを失ったらしかった。小学生の拓矢には、その気持ちは漠然としかわからなかった。だけど、世間では多くの人が失恋で自殺しているところを見ると、きっと、どうしようもないくらいつらいのだろう。
 Cさんは、七十代の男性。身寄りもなく、経済的に困窮して、ひたすら死を願っていたが、自殺する勇気も湧かなかったという。これも、年代が離れすぎていて想像が追いつかなかった。そうなるまでには、何十年という時間があったわけだから、何とかできたのではとも思うが、現実の人生は、そんなに簡単なものじゃないのかも。
 Dさんは、三十代の男性である。しだいに身体が動かなくなる難病、筋萎縮性側索硬化症ALSの患者だったという。
 何となく遼人と境遇が似ているなと、拓矢は思った。どう考えても本人の責任じゃないし、誰にもどうすることもできなかったんだろう。この人にだけは、深く同情したくなる。
 そして、このうち三人は、『こっくりさん』のおかげで新しい人生を手に入れた。
 Aさんに与えられたのは八けたの数字だった。電話番号っぽいと思ったので、ためしに電話してみると、病院につながった。行ってみると、死んだとばかり思っていた警備員は生きており、しかも快方へと向かっていた。さらに、事件の晩の記憶をすっかり失っていたため、Aさんが犯人であることも覚えていなかった。
 Aさんは、盗んだ金を全額ナースステーションに託し、病院を後にしたという。
 はあ? 警備員を殺したと思ったのに、その後、しっかり泥棒してたのか?
 拓矢は啞然としていた。それは、返さなきゃいけない金じゃないか。盗んだ金で殺人未遂をチャラにするって、ふざけんなよと思う。少しでも償うつもりがあるなら、せめて自分の金でやれって。
『こっくりさん』も、頭おかしいと思う。どうして、こんなやつを助けるんだ?
 Bさんに対するお告げも、八桁の電話番号のようだった。かけてみると、子ども食堂などを運営するボランティア団体だった。話の行きがかりで、Bさんはボランティアとして参加することになり、そして、そこで新しい恋に出会ったとか。
 恋が生まれてハッピーエンドって、おとぎ話の結末じゃん。それはまだ、幸せになるためのスタートラインにすぎないんじゃないの? 拓矢は首を捻った。だけど、まあ、絶望のふちから生還できたんだから、とりあえずはラッキーだったとは言えるかも。
 Cさんに示されたのは、まったく意味がわからない十二桁の数字だった。
 お告げが全部数字って、クールすぎるな。闇バージョンの『こっくりさん』は、もしかしてAIか何かなのだろうか。
 Cさんは、キツネにつままれたような思いで『こっくりさん』をした廃病院を後にしたが、たまたま、この年から始まったロト6の宝くじ売り場の前を通りかかった。ふと思いついて、十二桁の数字を六つの二桁の数字に分けて購入したところ、すべて的中し、豊かな老後を送れるだけの大金を手に入れたという。
 噓くせえと、拓矢は鼻でわらった。そんなうまい話があってたまるか。
 ところが、Dさんの部分が目に入ったときに、はっとした。
 Dさんに与えられたのは、352962813956460という十五桁の数字だった。
 ここにだけ、奇妙なリアリティがある。ていうか、それもあたりまえだ。具体的な数字まで書かれてるんだし。
 この数字が何を意味しているのかは、しばらくわからなかったが、ヨットが趣味だという、Dさんの友人に見せると、緯度と経度ではないかと言う。この頃には、まだグーグルマップがなかったため、図書館まで行って調べてもらう。すると、十五桁の数字が示している場所は、市にあるやま公園とわかる。Dさんには、大切な思い出のある公園らしい。
 Dさんは、ボランティアの人の助けを借りて、秋の披露山公園を訪れた。数字がぴったりと示していたのは展望台のある位置で、残念ながら車椅子では上れなかったが、そこからでも、充分素晴らしい眺望を楽しむことができた。
 Dさんは、しばらくの間一人にしてほしいと頼み、秋の夕暮れの景色を眺めていたという。そして、通行人に発見されたときには、ひっそりと息を引き取っていたらしい。まったく苦しまなかったらしく、遺体の口元には、うっすらと笑みが浮かんでいたとか。
 Dさんは、ボランティアに公園まで連れてきてもらっていたので、嘱託殺人の疑いにより、司法解剖に附されたものの、外傷も薬物反応もなく、事件性はないという結論だった。
「どう思う?」
 読み終えた頃を見計らって、遼人が声をかけてきた。
「どうって……」
 拓矢は、口ごもった。遼人の期待に満ちた表情を見ると、夢を壊すようなことは言いたくなかった。
「話としては面白いけど、これを信じろって言われても、ちょっとなあ」
 遼人は、うなずいた。
「俺も、そう思った。それで、たしかめてみたんだ」
「どうやって?」
「他の三人は確認しようがないけど、Dさんは、2000年の秋に披露山公園で亡くなってるわけだろう? だから、三年前のニュースを調べてみた」
「で?」
 拓矢は、思わず、身を乗り出していた。
「見つかったよ。そこに、コピーがあるだろう?」
 拓矢は、プリントアウトをめくった。たしかに、まだ数枚残っている。
 まず目に入ったのは、ネットではなく新聞記事のコピーのようだ。披露山公園で、車椅子に乗った三十代の男性の遺体が発見されたという。さらに、次の記事を見て、名前がわかった。坂さか本もと卓すぐる。三十六歳。ALSの患者であることも書かれていた。
 次は、ホームページのプリントアウトで、最後の更新は2000年11月28日だ。しくも、三年前の今日ということになる。そして、作成者の名前も、坂本卓だった。
「Dさんは、坂本卓という実在の人間だった。そして、『こっくりさん』の闇バージョンで、死のカードを引いたんだ」
 思わずゾッとする。遼人は、この荒唐けいな話を、すっかり確信しているようだった。
「でもさあ、たまたま誰かがこの記事を見て、利用しただけかも」
 水をさす気はなかったが、そんな疑問が湧いてくる。
「そう疑いたくなるのはわかるけどさ、そのホームページを見ると、少なくとも坂本さんが『こっくりさん』に参加したことまではわかるんだよ」
 拓矢は、あわててホームページのプリントアウトに目を落とした。
 たしかに、それっぽいことが書かれている。ふつうの『こっくりさん』とは違って、厳格な条件と手順があるとか、四人一組だが、三人まで人生を逆転できるお告げを得られるとか。残りの一人がどうなるかは濁してあったが、何だかヤバい雰囲気が漂っていた。
「坂本さんは、偶然、ネットで『こっくりさん』の闇バージョンのことを知ったんだろうな。問題は、どうやって、やり方まで知ったのかということだけど」
 頭痛に襲われているらしく、遼人は顔をしかめながら言う。
「そこにさ、うしくぼっていう人のことが書かれてるだろう?」
『牛窪ひろ先生』というキャプション付きの肖像写真と、坂本さんらしい車椅子の男性との2ショット写真がある。
「それさ、けっこう有名なオカルト研究家らしいよ。『干し草の山……』にも、何度か名前が出て来る」
「へえー」
 そういえば、どこかで見たことがあるような気がする。バサバサの長髪は頭頂がハゲてて、げっそりと頰がこけており、落ち窪んだ目は死んだ魚みたく生気がない。いかにも昭和っぽいメタルフレームの眼鏡をかけてなければ、戦国時代の落ち武者みたいだ。
「それで、牛窪にメールしてみたら、何だかあわてた感じで、すぐに返事が来た」
 遼人は突然、呼び捨てにする。
「最初はわけわかんないこと言ってごまかそうとしてたけど、何度も問い詰めたら、最後は、闇バージョンのやり方を坂本さんに教えたって認めたよ」
 拓矢は、二人の間で交わされた数通のメールの文章を走り読みした。
 牛窪の文章は言い訳ばかりで煮え切らなかったが、遼人の追及に、最後は白旗を揚げている。どうやら、自分の行動が原因で死者が出たことを世間に知られたくないようだ。
 牛窪は、『こっくりさん』に闇バージョンがあるという噂を聞いて、興味をかれ、独自に調べていたらしい。そして、最初に発生したと思われる場所を特定したのだという。
「最初の場所ってどこ?」
 拓矢は、遼人の方を見る。メールには、そこまでは書かれていなかった。
「病院……坂本さんたちが儀式をした『廃病院』だよ」
 遼人が、少しかすれた声で言う。
明日あしたさ、そこで、『こっくりさん』のロシアン・ルーレット・バージョンを再現することになってる。おまえも参加するだろう?」


2003年11月29日 土曜日

 昨日の快晴とは打って変わって、早朝から冷たい秋雨が降り続いており、雨粒がパラパラと傘に当たる音が止まない。ペラペラのウィンドブレーカー一枚を羽織って来たことを後悔するくらい肌寒かった。
 拓矢は、風雨にさらされて文字が消えかけた『バクティ調ちよう』という看板を見上げた。
「病院にしては、変な名前だな」
 拓矢は、独り言のようにつぶやいた。スタジャンのポケットに左手を突っ込んでたたずんでいる遼人が、ビニール傘の下から振り返る。
「バクティって、ヒンズー教で『信愛』を意味する言葉らしいな。この病院は、ヒンズー教と何の関係もないと思うけど、ホスピス感を出したかったんだろう」
「ホスピスって何?」
 今度は、がわ楓が訊く。暖かそうなカウチンセーターを着込んでいるが、パステルピンクの傘の柄を握った手に、寒そうに息を吹きかけている。
「俺みたいな、もうどうやっても助からない患者が、死ぬまでの暇をつぶす場所だよ」
 遼人の答えに、楓は表情を曇らせた。
「でも、こんなに立派な病院が、どうして潰れたんだろう?」
 グレイのパーカーのフードを目深にかぶったとう進一が、小さな折りたたみ傘を掲げながら、ぼそりと言った。たしかに、建物の造りはなかなか立派である。
「どうしてだったんですか?」
 遼人は、進一の疑問を中継して、牛窪さんに投げかける。
「……まあ、もともと、あんまり評判がよくない病院だったんだ」
 牛窪さんは、黒いこうもり傘を傾けて遼人を見やると、不気味なふうぼうに似合わぬ深みのある声で答えた。
「経営者は、もうけることだけしか頭になくて、患者のことはどうでもよかったらしい。薬物を横流ししてるっていう噂まであったしね」
「集団自殺があったっていう記事も見たんですが」
 遼人は、ネットで下調べをしてきたらしい。
「うん。それで警察の強制捜査が入ったんだ」
 牛窪さんは、フェンスの扉を施錠しているナンキン錠をつまんで見ると、傘をすぼめてフェンスに立てかけた。楓が気を利かせて自分の傘を差しかける。
「ありがとう」
 牛窪さんは、ショルダーバッグからケース入りのスパナのセットを取り出す。二個の小さなスパナを選んで南京錠のツルにめ込んで、ハの字になったスパナの柄をグイッと閉じると、南京錠のツルは異音を発してはじけ飛んだ。
 どう見ても、これは犯罪行為だった。いよいよ後戻りできないところへ踏み込むんだという緊張感を、ひしひしと感じずにはいられない。それにしても、こんなに簡単に壊されるんじゃ、南京錠なんて意味ないような気がする。
「行こうか」
 牛窪さんは、ジャラジャラと鎖を外すと、フェンスの扉を開いて私有地に侵入する。
 すぐ後から、ためらわずに遼人も入っていった。
 拓矢と楓、進一は、一瞬顔を見合わせたが、しかたなく後に続く。
 建物の影に入ったとたん、拓矢は、全身に鳥肌が立つような悪寒に襲われた。楓と進一も、異常を感じたらしく、おびえたような顔になっている。
 だが、牛窪さんは、何も感じていないように進んでいく。遼人も無表情で後に従った。
 建物の外壁はピンクっぽいレンガ調だったが、ところどころで偽のレンガがはくしていて、無機質なコンクリートの下地がのぞいている。あちこちに、赤や黒のスプレーで『人殺し』、『怨』などの下手くそな文字や、Hな絵の落書きがあった。
「ここ、閉院してから、五年くらいしかたってないんですよね?」
 遼人が、眉根を寄せながら牛窪さんに訊ねる。まだそんなものなのかと、拓矢は驚いた。
「建物は、人に見捨てられた瞬間から急速に劣化が始まり、まるで坂道を転がり落ちるようにはいきよ化していくものなんだよ」
 牛窪さんは、振り返らずに答える。
「しかも、ここは心霊スポットとして有名になったから、肝試しにやって来ては、落書きして帰る若者が後を絶たなくてね。それで、厳重に施錠されるようになったんだ」
 病院の正面玄関が見えてきた。自動ドアには木目調のパネルが貼られていて中が見えない。前に立っても反応しないが、鍵穴も見当たらなかった。牛窪さんは、正面玄関には目もくれず、ずんずん歩いて行く。さらに建物を半周して裏手にまわると、駐車場があった。地下へと通じているらしい階段が見える。ゴミ出し用の勝手口かなと、漠然と思った。
 すると、遼人が牛窪さんに小声で訊ねるのが聞こえた。
「ここの入り口って、やっぱり、あれですよね」
 牛窪さんは黙ってうなずく。
「あれって、何のこと?」
 楓の耳にも入ったらしく、怖がっている顔で訊ねる。
「何でもないよ。ただのバックヤード」
 遼人は、意味ありげな含み笑いをする。
 スロープ階段を下りていくと、ベンガラ色の鉄の扉があり、横には番号錠らしいテンキーが見えた。電気を必要としないタイプらしく、牛窪さんは、無造作にテンキーをプッシュする。無事に解錠されたらしく、デッドボルトが引っ込む音がした。
 牛窪さんがびたハンドルを引くと、鉄の扉は、女の人の悲鳴のような音を立てて開いた。進一が身震いして、救いを求めるように拓矢を見る。入りたくないと顔に書いてあった。
 拓矢には、進一をおくびよう者と笑うことはできなかった。気持ちはまったく同じだったからだ。ここから先へ進んではいけない。今なら、まだ引き返せる。この先で待っているのは、何だかわからないが、人が触れてはならないものに違いない。
 ……だからといって、ここから回れ右をしても、元の地獄へ逆戻りするしかないのだ。
 拓矢は、牛窪さん、遼人に続いて、鉄の扉の向こうへ足を踏み入れる。
 牛窪さんが、懐中電灯をけた。見るからに殺風景なスペースが浮かび上がる。天井も床も壁も柱も、灰色のコンクリートが、黒ずんだ染みにより蚕食されているのだ。空気は冷たくて湿っぽい。鼻孔には、ほこりかびだけでなく、正体のわからない嫌な臭いも感じられた。
 大地を打つ雨音が、いっそう激しく地下まで聞こえてきた。
 遼人の言うとおりで、ここは荷物の搬入や搬出をするバックヤードだったのかもしれない。だが、病院――それもホスピスだったことを考えると、それだけじゃなかったのかも。
 拓矢が気づいたことを察したらしく、遼人が、こちらを見ながらにやっと笑った。持参した懐中電灯を奥の方に向ける。つられてそちらに目をやり、拓矢はぞっとした。
 柱の陰に白い鉄の扉が見えるのだ。表面には小さなプレートをがしたような跡があった。その周囲には、ドライバーか何かでこすったような傷がたくさん付いている。
 もしかしたら、ここへ侵入したバチ当たりなヤツが戦利品として持ち去ったのだろうか。『霊安室』と書かれたプレートを。もしそうだったなら、そんなくずみたいなヤツは呪われればいいと思う。
 楓と進一は、何も気がついていないようだ。よけいなことは言わない方がいいだろう。
 牛窪さんは、『非常階段』と書かれた重そうな防火扉を開けた。続いて、遼人、拓矢、楓、進一の順で真っ暗な階段室に入っていく。怖くないと言えば噓になるが、この場所にとどまるのは、もっと恐ろしかった。
「四階だ」
 牛窪さんの声音には、かすかな緊張が感じられる。
「エレベーターって、使えないんすか?」
 遼人が、うんざりした顔で言った。病身では、四階まで階段を上るのは辛いのだろう。
「もしかしたら、どこかにあるブレーカーを上げれば、動くかもしれないな。しかし、万一、閉じ込められでもしたら困るだろう?」
 我慢して上れということらしい。しかたがない。拓矢は遼人に肩を貸す。
「……悪い」
 遼人に気を遣わせたことで、かえって心が痛かった。
「何だよ。このくらい気にすんなよ」
 それでも、上るにつれて遼人の息づかいは激しくなった。残された命の火を燃やし尽くしているような気がして、拓矢は気が気ではなかった。
「なあ、この病院、ちょっと変じゃねえか?」
 遼人が、拓矢の耳元でささやく。
「変って?」
 たしかに違和感はあるが、具体的にどう変なのかわからない。
「ホスピスってさ、ふつう、もっと開放的なんだよ。ここは……まるで刑務所みたいだ」
「そう言われれば、そうかもな」
 牛窪さんが、四階と書かれた防火扉を開けると、右側に病室が並んでいる廊下が目に入った。雨天でも、カーテンのない窓から光が差しており、照明なしでも突き当たりまで見通すことができる。
 だが、遼人に肩を貸している拓矢は、一歩を踏み出すことができなかった。
 いったいなぜなんだろう。自分でもよくわからなかったが、本能的なで金縛りに遭ったように動くことができないのだ。
 牛窪さんは、何のためらいもなく、スタスタと歩いて行く。
「拓矢。頼むよ」
 遼人が、低い声で言う。
「行こう」
「うん」
 拓矢は大きく息をついた。遼人に言われなくても、行くしかない。ここにいる四人とも、『こっくりさん』の助けを得ることができなければ、明日はないのだから。
 震える脚で、四階の廊下に歩を刻んだ。妙にふわふわして、まるで自分の脚ではないような感じだった。
 牛窪さんは、また重そうな引き戸を開け、『402号室』に入る。遼人と拓矢、楓、進一も誘い込まれるように続いた。これが何かのわなだったとしても、今さらしかたがない。
 そこは、よくある病院の大部屋だった。部屋の四隅には、四つのベッドがしつらえられている。シーツ類も、そのままになっていた。
 牛窪さんは、左側の手前のベッドの前で、半ばめいもくしてたたずんでいた。
「ここなんですか?」
 遼人が訊ねると、こっくりとうなずく。
「ああ。ここが、『こっくりさん』の闇バージョンが、最初に誕生した場所だ」
 何の変哲もないホスピスの病室のベッドの上。ここで、奇跡が起こったというのか。
「君たち、このベッドの周りに集まってくれ」
 牛窪さんの指示通りに、四人は、ベッドの両側に二人ずつ並んだ。戸口側には拓矢と遼人、反対側には楓と進一が。
「最後に、一応確認させてくれ」
 牛窪さんが、誰とも目を合わすことなく言う。
「『こっくりさん』の闇バージョンは、おふざけでやっていいレベルの儀式ではない」
 四人の小学生は、しんとして続きを待った。
「これまでに、私は数多くの降霊会に立ち会った。大半はしやですませられる程度のもので、参加者たちは笑って帰途につくことができた。しかし、これは根本的に違う」
 雨粒が窓ガラスを打つ音が響いている。
「過去に、この闇バージョンは、三度行われている。うち一回は失敗で、何も起きなかった。だが、残りの二回では必ず人が死んでいる」
 ロシアン・ルーレット。死のカードを引いた……。遼人から聞いていたものの、あらためて大人の口から聞くと、ひざが震えるような緊張が湧き上がる。
「本来は、君たちのような子供に、これほどまでに危険な儀式をさせるべきではないだろう。しかし、新島遼人くんから、君たちには、それぞれ、命をかけてでも闇バージョンをやりたい理由があると聞いている。だから、ここで、その事情について自分の口で話してほしいんだ。納得がいけば、予定通り、『こっくりさん』の闇バージョンを執り行う」
「納得がいかなかったら?」と遼人。
「中止する」
 牛窪さんは、きっぱりと言う。
「ちょっと待ってください。ここまで来てですか?」
 拓矢が抗議したが、牛窪さんは厳しい顔で腕組みをする。
「ここまで来てだ。君たちの命の重さを考えたら、当然だろう」
 遼人が、それ以上文句を言うなというように、拓矢のひじに手をかけた。
「みんな、とにかく事情を話そう。そうしたら、たぶん納得してくれるよ」
 楓と進一は、顔を見合わせたが、うなずく。
「俺から話します」
 遼人がまず、口火を切る。
「俺は、脳腫瘍で、余命半年と宣告されています。以上」
 病気のことは知っていたが、余命半年とは初耳だった。楓と進一も、衝撃を受けたらしく、顔色を失っていた。
 待てよ、と拓矢は思った。『こっくりさん』がどんなアドバイスをくれるかわからないが、脳腫瘍が何とかなるものだろうか?
「次、頼む」
 遼人は、拓矢のしゆんじゆんを読み取ったのか、指名する。
「ええと……俺は」
 拓矢は、絶句しかけたが、何とか言葉を絞り出す。
「先週の日曜日、取り返しのつかないことをしてしまいました。ホームレスの人のテントに、ネズミ花火を投げ込んだんです」
「どうして、そんなことしたの?」
 楓が眉をひそめた。
「中学生の先輩にそそのかされたんだよ。肝試しとか言われて。こいつ、バカだからな」
 遼人がしんらつな口調で言った。事実なので、一言も言い返せなかった。
「でも、それだけだったら、謝ればいいんじゃない?」
「あ。それって、もしかしたら」
 進一が、思い当たったらしい。
「あの、ホームレスの人が焼け死んだ事件のこと?」
 その場の空気が一気に凍り付いた。拓矢は、目を閉じて説明する。
「そのとき、ホームレスの人は、テントの中でシンナーを吸ってたんだ」
「だったらさ、どうして警察に自首しないわけ?」
 進一は、拓矢を詰問する。
「もう、その話はいいだろ。次は、小川楓さん」
 遼人が、強引に進一を黙らせた。
「わたし……わたしは」
 楓は、泣きそうな声になった。
「いいよ。俺が説明する」
 遼人が、また話を引き取る。
「楓のお父さんが亡くなり、お母さんは再婚しました。ところが、新しく親父になったヤツがクソで、楓を虐待してるんだ」
 ……虐待って、たぶん、そういうことなんだろうな。
「そんなの、警察に言えばいいじゃん!」
 進一が、憤然として口を挟んだ。バカか、おまえは。牛窪さんに納得してもらわないと、『こっくりさん』ができないんだぞ。
「あいつは、誰もわたしの言うことなんか信じないって言ってた。あいつはお医者さんだし、チクったら、わたしを一生精神病院に閉じ込めるって」
 拓矢の中でも激しい怒りが湧いてきた。
「そんなこと、あるわけないよ。ちゃんとした大人に相談してみたら?」
 遼人が、バカかおまえはという目で、拓矢を見た。
「もう、いいの」
 楓は、悲しげに言う。
「お母さんは、薄々気がついてるはずなのに……。わたしより、あいつのほうが大切なのよ。あいつは、金持ちだから」
「でも、だったらさ……」
 楓は、いったい、どんなアドバイスを期待しているのだろう。
「だいじょうぶ。これが、ロシアン・ルーレットだっていうことなら、よくわかってるから。わたしが死んでも、あとの三人が幸せになるんだったら、それでもいいって思ってる」
 ますます空気が重たくなった。
「じゃあ、最後は、後藤進一」
 遼人が指名する。一番納得してもらうのが難しいのは進一だろうなと、拓矢は思う。
「うちも、お父さんが死んで、家の中が真っ暗になっちゃって……」
 進一は、暗い調子でとつとつと話し始めたが、話が要領を得ないため、グダグダ愚痴を言ってるようにしか聞こえない。
 ああ、これで牛窪さんに却下されてしまうだろうなと、拓矢は覚悟した。
 牛窪さんは、腕組みをしたまま目を閉じ、進一が話し終えるのを待っていた。
「どうですか?」
 遼人が訊ねると、ようやく目を開ける。
「なるほど。よくわかった」
 牛窪さんは、嘆息するように言う。
「それでは、予定通り、『こっくりさん』を執り行おう」
 え、と拓矢は拍子抜けした。あんな説得力のない理由なのに、進一はOKなのか。
「最後に、もう一度だけ、念を押しておきたい。この儀式に参加すれば、君たちの抱えている問題を解決できる貴重な助言を得られるかもしれない。一方で、一人以上が命を失う可能性がある。本当に、それでいいんだね?」
 拓矢は、ギョッとした。ちょっと待って。話が違う。一言だが、とうてい無視できない。
「一人以上?」
 遼人が、眉根にしわを寄せて訊ねる。
「可能性があるということだよ」
 牛窪さんは、表情を動かさない。
「前回、亡くなったのは一人――坂本くんだけだ。つまり、最低でも、一人は犠牲になるかもしれないということだ。しかし、一人だけという保証もない」
 そんな……。チラリと見ると、楓と進一も動揺しているようだった。
「もう一回は、どうだったんですか? そのときも、人が死んでいるって言いましたよね? 犠牲者は一人じゃなかったんですか?」
 遼人は、なおも追及する。
「それが、よくわからないんだ」
 牛窪さんは、め息をついた。
「わかっているのは、すべては、この病室から始まったということと、そのときも、犠牲者が出たということだけだ。人数も含めて、詳しい状況は謎のままなんだよ」
「そんな、いいかげんな……。僕らは、命がかかってるのに!」
 進一が、気色ばんだ。
「だったら、止めるか? 私は別にそれでもかまわない。むしろ、賢明な判断だと思うよ」
 牛窪さんの顔が、急に悪魔に見えてきた。ここまで連れてきて断れない状況を作ってから、本当の条件を突きつけて死のゲームに誘い込む。最初から、そういう狙いだったのか。
「……いいじゃないか。やろうよ」
 遼人が、妙に大人びた態度で言う。
「立ち止まっても、未来はない。俺たちは、前に進むしかないんだ」
 本当に、それでいいのだろうか。拓矢は楓と進一の顔を見やる。楓は、ためらいがちにだが、うなずいた。進一は、かすかに首を振ったようだが、何も言わない。
 その様子を肯定ととらえたらしく、牛窪さんは、ショルダーバッグをベッドの上に置いて、ジッパーを開ける。取り出したのは、大判の和紙の束と、古ぼけたすずりと墨、大きな安全ピン、それに水の入ったペットボトルだった。
「これは、高知県のものそんで、いざなぎ・・・・流の御幣を作るためにかれた和紙だ」
 全懐紙――書道で使う半紙の倍の大きさらしい。牛窪さんは、ベッドの上に和紙を広げると、ペットボトルから硯に水を注いで、墨を磨り始めた。四人は、すっかり気をまれたように、その様子を見守っていた。
「今からここに、『こっくりさん』に使う図を描く。そのために、君たちの血が必要になる」
 牛窪さんは、遼人に、やけに大きく古びた安全ピンを手渡した。
「全員、これで指を刺して、墨の中に血を垂らしてくれ」
 うっかり刺してしまうんならともかく、わざと刺すなんてできるだろうか。痛みを想像し、拓矢は顔をしかめた。楓と進一もすっかり引いている。
 ところが、遼人は、何のためらいもなく、安全ピンの針を出して左手の親指に突き刺した。硯の上にかざした親指をんで血の玉を落とす。一滴、二滴……。
 それから、黙って安全ピンを拓矢に手渡した。本当は消毒しなくてはならないんだろうが、拓矢は、遼人に倣って左手の親指を刺した。痛い。血を絞るときには、またズキズキした。
 安全ピンを手渡すと、楓はティッシュで針を念入りにぬぐった。あたりまえの行動だろうが、何となく自分を否定されたような気持ちになる。
 楓もまた、思ったより気丈だった。すばやく指の腹を刺して血を墨に垂らすと、安全ピンとポケットティッシュを進一に渡す。
 進一は、針を拭おうとはしなかった。ひょっとしたら楓のことが好きなのかもしれないと、拓矢は思った。ところが、進一は、肝心の指を刺す段になって固まってしまう。
「怖いのか? 何だったら、俺が刺してやろうか?」
 遼人が、からかうように言った。
 進一は、唇をむと、泣きそうにゆがんだ顔で針を突き立て、血を硯に滴らせた。
 四人は、牛窪さんの指示通り指に墨を付けると、カタカナの五十音と〇から九までの数字を和紙に書いた。稚拙な文字はかえって生々しい。墨に垂らした血は微量だが、文字はかすかに褐色がかって見えた。鳥居のマークは、指からにじみ出す四人の血だけで描いたが、こちらは、乾くとけつこんそのものの色になった。
 牛窪さんは、ショルダーバッグから白い布の包みを取り出した。布を広げると、ピカピカの五円玉が出て来る。
「昨日、ぜにあらいべんてんで清めてきたばかりだ」
 牛窪さんは、五円玉を鳥居のマークの上に置いた。
「硬貨は、人の手から手へと渡るうちに、どうしても、欲望やおんねんなどのネガティブな感情に汚染されてしまう。悪因縁の糸を引いている硬貨は、悪霊を呼んでしまうんだ」
「『こっくりさん』では、十円玉を使うんじゃないんですか?」
 楓が、おずおずと質問する。
「呼び出した霊に取り憑かれる危険を軽くするためには、ふつうは『とおえん』を用いるんだよ。だが、今はそれでは弱い。命がけで救済を求めようと思えば、どうしても『えん』でなければならないんだ」
 何なんだ、そのくだらない合わせは。鼻で嗤っている遼人の表情が目に入る。
 こんなので本当に効果があるのかと、拓矢も不安になってきた。
 次に、牛窪さんがあみだくじを作って、順番を決めた。最初は楓、次に拓矢、進一、遼人の順番になった。言われたとおり、ベッドの両側に二人ずつひざまずく。
 牛窪さんは、祈りの言葉を口述すると、ショルダーバッグを肩にかけた。
「後のやり方はわかるね? 私は部屋の外で待っているから」
「立ち会ってくれないんですか?」
 遼人が、さすがに不安な顔をした。
「第三者がいると、『こっくりさん』は降りてきてくれない。幸運を祈る」
 牛窪さんは、病室を出ていった。重々しい音を立てて、やけに分厚い引き戸を閉める。
「よし、やろう」
 遼人が決然と言った。
 四人は、五円玉に人差し指を載せた。
 動かない。五円玉は、ピクリともしなかった。
「忘れてた。祈りの言葉だ」
 四人は、牛窪さんから聞いた文句を唱和する。
「こっくりさん、こっくりさん、我ら無力な者どもの切なる願いを、なにとぞ、何卒お聞き届けください」
 それぞれに、現在置かれている苦境について思いをせ、救済を願った。
 そのまま、しばらく待つ。さっきより雨音が強くなったような気がした。
「だめ……全然反応しない」
 楓が、落胆して顔を伏せる。進一も、がっかりした表情になっている。
「もっと、強く祈るんだ」
 遼人だけは、あきらめていないようだった。
「絶対に、来る。そう信じて」
「でも、やっぱり、こんなこと」
「俺たちが召喚するのは、マジですごい、慈悲深い存在なんだぜ。ここまでやったんだから、俺たちを見捨てるようなことはしない」
 拓矢は、遼人の言葉に違和感を覚えていた。こいつは、今から呼び出そうとしているものの正体を知っているのだろうか。
 進一が、五円玉から手を引っ込めようとする。
「おい! 指を離すな!」
 遼人が、怒鳴った。進一は、不承不承指を戻す。
「遼人。気持ちはわかるけどさ」
 拓矢が、そう言いかけた瞬間だった。ふいに地震の縦揺れのような強い衝撃に見舞われる。さらに、鉄筋コンクリートの建物が、木造家屋のように鳴動した。ビーンという音を立てて、窓ガラスが長々と共鳴する。
 四人は、きようがくのあまり固まってしまった。
「今のって、地震?」
「わからない……風かも」
「何か、ぶつかったみたいな」
 そのとき、五円玉がすっと動いた。
「みんな、絶対に指を離すな。力を入れずに、載せてればいい」
 遼人の指示で、全員、脱力しながら、五円玉の動きに合わせる。
 五円玉は、滑るように動いて、『ヨ』の上で止まった。あれ? 今回は数字じゃないのかと拓矢は思う。
 それから、再び五円玉は動き出す。次に示したのは『ヒ』だった。
『ヨヒ』? そんな言葉があるだろうか。
 五円玉は、十一文字のメッセージを残して、それきりまた動かなくなった。
「『ヨ、ヒ、ト、ヨ、ミ、ア、カ、シ、ト、モ、セ』……」
 忘れないようにと学習帳にメモした楓が、読み上げて溜め息をつく。
「全然、意味わかんない。これって、やっぱり、デタラメなんじゃない?」
「いや、そうでもないかも」
 遼人は、親指をすごい勢いで動かして、携帯電話を操作している。家から持ち出してきたムーバのSO505iという機種で、インターネットに接続できるため、お告げの文字を打ち込んで、読み方を調べているようだ。
「……ふうん。こうじゃないかな」
 遼人は、逆輸入したジェットストリームというボールペンのキャップを外し、楓の学習帳に文字を書き付ける。
 拓矢は、遼人の手元を覗き込んだ。そこには、こう走り書きされていた。

   夜一夜御灯点せ

「漢字にしても、まだよくわかんないんだけど。どういう意味?」
 ノートを見せられた楓は、キツネにつままれたような顔だった。
「楓の家って、仏壇はある?」
 遼人は反問する。
「うん、ひいちゃんのが。今は、お父さんのはいも入ってるけど」
「ロウソクか何か、立ってるだろう? みあかしっていうのは、灯明のことらしい。ひとは、夜通しっていう意味だ」
 楓は、しばらくポカンと口を開けていたが、かすれた声で言った。
「そっか。お灯明を上げていれば、お父さんが……」
「きっと、楓を守ってくれるんじゃないかな?」と、遼人。
 楓は、涙目になって何度もうなずく。表情に生気がよみがえってきたようだった。
 四人は、顔を見合わせた。さっきまでとは、雰囲気が一変しているのがわかる。
 灯明を上げていれば楓が助かるというのは、よくわからない話だった。しかし、どうやら、これはインチキではないのかもしれない。
「よし、次、拓矢」
 拓矢は、うなずいた。全員が、再び五円玉に指を載せると、今度は、待っていたかのようにスムーズに動き出した。『ミ』、『ヅ』、『カ』……。
 学習帳に『ミヅカラサバキツミツグナヘ』と書いて、拓矢ははっとした。さっきとは違い、今度はすぐに意味がわかる。遼人が、カタカナの横に漢字で書き直した。

   自ら裁き罪償へ

 そうか。やっぱり、それしかないんだ。当然と言えば当然すぎるアドバイスかもしれないが、拓矢は深く胸を突かれたような気がした。
 ……自首しよう。罪を償うんだ。
「納得したか?」
 見ると、遼人が笑っていた。拓矢は、ゆっくりとうなずいた。
「ああ。そうだな」
 そう言ってから、拓矢は、はっとした。携帯電話を見つめていた遼人の表情が変わったのだ。何かに気づいたかのように、かすかに眉をひそめている。
 そうか、と拓矢は考える。楓と俺は、無事に貴重なアドバイスがもらえたわけだ。しかし、ということは、残りの二人のうち一人か、ひょっとすると二人ともが、命を失うことになるのかもしれない。
「じゃあ、次は、進一だな」
 遼人がつぶやく。見ると、進一はそうはくな顔になって固まっていた。
「どうした? 早くしろよ」
「あのさあ、もう、二人はお告げをもらったわけじゃん? ……だったらさ」
「ダメだ!」
 遼人が、語気鋭く遮った。
「全員がやりきるのがルールだ! 途中でリタイアしたら、どんなたたりがあるかわからんぞ。もしかしたら、全員、この場で死ぬかもな」
 𠮟しつされて、進一は震える指先を五円玉に載せた。
 四人の指が揃うと、和紙の上を滑らかに五円玉が動く。
 進一の目が驚愕に見開かれた。全員が、息を吞む。
 数字だ……。
 いや、だからといって、犠牲者になるとは限らない。前回だって、電話番号とか、ロト6の当たりナンバーなんかもあったし。
 五円玉は、十桁の数字を次々に指し示していく。
「四八七二三三一二六五……何だろう、これ?」
 進一は、メモした数字を読んで、頭を抱える。
「少なくとも、電話番号じゃないね」と楓。
 遼人は、また忙しく親指を動かしてから、携帯電話の画面を凝視している。
「……これは」
「あったのか?」
「漢数字じゃヒットしなかったが、アラビア数字にしたら、すぐに出て来た」
「何? 何だった? 早く教えろよ!」
 進一が、遼人の腕をつかむ。気が気じゃないのだろう。
「ISBNコード。本の後ろに付いてるIDみたいなもんだよ」
「本って? 何の本?」
 遼人は、少しためらってから、携帯電話の画面を進一に見せる。
「『完全自殺マニュアル』?」
 場の雰囲気が、一気に凍りついた。
「まさか、自殺しろってこと?」
 楓は、息を吞んでいる。
 ところが、進一は、答えを見て、なぜか、かえって落ち着いた様子だった。
「いや、そうじゃないかもしれない」
「どういうことだよ?」
 拓矢が訊ねると、進一は、真顔で答える。
「……言ってなかったけど、僕のお父さんは、自殺したんだ」
「そうか」
 何と言っていいのかわからない。
「とにかく、この本を買って、読んでみるよ」
 進一には、何か思うところがあるようだった。
「じゃあ、最後は、俺だな」
 遼人は、落ち着いて五円玉に指を載せる。残りの三人も、それに倣った。
 まだ確実ではないが、遼人は、死のカードを引く可能性が高い。それなのになぜ、こんなに平静でいられるのだろうか。
 穴あき銅貨が和紙の上を滑る音が響いている。もはや誰一人、五円玉がひとりでに動くのを不思議とは感じなくなっていた。
 お告げは、今度もまた数字だった。しかも十五桁もある。
 遼人は、黙々と携帯電話に数字を打ち込んでいた。
「それ、何の数字かわかる?」
 拓矢が訊くと、遼人はうなずく。
「ああ。前例があるからな。緯度と経度だろう」
 嫌な予感がした。前回は、逗子市にある披露山公園の位置を示された坂本卓さんが、犠牲になっているのだ。
「場所は、どこかわかるか?」
「……俺の家だ」
 検索していた携帯電話の画面を見ながら、遼人は、深い溜め息をつく。
 家に帰れってことか? 拓矢は顔をしかめた。それってつまり、そこで最期の時を迎えろということじゃないのか。
「まあいい。解釈は後でやろう。とにかく、四人とも、お告げを受けることができたんだ。『こっくりさん』にお礼を言って、お帰りいただこう」
 遼人は、ポーカーフェイスで言う。
「こっくりさん、こっくりさん。おいでいただき、ありがとうございました。お言葉は、深く深く肝に銘じます。どうか、お帰りください」
 四人が声を合わせ、牛窪さんに教えられた文句を唱えると、再び建物が激しく鳴動した。
 そして、深い静寂が訪れる。
 やった。終わった。拓矢は大きく伸びをした。まだ誰が犠牲になるのかわからなかったが、少なくとも、やるべきことは決まった。憑き物が落ちたようにすっきりした気分だった。
 辛いことはたくさんあるかもしれないが、今日から生まれ変わろう。
 もう二度と、こんなおぞましい儀式に関わる気はなかった。


2021年11月22日 月曜日 午後一時二十五分

「失礼ですが、弁護士の近藤拓矢先生ですか?」
 拓矢は、声の主を見上げた。トム・フォードもどきの黒縁眼鏡をかけた、小柄な男がいた。マスクのせいで年齢はわからないが、上下八千円前後のファストスーツに高校の制服のようなレジメンタルタイを締め、ペラペラのナイロン製のバックパックを背負っている。
「そうですが」
 どう見ても、大金をもたらしてくれるような依頼人には見えない。拓矢は素っ気なく答え、やまざきシングルモルトのグラスを口に運ぶ。
「私、こういう者です」
 男が差し出した名刺には、『週刊しゆう』|霜《そう 記者 ぐちしゆんぺい』とあった。勘弁してくれと思う。勝訴の祝杯だというのに、奮発した高価な酒がまずくなりそうだった。
「ちょっと、お話を伺いたいんですが。よろしいでしょうか?」
 野口は、拓矢の返事を待たず、一つおいて隣の席に腰を下ろす。
「何の話ですか?」
「今から十八年前の出来事についてです。……あ、私はけっこうです。すぐ出ますから」
 拓矢は、のどが焼けそうなオンザロックをゆっくりと飲みつつ、動揺を押し隠した。ここは、取材拒否をするよりは、適当に相手をして相手の取材意図を探りながら、疑惑の火消しを図るべきだろう。
「十八年前だと、私はまだ子供でしたが」
「そうですね。私も先生と同い年で、小学六年生でした。塾にも行かないでPS2のゲームに夢中でしたよ。ファイナルファンタジーX-2とか、真・三國無双3とかです。今考えると、人生で一番平和な時代でした。……ですが、どういうわけか、先生の周囲にだけは死が溢れていたようですね」
 今度は、しっかり心の準備ができていた。
「死というと、新島遼人のことですか?」
「新島くんは、先生の親友だったとか?」
「ええ。年齢の割には大人でしたし、天才的に頭がいいヤツでした。生きていたら、今頃は、私なんか足下にも及ばないくらい活躍していたはずです。……彼の死に、何か疑念があるんでしょうか?」
「新島遼人くんが亡くなったのは、2003年の12月1日ですね。夕方、自宅で急逝されたということでしたが」
 野口は、メモを見ながら言う。
「脳腫瘍に冒されていましたから、ある意味、時間の問題でした」
「ええ。そのことは裏が取れています。病状が深刻化する前の突然死でしたから、病理解剖が行われ、急性心不全という結論になったようですね」
「でしたら、何が問題なんですか?」
「ちょっと出ませんか? この先は、少し繊細な話題になると思いますから」
 拓矢は立ち上がって、カードで勘定を払う。野口の後に続いて、半地下にあるバーを出た。昼すぎから秋雨が降り続いていたが、パラパラと傘に当たる雨粒の音は、十八年前に廃病院に侵入したときの記憶をよみがえらせた。
「さっきも言いましたが、先生の周囲で起こった死は、一つじゃありませんでした。単独では気づかれなくても、重なれば、また別の意味を持つようになります」
 野口は、並んで歩きながら言う。いったい、こいつは、何をどこまで知っているのだろう。拓矢は探るように野口を見た。
「誰のことを、おっしゃってるんですか?」
「小川楓さんも、近藤先生の同級生でしたね?」
 ああ、そっちの話か。拓矢は、黙ってうなずいた。
「火事が発生したのは、2003年の12月2日未明でした。新島遼人くんが亡くなってから、わずか半日後の出来事です」
「その二つの出来事に、何か関連があるとおっしゃるんですか?」
 拓矢は、野口の方に身体を向ける。
「わかりません。しかし、事件性が疑われる状況だったことは、たしかです」
「事件性? 仏壇のロウソクが倒れた事故だったと聞いていますが?」
「そのロウソクを立てて火を点けたのは、小川楓さんでした」
「そのことの、いったい何が問題なんでしょう? 亡くなったお父さんをしのび、灯明を上げることの」
「問題は、ふだんは誰一人、お灯明を上げたりしていなかったことです。仏壇の引き出しにはお線香もロウソクも入っておらず、楓さんは、物置から古いテーパーキャンドルを持ち出してきて、火を点けました」
 拓矢は、黙って続きを待った。
「テーパーキャンドルの底には穴が開いていましたが、ロウソク立ての針が太すぎたために、無理に差し込んでロウにれつが入ってしまったんです。楓さんは、お父さんに手を合わせて、そのまま就寝しました。不可解なのは、火を消し忘れたことです」
 夜一夜、御灯を点すためだよと、拓矢は心の中でつぶやく。
「底が割れたロウソクは徐々に傾いていき、割れ目はさらに大きく広がりました。その結果、真夜中頃に座布団の上に落ちたようです。火の廻りは驚くほど速かったので、家は跡形もなく全焼しました」
 野口は、かすかに首を振った。
「楓さんは、きな臭さと煙に目を覚まして、二階の窓から逃げられましたが、けいと母親は、泥酔していたために焼死したということは、ご存じですよね?」
「それを、小学六年生の女の子が、意図的にやったと言うんですか?」
 拓矢は、信じられないという表情を作って、野口を見た。
「だいたい、楓には両親を殺す動機がないでしょう? 火事が起こったせいで、彼女は結局、児童養護施設に行くことになったんですよ?」
「たしかに、どれほど充分なケアが与えられようと、家庭のぬくもりには代えられませんね。楓さんはとても寂しい思いをしたでしょうし、以降の人生も順風満帆ではありませんでした。……ですが、それでもなお、私は、楓さんが自宅に放火する動機はあったと思います」
 黒縁眼鏡の奥の野口の目は、まばたきもしなかった。
「私は、楓さんが、継父の小川ゆうすけさんから性的虐待を受けていたという情報を得ています。しかも、お母さんのさんは、それを黙認していたふしがあると」
「信じがたいですね。いったい、どこからの情報ですか?」
「ソースは、申し上げられません。しかし、信頼できる証言がありました」
 ネタ元は、だいたい見当がついた。しんせきのおばさんが、虐待に気づいたのに、何もしてくれなかったと楓は言っていた。虐待を止めようともせず、楓を引き取ることさえ断ったくせに、週刊誌の記者には情報を売って、今さら正義の味方面をしたいのだろう。
「万が一、その話が本当だったとしても、楓には絶対に、そんなことはできませんよ。彼女は、とても優しい子でした」
「そうですね。私も、楓さん一人の考えによるものとは考えていません」
 野口は、含みを持たせた言い方をする。
「それで? 結局何が言いたいんですか? その二つの出来事の間にどんなつながりがあるというのか、見当もつかないんですが」
 首都高の高架下にさしかかった。草ぼうぼうの植え込みの間には、不法投棄されたらしい、粗大ゴミが見え隠れしている。
「ここなら、誰にも聞かれずにすむでしょう。雨宿りをしましょうか」
 野口は、ビニール傘をゆっくりと窄めた。拓矢も、ワンタッチで傘を閉じる。
「二つの出来事の間につながりを見つけるのには、私もたいへん苦労しました」
 野口は、にやりと笑う。
「ところが、ある偶然から、別の小さな事件の記録が目に留まったんですよ。新島くんの死と、小川楓さんの家の火事の少し前、11月29日に起こった、ごくつまらない建造物侵入事件です。『バクティ調布』という廃病院なんですが、何か、お心当たりはないでしょうか?」
「さあ」
「ここは、曰いわく付きのホスピスでね。少し前に、突っ込んで調査したことがあったんですよ。患者の虐待から保険の不正請求、薬物の横流しと、まあ、ちょっと掘ったら、スキャンダルがザクザク出てきて驚きました」
 たしかに、そういう噂はあったようだが、当時、表だって、そんな報道はされていなかったはずだが。
「理事長らが雲隠れして廃業し、それで一件落着かと思ったんですが、今度は心霊スポットとして有名になり、不法侵入する若者と近隣住民のあつれきが騒動に発展しました。数人が逮捕され、建物が厳重に施錠されるようになってからは、それも沈静化していたんですがね」
 野口は、意味ありげに拓矢を見た。
「2003年は、多くの自治体が、犯罪防止のために監視カメラの設置を推進した年でした。侵入騒ぎがあった『バクティ調布』の近隣でも、何軒かの家が監視カメラを新設したんです。当時、ご苦労なことに、監視カメラのある家を一軒一軒訪ねた記者がいましてね」
 野口は、バックパックから封筒を取り出して、入っていた写真を拓矢に手渡した。拓矢は、ちらりと見て目をそらした。傘を差して道を歩く、一人の男と四人の子供の姿が写っていた。画質は悪いが、見る人が見れば、誰だか判別できるだろう。
「そのときは特定に至らなかったんですが、小学校の卒業アルバムを参照してわかりました。写っているのは、近藤先生と新島遼人くん、小川楓さん、後藤進一くんです。驚きましたが、引率しているのはオカルト研究家の牛窪博樹さんですね」
 拓矢は、答えなかった。
「もちろん、近所を歩いていただけでは、先生たちが『バクティ調布』に不法侵入した証拠になりません。ですが、ここは正直に答えていただけないでしょうか? みなさんは、廃病院の敷地内――あるいは建物の中に立ち入ったんじゃありませんか?」
「いいえ、そんな事実はありませんし、牛窪という人も知りません」
 拓矢は、とりあえず全否定する。
「ですが、かりに立ち入っていたとして、先ほどの話とどう結びつくんですか?」
「詳しいことは、まだわかりません。しかし、とうてい偶然とは思えないんですよ」
 野口は、身を乗り出した。
「ここに写っている子供のうち、一人は二日後の夕方に突然死して、さらにその半日後には、もう一人の子の家で火事が発生して両親が亡くなっているわけですから」
 拓矢は、腕組みをした。
「たまたま、同級生二人の家で不幸が続いた。それだけのことでしょう?」
「それだけではないんです。すべての始まりは、さらに六日前の23日、勤労感謝の日でした。近所の河原で、ホームレスの焼死事件が起きているんですよ。私の調査で、ここに写っているもう一人の小学生が、その事件に深く関わっていたことが判明しました」
 拓矢は深甚な衝撃を受け、視線をそらした。その様子を、野口は冷徹な目で観察している。
「先生だったんですね? ホームレスがいるテントに、ネズミ花火を投げ込んだのは?」
 あり得ない、ただカマをかけているだけだ。拓矢は冷静さを取り戻そうとした。少年事件だ。裁判所は、徹底して個人情報を秘匿したはずなのだ。
「いいえ、私ではありません」
 そう言って、拓矢は野口を静かに見つめた。
『こっくりさん』の後、拓矢はすべてを両親に告白し、翌日、弁護士に付き添われて警察に自首した。家庭裁判所の審判では、悪質なイタズラではあるものの、シンナーに引火することまでは予見できなかったと認められ、自首したことも評価されたため、保護観察処分が下った。毎週保護司の家に行き、近況を報告するだけだったが、態度がきわめて良好だったことから、わずか一年あまりで処分は解除されている。
 ……まさか、保護司の先生が漏らしたとも思えないが。
「ネタ元は、犯行時に先生と行動を共にした中学生たちですよ。皆さん金にお困りの様子で、薄謝を渡したら、一部始終をペラペラとうたってくれました」
 屑は、何歳になっても、屑のままらしい。拓矢は一瞬、怒りの表情を隠せなくなった。
「やはり、そうでしたか」
 野口は、満足げにうなずいた。
「ひとり合点は、やめていただけますか? あなたが、そんな不確かな情報に基づいて記事をでっち上げるつもりなら、こちらも法的措置を執りますよ」
 拓矢は、野口をにらみつけた。
「なるほど。私の側にもリスクが生じるということですか。それは困りましたね」
 言葉とは裏腹に、蛙の面に小便というていだった。
「ぶっちゃけますとね、私はひどい金欠なんです。息子が難病なんですが、高額療養費制度は保険外治療には適用されないんでね。とても裁判費用までは払えません」
 話の持って行き方が手慣れている。こいつは、恐喝の常習犯かもしれない。
「先生も、せっかく築かれた名声が泥にまみれることは本意ではないでしょう? できれば、ウィンウィンの関係が望ましいですね。そうは思われませんか?」
 拓矢は、態度を決める前に、もう少し探りを入れてみることにした。
「さっき、野口さんは、『バクティ調布』について調べられたとおっしゃいましたね」
「徹底的に調べ上げましたよ。院長は、ギャンブルの借金で首が回らなくなった医者でした。実質的な経営者は、巧みに法の網をくぐり抜けて悪事を働き、巨万の富を築いた人物ですが、一度として名前が報道されたことはありません」
「薬の横流しがあったというのも、事実だったんですか?」
「はい」
 野口は、あっさり認めた。
「医療用麻薬は、品質がいいために高額で売れるんです。特に、医療用モルヒネは人気でね。経営たんした精神科病院の建物を買い取ってホスピスを始めたのも、ひょっとすると、それが主目的だったんじゃないかと疑いたくなるくらいです」
「そうですか。それで、その取材の成果は記事になったんですか?」
「いやあ、これは痛いところを突かれました」
 その実、全然痛そうな表情をしていない。
「いろいろありましてね。結局は、大人の事情で、記事にするのは見送りました」
 やはり、初めから金目当てだったということか。
「薬の横流しにより不正に得た金が、回り回って難病の息子さんのお役に立ったわけですか。世の中うまくできていますね」
 拓矢は、皮肉った。
「私のことは、今さら、何と言われようとかまいません」
 野口は無表情を崩さなかったが、語気にはふんが混じっていた。
「ですが、今この瞬間も難病と闘っている息子のことをされるのだけは我慢できません。そういう態度を取られると、交渉の余地はなくなりますよ」
 ここで一言でも謝罪したら、一気に相手のペースにまってしまうだろう。拓矢は沈黙するしかなかった。
「一応、私の筋読みをお話ししておきましょうか。十八年前の一連の事件は、個人カルト――それも、かなり珍しいオカルト系のカルトによるものだと考えています」
 野口は、一転して静かな口調に戻って続ける。
「不遇なオカルト研究家だった牛窪博樹は、唯一の武器であるマニアックな知識を悪用して、カルト集団を作ろうとしたんじゃないでしょうか? アメリカの中堅SF作家でしかなかった男が、********教会を設立して巨万の富を得たのにあやかろうとして」
 野口は、某ハリウッドスターが入信して有名になった、カルト教団を引き合いに出す。
「牛窪は、まだ小学生だったみなさんをターゲットにしました。信者にする目的だったのか、実験のつもりだったのかはわかりませんが、有名な心霊スポットである廃病院に連れ込んで、オカルト的な儀式によって洗脳を図ったのです。遼人くんの自殺も、楓さんが自宅に放火し、両親を焼き殺したのも、牛窪の指示によるものとしか思えません」
「自殺? 遼人の死は、自然死という結論だったはずですが」
 拓矢の反論にも、野口は動じなかった。
「新島遼人くんの遺体は、病理解剖されただけで、司法解剖までは行われていないんですよ。フグ毒のように検出が難しい毒物を与えられれば、見落としてもおかしくないはずです」
 人殺しのぎぬを着せられた牛窪さんは、泉下で苦笑していることだろう。
「ですが、おっしゃっているようなカルト集団は、現実に誕生していないじゃないですか? 牛窪さんも十年以上前に亡くなっていますし」
「先ほど、牛窪博樹のことは知らないとおっしゃってましたが、亡くなったことはご存じなんですね」
 野口は、薄笑いを浮かべた。しまったと思うが、拓矢は表情には出さない。
「私は、牛窪が死んだ後、その遺志を継いだ者がいたんじゃないかと思っています」
「いったい、誰のことですか?」
 拓矢は、眉をひそめた。本当に、何のことを言っているのかわからない。
「『バクティ調布』に侵入した四人の小学生の最後の一人、後藤進一くんです。進一くんは、お父さんが自殺した辛い経験から、自殺防止をひようぼうするNPO『ワンスモア』を設立しました。今年、市会議員に当選しましたが、今も『ワンスモア』とは密接な関係にあるようですね」
「全部、妄想ですよ。『ワンスモア』は、カルトなんかじゃありません」
 進一が、『こっくりさん』のお告げを受けた後で、まるで人が変わったように勉強し出し、大学では、熱心に自殺防止運動に取り組んでいるのを、拓矢はつぶさに見ていた。
 進一の意見によれば、『完全自殺マニュアル』は、「いつでも死ねる」をキーワードとして、逆説的に自殺を思いとどまらせようとしている本らしい。
「まあ、先生のお立場としては、そうおっしゃるよりないでしょうが」
 野口には、邪推かもしれないという迷いはじんもないようだった。しかし、これで向こうのカードはわかった。
「お話は、それだけですか? だとしたら、あてが外れましたね。記事にしたいのであれば、どうぞ、ご自由に」
「本当に、いいんですか?」
 野口の目に、さいの光が宿る。
「『ワンスモア』がカルトというのは、ひどい言いがかりです。活動実態を知っている方々が証言すれば、誤解は解けるでしょう。ホームレスの焼死事件については、たいへん申し訳ないことをしました。ですが、あれは子供の頃の過ちですし、自首してすでに罪は償っています。厳しいご批判や炎上も覚悟の上で、世間に真実を話すつもりです」
 拓矢は、反撃に出る。
「だが、あなたの方は、ただではすみませんよ。私は、あなたを恐喝で刑事告訴しますので。ブラック・ジャーナリストとしての過去の余罪も、それこそザクザクと出てくるんじゃないですか?」
 野口は、悲しげに目を伏せると、首を横に振った。てっきり意気消沈したのかと思ったが、そうでないことはすぐにわかった。
「子供の頃の過ちですか。残念ながら、その言い訳は、もう通用しないと思いますよ」
「どういう意味ですか?」
 表面上は強気を装いながら、拓矢はヒヤリとするものを感じていた。
「あれは、事故ではなかった。牛窪博樹の教唆による、最初のカルト殺人だったんです」
「何を言ってるんですか? 何の根拠があって、そんな馬鹿げた」
 拓矢は、絶句した。こいつは、いったい何を言い出すつもりなのか。
「私は、別の、きわめて重要な証言も得ているんです」
 続いて野口が放った言葉に、拓矢は愕然とした。足下の大地が崩壊するような衝撃を受け、頭が真っ白になってしまう。
「おわかりでしょうか? 少年審判の下した結論には、重大な錯誤があったということです。私の記事は、そのことを暴き、告発するのが主眼です。もしも、世間がその事実を知ったら、はたして謝罪会見くらいで許してもらえ」
 野口は顔を上げたが、最後までしやべりきることはできなかった。
 数分後、拓矢はようやく我に返った。野口は、頭が不自然にねじ曲がった姿勢で横たわっている。すぐそばに落ちているコンクリート片には、べっとりと血が付着していた。
「野口さん、だいじょうぶですか?」
 慌ててかがみ込んで、首筋に触れてみたが、脈はない。絶命しているのはあきらかだった。
 ……殺してしまった。まさか、こんなことになるなんて。
 拓矢は、茫然とその場に立ち尽くしていたが、ややあって、キョロキョロと周囲を見渡す。さいわいというべきか、人通りはまったくなく、監視カメラも見当たらなかった。
 拓矢は野口の遺体を引きずって、植え込みの奥に隠した。さらに、周囲にあった段ボールや波板などをかぶせて覆い隠した。今の気温ならば、異臭がするまでに二、三日はかかるだろう。だが、多少は発見を遅らせられても、見つかるのは時間の問題だ。
 さっきのバーで、カードを使ったことを思い出す。バーテンダーには会話の一部を聞かれていたはずだ。もはや、猶予はほとんどないと考えるべきだろう。
 どうしよう。どうすればいい。
 とにかく、誰かに目撃されないうちに、ここから立ち去らないと。
 拓矢は、早足で犯行現場を後にした。
 ……わからない。いったい、どうすればいいのか。
 弁護士としての知識と過去の経験を総動員したところで、現在の苦境を抜け出す方策など、湧いてこようはずもない。
 もはや頼るべき方法は、たった一つしか思いつかなかった。


2021年11月22日 月曜日 午後十時十一分

 402号室。二度と入ることはなかったはずの、薄暗い病室。建物の劣化はあのときよりも進み、廃墟感が増しているが、こもったように反響する雨音だけは、十八年前とそっくりだ。拓矢は一足先に入ると、左手前にあるベッドの上にランタンを置いた。
「みなさん。どうぞ、ここに集まってください」
 うっそりと暗い廊下に佇んでいる三人に向かって、声をかける。
「本当に、やる気なのか?」
 進一が溜め息交じりに言った。スタジャンのポケットに両手を突っ込んで、寒そうに長身をすくめている。長髪にあごひげを蓄えた風貌は、小学生の時分とは別人のようにアクティブに見えたが、抑えようもなく声音に滲む不安はあのときと少しも変わらなかった。
「そのつもりで来たんだろう?」
 拓矢は、素っ気なく答えた。三人はゾロゾロ入ってきて、ベッドの両側に二人ずつ並ぶ。
「まさか、またこれをやることになるなんて……」
 楓がつぶやいた。子供の頃から、何となく幸薄そうな雰囲気があったが、生活苦のせいか、かなりおもやつれしており、とても二十九歳には見えなかった。
 三人目はみずおりという女性で、無言のまま部屋の中を見回した。二十五歳ということで、モンクレールのダウンコートを羽織った姿はモデルのようにあかけていたが、対照的に表情はひどく暗い。
「十八年前、俺たち四人は、ここで、『こっくりさん』の闇バージョンに参加した」
 拓矢は、開会を宣言するように言う。
「俺と進一、楓は、そのときのメンバーだ。だから、やるべきことはわかっている。しかし、水木さんは初めてだから、簡単に説明しておこう」
「それは、やりながらでいいです」
 沙織は、ツンとした顔で言う。
「でも、一つだけ教えてください。前回参加した四人目は、どうなったんですか?」
「聞いているとは思うが、この闇バージョンは、別名ロシアン・ルーレット・バージョンだ。四人全員に、今の窮地から脱するためには命を懸けてもかまわないという覚悟が必要になる。三人は、人生を逆転できる貴重なアドバイスを得られるかもしれないが、その代償に、残りの一人は必ず命を落とすと言われている」
「それは聞きました。それで、四人目はどうなったんですか?」
 沙織は、早口で遮る。
「四人目――遼人に与えられたのは、自宅を示す座標だった。そして、自宅に帰った二日後に、突然死した」
「苦しまなかったんですね?」
「ああ」
「それだけ聞けば、けっこうです。さっさと始めてください」
 拓矢は、年下の女性から高飛車に出られるのは、我慢ならないたちだった。ふだんだったらひともんちやくあるところだったが、我慢して寛容にうなずく。
「その前に、全員が、どうしてこの儀式に参加したのかという、理由を話す必要があるんだ。俺から時計回りに……」
「それは、どうしても必要なことなんですか?」
 また、沙織が口を挟む。
「ほとんど見ず知らずだし、お互いの事情は、別に知らなくてもいいと思うんですけど」
「もちろん、できれば、俺もそうしたい。だが、一つ大きな問題がある」
 拓矢は、辛抱強く沙織を諭す。
「前回は、この儀式について知っている牛窪博樹さんが指導してくれたんだが、すでに故人だ。だから、何が必須で、何は省略していいのかがわからない。とりあえず成功させるためには、すべてにおいて前回のやり方を踏襲した方がいいと思う」
 ここでへそを曲げられて、参加するのは嫌だと言い出されては困る。進一と楓も思いは同じらしく、三人は沙織を注視したが、彼女も、それ以上文句を言うつもりはないようだった。
「言い出しっぺの俺から、みなさんに声をかけた事情を説明しよう。……今日の話だ」
 拓矢は、野口を殺してしまった経緯について正直に説明した。ただ一つ、野口が得たという『きわめて重要な証言』についてはオミットして、あくまでも偶発的な事故だったかのような印象操作をしておく。
「そんなことがあったなんて」
 楓が、絶句した。
「待ってくれ。それだったら、おまえが前回受けたアドバイスは、結局、無駄だったっていうことにならないか?」
 進一が、鋭く突っ込む。
「いや、そうとは言えないな。今回のことは、俺が頭に血が上って馬鹿な行動を取ったせいだ。脅迫には、返答を保留すればよかった。結局は、闇バージョンをやることになったとしても、ここまでは追い詰められなかっただろう」
 はんばくしながらも、拓矢は、進一の指摘にヒヤリとするものを感じていた。
 前回の参加者のうち三人は、『こっくりさん』のアドバイスによって人生を救えたとばかり思っていた。ところが、こんなことになったため、きゆうきよ連絡を取ってみると、三人が三人とも、前回にも増して苦境にあることがわかったのだ。
 あれらのアドバイスが正しいものだったなら、なぜ、こんなことになったのだろう。
 拓矢は、秘かに『こっくりさん』に潜む悪意のようなものの存在を疑い始めていた。
「わたしも、近藤くんと変わらない。この手で、人の命を奪ったの」
 楓が、半ば放心したようにつぶやく。
「ううん、もっとずっと悪い。……何より大切だったはずの命なのに」
 拓矢は、何があったのか聞いていたが、あとの二人は、ギョッとしたようだった。
「二人は、わたしが一人ぼっちになった理由は知ってるよね。義父は医者だったけど、開業のために相当な借金をしていたから、遺産はなかった。わたしは児童養護施設に入り、奨学金で何とか地元の公立大学を卒業し、小さな建設会社の事務員になった」
 楓は、無感動に続けた。
「薄給で仕事は忙しく、パワハラ・セクハラはあたりまえの会社。そんな中、恋人ができた。ナンパされたんだけど、わたしの方がひとれだったみたい。今では、どこが良かったのか、全然思い出せないけど、金髪で、小太りで、空っぽな男だった。避妊してくれなかったから、すぐに妊娠し、しつようろせと言われたけど、赤ちゃんを出産した。男の子だったわ」
 楓は言葉を切ったが、誰も何も言わなかった。
「彼は、すぐに姿をくらました。わたしは、本当に孤立無援だったわ。妊娠していたときは、あんなにいとおしいと思っていたのに、日を追うごとに育児ノイローゼがひどくなっていって、ここから逃げ出したいという思いだけがつのっていくの。そして、はっと気がついたときは、赤ちゃんを浴槽に沈めてしまっていた。……遺体は、今も冷蔵庫に入れたまま」
 楓は、一気にそう言うと、えつした。
 拓矢は、どう言って慰めたらいいのかわからなかった。月並みな慰めは、今さら何の役にも立たないだろう。進一も、かける言葉が見つからない様子だったし、同じ女性である沙織も、無言のままだった。
「俺の番か。三人が、揃いも揃ってというのは、とても信じられないが」
 進一は、ちようするように言った。
「俺も、人をあやめてしまったんだ」
 これが、本当に、偶然ではないのだろうか。
「『ワンスモア』の支援者に、前から市会議員になることを勧められていたんだ。ライフワークの自殺防止運動のために出馬を決意したんだが、慣れないあいさつ回りで、くたくたになっていた。それで、深夜、帰宅する途中、路上に寝ていた酔っ払いをいてしまった。運転は正常にできていたが、現場は街灯がなくて真っ暗だったから、けられなかった。酒を飲んでいたことと、選挙を控えていたことが頭にあって、つい、そのまま逃げてしまった」
 進一は、がっくりと肩を落とし、ざんする。
「被害者は、出血多量で亡くなった。後でわかったんだが、事故後すぐに救急車を呼んだら、被害者は助かっていたかもしれない」
 まるで、呪いの連鎖だ。そもそも、十八年前に、こんな儀式をしなければよかったのかもしれない。拓矢は、腕組みをした。……いや、あのときは、他に選択肢はなかった。
 進一はともかくとして、俺や遼人、楓は、どうしようもない難題に直面していたんだから。小学生の手には余る……いや、大人でも、とうてい対処できないくらいの。
「呆れた。わたし以外、全員人殺しなわけ? こんな人たちの集まりだってこと知ってたら、絶対来なかった」
 沙織が、鼻息荒く吐き捨てる。
「君は、違うんだよね? 病気だって聞いてるけど」
 拓矢が水を向けると、沙織は、うなずいた。
「幼い頃から死ぬほど努力して、バレリーナになったのよ。それなのに、アルツハイマー病を発症して、引退しなきゃならなかった。つくづく運命を呪ったわ。なぜ、わたしがこんな目に遭わなきゃならないのかが、どうしても理解できなかった。ところが、精密検査をした結果、もっとひどいことがわかったの。本当は、クロイツフェルト・ヤコブ病だった……」
 沙織の目から、一筋の涙が流れ落ちた。
「神経の難病なんだよ。残念ながら、今のところ治療法は皆無だ。彼女は自殺しようとして、友達から『ワンスモア』に相談があったんだ」
 進一が補足する。ここへ沙織を誘ったのは、進一から聞いてだった。
「そんな病気があったなんて」
 楓が、つぶやいた。
「ヤコブ病って、ふつうは知らないと思うけど、プリオンっていう異常なタンパク質が脳内に増殖する病気。狂牛病は知ってるでしょう? あれと同じよ」
 沙織は、楓に目を向ける。
「これから起きることは、正確にわかってるの。電気ショックみたいに筋肉がけいれんしながら、徐々にほうが進行していくのね。一、二年で、全身の衰弱と、呼吸の、肺炎なんかで死ぬ運命なわけ。わかった? 別に、あんたたちの運命が最悪なんじゃない。代われるもんなら、代わってもらいたいわよ。警察に逮捕されたって、殺したのが一人なら、死刑にはならないでしょう? あんたたちは、生きられるんだから! 生きる気さえあれば」
 三人は衝撃を受けて、黙り込んだ。
「こんな茶番に付き合ってること自体、まだ信じらんない。……だけど、何もしないでじっとしてると、本当に頭が変になってくるのよ。だから、さっさと始めましょう!」
「わかった。そうしよう」
 拓矢は、愛用のダレスバッグを開いた。必要な道具を取り出して並べていく。
 その間、自分の表情が沙織に見えないように、うつむいていた。ほくそ笑んでいることを、気づかれたくなかったのだ。
 拓矢がベッドの上に並べたのは、十八年前とほとんど同じ品々だった。大判の和紙の束と、古ぼけた硯と墨、大きな安全ピンだ。いざなぎ流の御幣を作る土佐和紙も、都内にある和紙の専門店で入手できた。硯と墨は、牛窪さんの遺族と連絡が付かなかったので、都内のこつとう店で「御縁が繫がる」という円硯と、『天趣』という消えかけた金文字入りの古い墨を購入したが、これで用が足りるかどうかは一抹の不安が残っていた。
 進一が、ビジネスリュックから御神水入りのペットボトルと御浄銭の紙包みを取り出した。どちらも、彼が今日、かまくらの銭洗べんざいてんふく神社から持ち帰ったものだ。
「最後に、念を押しておきたい」
 拓矢は、思い出しながら書いたメモを見る。
「参加者は、それぞれが抱えている問題を解決できる、貴重な助言を得られるかもしれない。一方で、最低でも一人が命を失う可能性がある。そのことは、みなさん了解済みですね?」
 十八年前と同じ意思確認だった。牛窪さんは、儀式に必須とは言っていなかったと思うが、すべてを同じ条件にしておかなければならない。
「ちょっと待ってください。最低でも一人って、どういうこと? 一人じゃないこともあるんですか?」
 案の定、沙織が鋭く突っ込んだ。
「その可能性があると、牛窪さんは言っていた」
 拓矢は、慎重に答える。
「十八年前に俺たちがやった儀式と、その前に牛窪さんが立ち会った儀式では、死んだ人間は一人ずつだった。だが、常に一人だけだという保証はないそうだ。そもそも、闇バージョンはこの病院で生まれたらしいが、詳しい経緯や状況は今も謎のままだし」
 それを聞いて二の足を踏まれても困ると思っていたが、沙織は、あっさりうなずいた。
「わたしは、別にどっちでもいい。安楽死させてくれるなら、その方が楽かも」
 なるほど。彼女にしてみれば、そう思うのも当然だろう。だったら、気が変わらないうちに、先に進んだ方がいいだろう。
 ふと、本当に生け贄が一人じゃなかったらどうなるのかという考えが頭をもたげかけたが、あえて考えないようにする。遼人の言葉が頭に浮かんだ。
「立ち止まっても、未来はない。俺たちは、前に進むしかないんだ」
 拓矢は、大判の和紙をベッドの上に広げると、ペットボトルから硯に水を注ぎ墨を磨った。指を刺して血を垂らす作業も、小学生のときとは一変して、全員が粛々と終える。
 全員の指から滴る血で、土佐和紙の中央に鳥居のマークを描くと、今度は指に血の混じった墨を付けて、カタカナの五十音と〇から九の数字を書いた。部屋が暗いために、微妙な墨色の違いはよくわからなかった。
 それから、拓矢は、十八年前に牛窪さんが作ったのを思い出しつつ、あみだくじを作った。四人が血の指紋を押し、沙織、進一、楓、拓矢という順番が決まった。
 いよいよだ。四人は、五円玉の御浄銭に、そっと人差し指を載せる。
「それでは、祈りの言葉です。全員で唱和してください」
 拓矢は、全員にメモのコピーを手渡した。部屋は前回より暗かったが、ランタンの明かりに近づけると、かろうじて読むことができた。
「こっくりさん、こっくりさん、我ら無力な者どもの切なる願いを、何卒、何卒お聞き届けください」
 しばらくは、何事も起こらなかった。ただ雨音だけが単調に響いている。
 全員が御浄銭を注視している。沙織は半信半疑な様子で、視線を宙にさまよわせていたが、残る三人は、じっとそのときを待ち受けた。
「……何も起きないじゃないですか?」
 れたらしく、沙織が誰にともなくつぶやいたが、答える者はいなかった。みな、家鳴りのようなしるしを予期しているのだ。
「馬鹿馬鹿しい。わたしたち、いつまで、こんなこと」
 その瞬間だった。廃病院全体が、直下型地震のように激しく揺れた。
 来た。拓矢は内心でかいさいを叫ぶ。『こっくりさん』だ。今回も召喚に応じてくれた。
 再び、激しい衝撃。老朽化した建物が崩壊するのではないかと心配になるくらいだった。
 さらに、もう一度。モルタルかせつこうボードの粉が天井から降り注ぐ。
「何、これ? 爆発?」
 沙織が、怯えた表情を見せた。
 最後に、もう一度、爆撃を受けたようなごうおんと震動が襲来する。
 並んだ窓ガラスが、いっせいに、共鳴するおんのような異音を発し始めた。鼓膜がおかしくなりそうだった。減衰することのない定常波が空間を満たし、空気を揺り動かし続ける。
「……●★※▲?」
 誰かが何かを叫んでいたが、もはや何一つ聴き取れなかった。天井から落ちてくる粉塵は、さらにあちこちで勢いを増し、砂嵐のように部屋の中を舞う。
 まさか、ここで、このまま死ぬのか? 拓矢は、恐怖にすくんだ。ひょっとして、俺たちは、何かをミスって、『こっくりさん』のげきりんに触れてしまったのだろうか?
 すさまじい鳴動は、始まったときと同じく何の前触れもなしに、ピタリと止んだ。
 四人は、身動きすることもできずに、硬直していた。御浄銭に載せた四つの指は、接着剤で貼り付けたように、最初と同じ位置にある。
 すると、御浄銭が動いた。まるで氷の上を滑っているように抵抗がない。
「指を離すな!」
 拓矢は、全員を𠮟咤する。しかし、言われるまでもなく、誰もが指先に全神経を集中して、御浄銭の動きに合わせている。
 拓矢は、目を見開いた。全員が、はっとしているようだ。
 三、五、六、八、二……。
 お告げは、数字だった。
 よし、やった! 拓矢は、ひだりこぶしを握りしめた。
 これは、緯度と経度に違いない。それも、ここから遠くない。東京のどこかだ。あらかじめ下調べしていたので、拓矢には見当がついた。
 楓が、左手だけを使って、丹念に数字をノートに書き取っていった。驚いたことに、全部で三十二桁もあった。
「さっきの話だと、これは、どこかの場所を示しているということよね。つまり、わたしは、ここで死ぬってこと?」
 沙織がつぶやくと、楓が、「そうとは限らないよ」とフォローする。
 だが、拓矢には、確信があった。すべては、読み通りだったからだ。
 たしかに、お告げが数字であったとしても、死のカードを引いたとは限らない。都市伝説の例で言うと、電話番号やロト6の当たりナンバーもあったし、前回、進一は、書籍のISBNコードを与えられている。
 しかし、緯度と経度が示された場合には、遼人も含めて二回連続で、その場所で亡くなっているのだ。
 ……やはり、水木沙織を四人目のメンバーに迎えたのは、正解だったようだ。
 ヒントになったのは、遼人のケースだ。あのとき、いったいどんなアドバイスがあったら、脳腫瘍の遼人を救うことができるのだろうと、不思議だった。『こっくりさん』が、どんなに超越した存在だったとしても、落としどころは安楽死以外にないはずだと考えたのだ。
 そして、結果は、予想通りだった。
 要するに、こういうことになる。『こっくりさん』のロシアン・ルーレット・バージョンの必勝法は、言葉は悪いが生け贄にするため、救いようのない難病の患者をメンバーに入れるということなのだ。
 彼女には気の毒だが、これで助かった。何とか命が繫がったのだ。残りの三人には、現在の苦境を乗り切るための秘策が授けられるに違いない。
「おい、何ボーッとしてるんだ?」
 進一が、厳しい声で言う。
「ああ、悪かった。次は、進一だよな」
 今度は、御浄銭は、最初からスムーズに動いた。
 だが、指し示されたのは、予想外のお告げだった。
「え? また数字?」
 楓が、息を吞む。
 三、三、四、七、四……。
 緯度と経度だ。今度は都内ではないようだが、間違いない。
 いったい、どういうことだ? 進一もまた、死のカードを引いてしまったというのか?
 拓矢は、混乱した。だが、ここでようやく、牛窪さんの警告が真実味を帯びてきたことを、認めざるを得なかった。
 死のカードは、一枚とは限らない。今回、犠牲になるのは二人なのかもしれないのだ。
 もちろん、場所が指定されても、それが即、死刑宣告とは言えないだろう。そこへ行けば、何か人生を変えられるような出来事に出くわすのかもしれない。
 だが、今までの例から考えると、悲観的にならざるを得なかった。小学生のときは、内心、進一を何の取り柄もないと馬鹿にしていた。しかし、前回のお告げを受けてから、全身全霊で自殺の防止に取り組む様を見て、徐々に尊敬の念を抱くようになっていたのに。
 遼人に続いて、惜しいやつを亡くすことになるのか。
「やっぱり、ここへ行けってことだよなー」
 本人のショックは、やはり計り知れないようだ。
「もしも行かなかったら、どうなる? いや、それじゃ何の解決にもならない。わかってる。わかってはいるが、でも、もし」
 無限ループに入ったように思い悩んでいる姿は、一気に内気な小学生に戻ってしまったかのようだった。
「二人とも、そこへ行けば、きっと、何かいいことがあるんだよ」
 楓が、必死に笑顔を作って、沙織と進一を慰めた。
「楓の番だよ」
 拓矢が促すと、とたんに緊張した表情に変わり、御浄銭の上に震える指を載せた。拓矢も、そっと指を添える。沙織と進一も倣ったが、すでに心ここにあらずという様子だった。
 待っていたように、御浄銭が滑り出す。
「噓」
 楓が、喘あえいだ。またもや、数字が指し示される。
 四、一、三、二、七、七……。
 これも、やはり、緯度と経度だろう。今までとは違って最初が『四』なので、さらに離れた場所のようだが。
 拓矢は、次々に示される数字を凝視していた。いったい、何が起きているのだろうか。
 第一に考えられるのは、今回は、死のカードが三枚もある、大当たりの回だということだ。もしそうだったら、考えられないような不運だが、自分のことだけ考えれば、四分の三という鬼のような確率をくぐり抜けたことになり、逆にラッキーだったと言えるかもしれない。
 あるいは、それぞれの場所には、何か幸運の鍵のようなものが眠っている可能性もある。
 さらに考えれば、同じように緯度と経度を示されても、それぞれ吉凶が分かれているのかもしれない。ある者は眠るように亡くなるが、別の者は生きる希望を取り戻せるということも。その場合、自分がどちらなのかは、最後のぎりぎりまでわからないだろう。
「とにかく、ここへ行ってみるよ」
 お告げが終わると、楓は、吹っ切れたように明るく言った。
「どっちにしても、今のままより、ずっとマシだから」
 三人は、ようやく硬直から解けて、うなずき合った。憶測で一喜一憂してもしょうがないと思ったのか、それとも、安楽死であってもかまわないと開き直ったのか。
「最後は、言い出しっぺの拓矢ね」
 楓が、御浄銭を鳥居のマークの上に置き直して、拓矢が人差し指を載せた。三人が三方から指を添える。耐え難い緊張にさいなまれているのは、拓矢一人だけだった。
 さっき、安全ピンで指を深く刺しすぎたらしく、まだズキズキとうずいている。
 さあ、頼むぞ。せめて最後くらい、まともなお告げをくれよ。
 拓矢は、心の中で強く念じた。
 御浄銭は、まっしぐらに進んでいく。
 だが、拓矢が願ったのとは、微妙にずれた方向に。
「ええ? これって、どういうこと?」
 楓が、とんきような声を上げた。
 ……数字だ。
 拓矢は、がっくりと肩を落とした。心はすでに、半分折れかかっている。
 前回数字を与えられたのは、遼人と進一の二人だった。あとの二人には、難解な古語だが、日本語でお告げがあり、遼人を除き、抱えていた問題を見事に解決してくれた。
 今回も、てっきりそうなるとばかり思っていたのだが、まさか、予想を裏切り皆殺しにするつもりなのか?
 もしかしたらだが、この闇バージョンを二度行うのは、禁忌タブーだということはないだろうか。牛窪さんが生きていたら、絶対によせと止めていたのかもしれない。
 四、〇、六、〇、〇、〇……。
 楓のときと同じように、『四』から始まっている。やたらと『〇』が多いために、御浄銭が同じ場所をぐるぐる廻っているように見えるのも、眩暈めまいがするような不条理な感覚に、さらに拍車をかけていた。
「……全員、行くべき場所がわかったわ」
 最後のお告げが終わると、右手の人差し指を御浄銭に載せて、左手でスマホを操作していた沙織が言う。彼女の言葉を聴き取って、楓がメモしていた。
 十八年前とは違って、今では、グーグルマップに数字を打ち込むだけで四人に割り振られた目的地が瞬時にわかるのだ。
 沙織は、しぶの新国立劇場。
 進一は、四国カルストのてんこうげん
 楓は、おそれざんさいの河原。
 拓矢は、青森県市のつたななぬまだった。


2021年11月23日 火曜日 午後二時〇二分

 新幹線を降りたときは、ぬかあめが降っていたものの、ほとんど気にならないレベルだった。ところが、しんあおもり駅で借りたマツダ・ロードスターを運転していると、ミストのような雨滴で顔が冷たくなってきた。オープンカーのルーフを閉じたかったが、停車するのも面倒なので、拓矢はそのまま走り続ける。
「まだ着かないんですか?」
 沙織は、すっかり飽き飽きしたという声だった。
 あれから話し合った結果、四人同時に指定された地点に入ることになった。沙織は、朝から新国立劇場にほど近い喫茶店で待機していた。拓矢と楓が東北新幹線に乗っているときには、四人はラインのメッセージでやり取りをしていたが、拓矢がレンタカーを借りると、イヤホンマイクを使ったグループ通話に切り替えてもらっていた。
「こっちは、もう少しだ。予想通り、進一が一番時間がかかりそうだな」
「これでも、始発で出たんだ。どうやったって、これ以上急ぎようがない」
 高知県で同じくレンタカーを運転している進一が、ぼやいた。
「それより、そろそろ思い当たった? 今向かってる場所へ行く理由」
 拓矢と別れてタクシーに乗っている楓が、問いかける。
「さっぱり、わからない」
 拓矢は、正直に言う。
「まあ、絶景で有名な場所だし、一度行ってみたいとは思ってたけど、紅葉の見頃も終わってるしな」
「俺も、正直、全然見当がつかないな」と、進一。
「わたしは、最初から、見当がついてるんだけど」
 暇を持て余している沙織が、割り込んできた。
「バレエの公演に、かつての、わたしのライバルだったが出るのよ。まあ、技術も人気も、わたしの方がずっとあったけど。今ではもう、彼女がプリマと認めざるを得ないわね」
 抑えようもなく、悔しげな声になる。
「でも、どうして、そんな」
 楓が、口ごもる。あえて傷口に塩を塗るようなことをさせるのかと言いたいのだろう。
「たぶん、今の状態を見て、現実を受け入れろってことじゃないの?」
 沙織は、投げやりに言った。
「沙織さんのバレエ、一度、見てみたかったな」と楓。
「楓さんも、恐山へ行く理由はわかってるのよね?」
 沙織に問われて、楓は、またぐっと詰まった。
「わたしは……賽の河原だから。やっぱり、あの子に会いに行くためだと思う」
 あんまり追及してやるなよと、拓矢は思った。
「拓矢に、訊きたいことがあるんだけど」
 進一が、妙に神妙な声で訊ねる。こんなときには、よく答えに困るような質問が来るので、拓矢は少し警戒する。
「何だ?」
「遼人から、手紙を受け取ったって言ってただろう? 前回の『こっくりさん』のあと」
「ああ。死んだ日の昼前に投函したみたいだ」
「気になることが書いてあったって言ってたよな? 何だったんだ?」
「そうだな……」
 十八年ぶりにクローゼットの奥から取り出して、読み返してみたばかりだった。今さら特に秘密にすることもないだろう。
「手紙には、主に、『こっくりさん』の闇バージョンについての遼人の考察が書かれていた。あきらかに、ふつうの『こっくりさん』とは違っていただろう? 遼人は、あれからずっと、その違いがどこにあるのか考えていたみたいだ」
 三人は、静かに耳を傾けていた。
「だったら、そもそも、ふつうの『こっくりさん』というのは何だっていうことになるけど、トリックだとか、不随意筋の動きによるものだとか、科学的な説明はどうでもいい。問題は、何を呼び出そうとしているのかということなんだよ」
「……だって、キツネじゃないの?」
 楓が訊ねる。
「神社に行ったら、よくキツネの像が置いてあるじゃない」
「おいなさんのお使いだしな」と進一。
「漢字では、『狐狗狸さん』――キツネと、犬と、タヌキと書かれることが多いよな。だから、動物霊を呼んでいるように思われがちだが、あんまり関係ないみたいだ」
 初期には、コインではなく、おひつを三本の竹で支えたものを用いていたらしいが、お櫃が「こっくり、こっくりと傾く」様子から『こっくり』や『こっくりさん』と呼ぶようになったのだという。
「つまり、『狐狗狸さん』っていう漢字は、ただの当て字だ。ふつうの『こっくりさん』は、お手軽な儀式ありきで、何を呼び出すかさえあやふやなんだよ」
「だけどさ、ふつうの『こっくりさん』でさえ、何を呼び出しているのかわからないんなら、特別な『こっくりさん』がどうとか言ったって、意味なくないか?」
 画面を見なくても、進一が唇を尖とがらせている様子が目に見えるようだった。
「いや、遼人の意見では、それは逆なんだよ」
 いい年をした大人たちが、小学生の分析を有り難がって議論している様子は滑稽だろうが、自分の頭脳は未いまだに遼人のレベルには達していないと、拓矢は信じていた。
「闇バージョンの『こっくりさん』では、初めから、何を呼び出すのかはっきりとした狙いがあったんじゃないかな? そして、その謎を解く鍵は『こっくりさん』という呼び名にある。遼人は、そう考えていたみたいなんだ」
 しかし、その先が、いくら考えてもわからなかった。一部が変化した可能性も考え、遼人は手紙の中で実に様々な可能性を示していた。『こうさん』に始まって、『こくりようさん』(死者を悼む泣女)、『こつくりさん』(栗は慄と同じで、恐れるという意味らしい)、『こつくいれいさん』、『こくさん』など。しかし、どれも、いまいち嵌まらないようだ。
「わたしも、意見を言っていい?」
 沙織が、退屈しのぎのように入ってくる。
「どうぞ」
「ふつうの『こっくりさん』と一番違うのは、ロシアン・ルーレット・バージョンということでしょう? なぜ、そんなシステムになっているのかというところから、考えてみるべきじゃないのかな?」
「なぜ?」
 楓が、当惑したように訊き返す。
「だって、わたしたちは困ってて助けを求めてるんだから、ふつうにお告げをくれたらいいと思わない? どうして、誰かに犠牲を求めなきゃならないのかってこと」
「たしかに、ちょっと、悪意があるよな」
 進一がうなる。
「それなんだけど、俺は、そもそも、ロシアン・ルーレット・バージョンという別名に疑問を持っている」
 マツダ・ロードスターは、美しい木々に囲まれた国道103号を駆け抜けていった。まるでかるざわのような景色で、冷たいミストを含んだ空気は肺にさわやかだった。こんなに気分がいいのは、いつ以来だろう。
「……ロシアン・ルーレットみたいだっていうのは、坂本さんたちがやったときに立ち会った牛窪さんの感想にすぎない。実際のところ、何がどうなっているのかは誰も知らないんだよ。俺たちは、ルールすらわからずに、命がけのゲームをしているわけだ」
「死ぬのが一人とは限らないっていう話?」
 沙織が鋭い声になる。
「それもある。しかし、そもそもの前提が間違っていたとしたら、どうだろう? たとえば、お告げを得るのが目的じゃなかったとしたら?」
「ちょっと、何言ってるのかわからない」
 進一が、お笑い芸人のように突っ込んだ。
「俺にもわからないよ。……かなり近づいてきたな」
 それまではずっと一本道だったが、温泉旅館の看板と脇道が見えたので、拓矢は右折して、車を駐車場に停めた。
 スマホ画面で全員の顔を確認する。全員が、大きな不安とかすかな期待がない交ぜになった表情だった。
「ここからは、歩きだ」
 後は、GPSで確認しながら、告げられた場所に向かうだけだった。
「じゃあ、わたしも、そろそろ行こうかな」
 沙織が、立ち上がった。
「直前になったら、いったん止まってね? みんなで、足並みを揃えないと」
 楓が、思い詰めたように言う。彼女のバックを見ると、すでに恐山に来ているようだ。
「幸運を祈るよ。俺は、まだ少しかかるけど」
 進一は、素っ気ない口調で言ったが、心からそう願っているような気がした。
 こいつは、やっぱり、いいやつなんだ。拓矢は、小学生のときの自分の上から目線の評価を取り消したいような気分になっていた。
 拓矢は、『つたちようもり案内図』という案内板を眺めて、散策路を歩き出した。キャラバンのトレッキングシューズを履いてきたので、快適なハイキングになりそうだ。
 あいかわらず薄曇りで、はっきりしない天気だったが、森の中を延びる木道は真新しくて、歩いているだけで心が洗われるようだった。
 腕時計を見ると、三時を回ったところだった。冬至に近づき日の落ちるのが早まっており、十和田市の日の入りは午後四時十二分である。一応アウトドア用のヘッドライトも持ってきているが、できれば暗くなる前に決着を付けたい。
 沼めぐりの小道は、蔦七沼のうち、あかぬまを除く六つの沼を結んでいる。拓矢は、まっすぐに目的地であるつたぬまを目指した。
 紅葉シーズンが終わって中途半端な時間だし、新型コロナウイルスの影響もあるだろうが、ほかに誰一人観光客が歩いておらず、小道を独占できるのは、この上なくぜいたくな時間だった。拓矢は、枯れ葉に覆われたブナの林の中で、静かに深呼吸する。
 いったい自分は、何をくよくよしていたのだろうか。もうすぐ、生きるか死ぬかの瀬戸際に立つことになるが、もはや、それすらどうでもいいと思えてきた。
 小川に沿って歩いていると、ついに木立の切れ目が見えた。あの先が蔦沼だ。
 GPSで、目的地付近であることを確認する。
「着いたよ」
 スマホに向かってそう告げると、興奮した声で進一が応じる。
「俺も、石灰岩が見えてきた。そろそろ、天狗高原だ」
 楓の方は、落ち着いていた。
「わたしは、もう着いてるよ。沙織さんは、今頃もう、バレエを見てるはず」
「よし、じゃあ、行こうか」
 拓矢は、慎重に歩を進めていく。ぱっと目の前が開けて、蔦沼が現れた。木製の遊歩道は、一周が約1キロメートルある岸辺にも続いている。
 ブナ林はすでに落葉しているために、湖畔から見る景色も紅葉のシーズンと比べると寂しいものだろうが、森を映すみなは、吸い込まれそうに深い色をたたえている。
 拓矢は、遊歩道の上で立ち止まった。
 どうして、もっと早く来なかったのだろう。
 世界は、こんなに美しかったんだ。
 人生とは、この宇宙に生まれた一つの奇跡であり、真の意味でかけがえのないものなんだ。そのことを、もっと早く知りたかった。
「ここへ来なきゃならなかった理由が、やっとわかったよ」
 イヤホンに、進一の声が響く。それ以上、説明する必要はなかった。
「わたしも、そう。来てよかった」
 楓が、涙声で嘆息する。
「ああ、来てよかったな」と、拓矢も応じた。
 その後は三人とも無言だった。そのまま、どのくらいの時間が経過しただろうか。拓矢は、まだ陶酔の中で水辺に佇んでいた。
「みんな、聞いてる?」
 今度は、沙織の声が響く。
「バレエ、素晴らしかった。本当に。心の底から感動したの。涙が止まらなかった」
「よかったね」と楓。
「その後で、楽屋に行って、かつてのライバルに会ったの」
 沙織は、言葉を切った。
「彼女も、泣きながらハグしてくれたよ。わたしのことを、ずっと心配してくれてたみたい。わたし一人が心を閉ざして、勝手に絶望してたんだって、ようやくわかった」
「行ってよかったね」
 楓も、また泣いていた。
「うん。行ってよかった。みんな、本当にありがとう。もしも、『こっくりさん』に参加してなかったら、絶対、こんな気持ちになれなかった」
「でも、俺は、君に謝らなきゃならないことがある」
 拓矢は、深い溜め息をついた。どうしても、真実を告白せずにはいられなかった。
「俺は、君が、助かる見込みのない難病だって聞いたんだ。……それで」
「もう、いいの」
 沙織は、笑った。
「別に、病気は近藤さんのせいじゃないし、そのおかげで、わたしは救われたんだから」
「ありがとう。そう言ってくれると、気持ちが楽になる」
「俺もさ、本当に救われたよ」
 進一も、感極まった声になっていた。
「俺、さっき、死んだ親父に会ったんだ」
 三人とも、もはや、何を聞いても驚かなくなっていた。
「よかったな」
 拓矢は、心から言う。
「よかったね」
「そう。そのためだったのね」
「うん。親父は、自分だけ勝手に死んでしまってすまなかったって、謝ってくれた」
「そうなんだ」
「それで、俺がやってきたことは、無駄じゃなかったって。俺を心から誇りに思うって言ってくれたよ」
 進一は、声を上げて泣き始めた。
 拓矢は、天を仰いだ。何だかもう、思い残すことはないような気がする。
 目を閉じると、空気の色が変わったような気がした。
 再び目を開けたとき、世界は一変していた。
 そこには、真っ赤な夕日に照り映えた蔦沼があった。水面は赤く染まった森と山を映し出し、キラキラときらめいていた。
 もう、四時を回っている。日没の時刻に近づいているのだ。
 そして、ブナの林は……。
 すでに葉はすべて散っていたはずなのに、あたり一面、燃えるような紅葉だった。
 これは、いったい何なんだ。
 拓矢は、こうこつとしていた。
 この奇跡を眼前させているのは、神なのだろうか、それとも。
 そして、溶暗するように赤光は退しりぞき、あたりは闇に包まれていく。
 拓矢は、木道の上にゆっくりと腰を下ろした。どうしても、この場を立ち去りがたかった。周囲が真っ暗になっても、恐怖は微塵も感じない。ただ、このせいひつな時間が終わってほしくなかったのだ。
 ぼんやりと闇の奥を見つめていると、今まで見えなかった自分の心の底が、しだいに浮かび上がってくるような気がしていた。
 小雨の降る音。冷たいものが、ポツポツと首筋に落ちてくる。
 拓矢は立ち上がって、木の下で雨宿りをした。暗い森の中で、雨音が響いている。
 イヤホンから、声が聞こえてきた。
「どう? 来てよかっただろう?」
「うん。そうだな」
 答えた後で、拓矢は、その声が、進一のものでも、楓や沙織の声でもないことに気がついた。大人の男の声ではないが、女性の声でもない。
 声変わりする前の男の子の声。それは、まぎれもなく遼人の声だった。
「このままにしてもいいとは思ったんだけどさ、拓矢の性格だったら、謎が残ったままじゃ、安心して逝けないと思ったから」
 遼人は、世間話のように、のんびりとした調子で続ける。
「謎か……」
 拓矢は、うっすらと笑った。
「もう、どうでもいいような気がしてたけどな。だけどたしかに、何もわからないままじゃ、心残りかもしれない」
「そうだろう?」
 遼人は、笑った。
「じゃあ、教えてくれよ。『こっくりさん』の闇バージョンっていうのは、いったい何だったんだ?」
「そうだな。少なくとも、ロシアン・ルーレットみたく悪趣味なデスゲームじゃなかったよ。おまえが言ってたとおり、そもそもお告げを得るのが目的じゃなかったしな」
「やっぱり、そうだったのか」
 残念ながら、推理で正解にたどり着くことはできなかったが、少なくとも何かが違うという直感はまちがっていなかったようだ。
「すべては、『バクティ調布』から始まったんだ。あの、暗ーくて陰気なホスピスだよ」
「いったい、何があったんだ?」
「ひどいことさ」
 遼人は、悲しげに首を振った。
 そう。たしかに首を振ったのだ。イヤホンの中に響く声だけではなくて、まるで、遼人が、こつぜんとそばに現れたかのようだった。
 本当に見えているのかと言われれば、自信はなかった。だが、遼人の表情、たたずまいは、手を伸ばせば触れられそうなくらい、ありありと感じることができた。
「あれは、実態はホスピスなんかじゃなくて、金儲けのための装置で、ただのろうごくだった」
 遼人の声は、いつのまにか、イヤホンを通してではなく、じかに聞こえているかのように、生々しく響いていた。
「理事長だったのは、マルチ商法や霊感商法で一財産築いた男だった。巧みに甘言をろうして、まずは、身寄りのない孤立無援の患者たちを集めたんだよ。うるさいことを言ってくる家族や親戚はいないが、老後のことを考えて一生懸命に働いて、きちんと貯蓄もしてきた人たちを。そして、契約を交わすと、毎月銀行口座から金を吸い上げながら、飼い殺しにした」
「充分なケアは、与えていなかったってことか?」
「それだけじゃないよ。もっと、ずっとタチが悪い」
 遼人の亡霊は、溜め息をついた。
「あそこは、末期癌の患者を大勢受け入れてたんだ。苦痛は耐えられないほど強くなるのに、依存症になるからという名目で、誰一人として充分なモルヒネを投与してもらえず、みんな、ひどく苦しんでた」
「どうして……そんなことを?」
「昨日、野口って記者と話しただろう?」
「ああ」
 今さらだったが、揉み合いの挙げ句に死なせてしまったことに、後悔の念が湧き上がった。そういえば、難病の子供がいると言っていたな。恐喝をしていたことは褒められないものの、きっと無念だったことだろう。
「そのときに、聞いてるはずだよ。薬物を横流ししてた件」
「医療用麻薬は、高く売れるとか言ってたな」
「要するに、末期癌の患者らのために投与すべきモルヒネを売って、金にしてたわけ」
 拓矢は啞然とした。弁護士として、あくどい手口は数多く見聞きしてきたが、こんなひどい話は聞いたことがない。
「あの建物って、前近代的な精神病院のステレオタイプだっただろう? 泣こうがわめこうが、外からは聞こえない。入院患者を監禁するには、まさにうってつけだったんだ」
 そのときの402号室の様子が、目の前に浮かんだ。暗い夜空がスクリーンになった映画を見るような鮮明さで。
 苦しみ、疲弊し、しようすいしきった四人の老人がいる。ドアは内からは開かず、自殺を予防するためにガウンのひもさえ与えられていないので、首を吊ることもできない。
 ベッドに横たわり、いつ果てるともない苦痛に耐えるだけの、無意味で地獄のような時間。その中で一人が気力を振り絞り、懸命の努力で身を起こした。
「凶器になりそうな物はすべて取り上げられてたんだけど、洗濯物に付いていた安全ピンが、引き出しの中に残されてた。大きな安全ピンだったけど、さすがに、これで自殺はできない。すると、昔一度だけやった『こっくりさん』をしようと言い出した人がいたんだ」
 死の淵に面し、昔やった記憶がよみがえったらしかった。三人はベッドからい出したが、残る一人は、どうしても動けなかった。それで、三人はその老人のベッドの周りに集まって、安全ピンで指を突き刺し、シーツに血文字で、鳥居のマークと、カタカナの五十音、それに、〇から九までの数字を書いた。
「ちょっと待ってくれ。どうして、そこで『こっくりさん』になるんだよ? いくら何でも、唐突すぎるだろう?」
 女子中学生ならともかく、死を間近にした老人たちがやるものじゃない。
「そう思うのは、わかるよ。でも、最初にこれをやろうと言い出した老人が、苦しみの中で、ともすれば意識が飛びそうになりながらも、念仏のように一心に唱え続けていたのは、たった一つの言葉だったんだよ」
「何だよ、それ」
 拓矢の口調もまた、十八年前に戻ったようだった。
「『こっくり往生』。走馬灯のような記憶の中で、その言葉が、『こっくりさん』と結びついたんだよ」
 拓矢は、ポカンと口を開けた。
「彼らの祈りは、あまりにも必死で切実だった。そこに、『こっくりさん』という言霊の力が作用したことで、およそあり得ないような奇跡が起きたんだ」
「奇跡って? だいたい、『こっくり往生』って何のことなんだ?」
「これだけ時間があって、一度も辞書を引こうとは思わなかったのか? 『こっくり』という単語は、おおまかに四つの意味がある。①うなずくさま。②頭を前に垂れたり上げたりを繰り返して居眠りをするさま。また、その居眠り。『つい――する』。これが、ふつうの『こっくりさん』の由来だよな」
 遼人の声は、闇の中でふわふわと浮遊しているようだった。
「あと、③色などが、じみに落ち着いて上品なさま。食物にうまみがあって味わいが深いさま。④急に状態の変ずるさま。ぽっくり。――往生【こっくり往生】長わずらいもなく、突然死ぬこと。急死。頓死」
「いったい何の冗談だよ、それ? いくら、そういう意味があったからって……」
「一人の財布の中に、たまたま、福銭の五円玉があった。四人は、せ細った指をその福銭に載せて、全身全霊を傾けながら祈った。『こっくりさん、こっくりさん、我ら無力な者どもの切なる願いを、何卒、何卒お聞き届けください』って。悲痛な願いは聞き届けられた」
「何に? キツネの霊か?」
「ふつうのこっくりさんで現れるような、低級霊じゃない。この国を統べるよろずの神の、その一柱が呼応したんだよ」
 八百万の神? 一柱? あまりにも荒唐無稽で大時代すぎて、とても付いていけない。
「四人の願いが聞き届けられたしるしは、四度のつちおとだった」
 四度? 拓矢は、はっとした。十八年前は、建物が揺れるような轟音は一度しかなかった。だが、昨日は数回――たしかに、四度揺れたような気がする。
 あれは、『こっくり往生』させてもらえる人数ということだったのか?
「神託は、一人に三文字で、合計で十二文字しかなかったが、それを聞くだけでも、彼らには難行苦行で、体力の限界だった」
「どんなメッセージだったんだ?」
 遼人は、低い声で朗唱するように言う。
「コヨヒ、ナガキ、クゲン、ハテン」
 ……よい長きげん果てん。今晩、長い苦しみは終わるだろう。
「その晩、四人は眠るように亡くなった」
 四人もが同日に死亡したために、通報があって、警察の捜査が入ったものの、検視の結果、事件性は認められなかったという。だが、その過程でモルヒネの横流し疑惑が明るみに出て、担当の医師は逮捕された。医師は、刑務所で精神に異常を来して、医療刑務所へと送られた。その後満期出所し、民間の施設に入ったが、夜ごと想像を絶する恐怖に苛まれ続けて、今では完全な廃人と化しているらしい。
 理事長がどうなったのかは、遼人にもわからないらしかった。どこにも姿が見えないので、地獄に落ちて、想像を絶する責め苦を受け続けているのかもしれない。
「こうして、安らかな死を願う『こっくりさん』の闇バージョンの儀式が誕生した。俺たちがやった後も、何組かが試しているし、現在、闇から闇へと静かに増殖しつつある。日本には、死ぬことすらできずに苦しんでいる人々が、想像以上にたくさんいるようだな」
「つまり、こういうことか?」
 拓矢は、掠れた声で言う。
「俺たちは、苦境から抜け出すためのアドバイスを求めたいと思ってたのに、実は、安楽死を願う儀式に参加していたのか?」
 条件は、一回目から同じだ。誰一人、生き残れる保証などなかった。というより、全員が、ひたすら死を目指していたということになる。
「そのとおりだよ」
 遼人は、うっすらと笑っていた。
「『こっくり』って言葉を辞書で引いて、ひょっとしたら、そうじゃないかって思ったんだ。自信はあまりなかったけどな。俺は、安楽死を求めていた。だけど、一人じゃできないから、三人に付き合ってもらったんだ」
「ふざけんなよ! おまえは、俺たちをモルモット代わりにしたのか? だったら、あのとき全員死んでたとしても、おかしくなかったじゃないか?」
 拓矢の声音は、怒りに震えた。
「ああ。でも、もし死んだとしたら、そいつは安楽死に値する――それが一番幸せだって、『こっくりさん』が認めたことになる。ハッピーエンドじゃないか」
 遼人は、当然だろうという口調だった。
「それに、おまえだって、他人のことは言えないだろう? 脳腫瘍は、アドバイスなんかじゃどうにもならない。そう疑ってたのに、何も言わなかったよな? 沙織さんを入れたことも、彼女が生け贄になれば自分は助かるっていう、冷酷な計算の上だろう?」
 図星を指されて、一言も反論できない。
「……だったら、あのお告げは何だ?」
 拓矢は、うめいた。
「都市伝説の方は、願望が書かせたおとぎ話――噓っぱちだってわかってたよ。ロト6とか、まさか、そんな都合のいい話があるわけがないもんな。だけど、俺たちに対するアドバイスは何だったんだ? 楓には、『夜一夜御灯点せ』、俺には、『自ら裁き罪償へ』って」
「『こっくりさん』は、安楽死させてやるには値しないと思ったヤツには、冷たいんだよ」
 遼人は、びんしようするように言う。
「そういう人間には、自分で勝手にやれと言うだけなんだ。“Fuck-Yourself”って言ってるのと同じだな」
「ふ……ふざけんなよ! そんなわけないだろう? 俺は、あのアドバイスをもらったから、人生をやり直そうと決意したんだし、現にやり直したんだぞ」
「あ、それ、ただの誤解だから」
 遼人は、軽く応じる。
「小学生のときだったらともかく、まだ理解してないのか? 『自ら裁き』の意味。それとも、ふだん法律用語しか見てないから、かえって盲点に入っちゃったのかな?」
「え?」
「『自裁する』って言葉があるだろう? 『自決する』とほぼ同じ意味だよ。『自ら裁き』って、自分でけりをつけろ――つまり死ねってことだから」
「そんな」
 拓矢は、茫然としていた。
「進一に『完全自殺マニュアル』を薦めたのも、文字通り、参考にして死ねという意味だよ。ただし、楓だけは、ちょっと別だ。だって、あの状況で楓が死ぬんじゃ不公平すぎるもんな。どう考えたって悪いのはままちちと母親だから、やつらの方を焼き殺すのが妥当という託宣だったんだろう」
「……俺には、安らかに逝く資格もなかったというのか?」
「当然だろう? 本当は、あのホームレスがシンナーを吸っていることは百も承知だったじゃないか? おまえらは、ことの重大さをまったく認識しないで、燃え移って慌てふためいたら面白いぐらいに思って、笑い合ってたよな?」
 あざわらうような声が、拓矢のを打つ。
「やつらは、野口に酒を飲まされて、はした金を渡されただけで、おまえの発言をペラペラと喋ったみたいだな。それをバラすと脅されたから、かっとなって野口と揉み合いになったんだろう?」
 拓矢は、ぐっと詰まる。
「たしかに俺は、あのホームレスが日頃からよくシンナーを吸っていることを知っていたよ。テントの傍を通るとき、鼻につんとくる刺激臭がしたし、公園に来る人や、周辺の家の人たちから、白い目で見られていたのも知っていた。だから、先輩らに、嫌がらせをして追い出せば人助けになると言われて、そのまま信じてしまった」
 その点は、ただ慚愧するしかなかった。
「でも、まさにあのとき、シンナーを吸っていたかどうかなんて、外からはわからなかった。ましてや、死ぬなんて思ってもみなかったんだ」
「そういう可能性があったことは、認識できてただろう? それでもやったのは、おまえが、ホームレスを人間として見ていなかったからだよ」
「……そんなことは」
「そもそも、おまえ、あのホームレスの名前を覚えているのか? 今でも、人間じゃなくて、ホームレスっていう記号としか見てないじゃないか?」
 少年審判では何度も名前を目にしたし、聞かされていたはずだった。だが、今となっては、まったく思い出すことができなかった。
 悄然としている拓矢に、遼人は、一転して優しい声をかける。
「だけど、もうだいじょうぶだよ。おまえも充分に苦しんだから、やっと許されたみたいだ。これで、安らかに往生できるな」
 待ってくれと叫ぼうとするが、もう声が出なかった。
「三人は、もう、先に行ってるよ」
 真っ暗な湖畔の景色が、ライトアップしたように明るくなった。
 燃えるような朝日に紅葉が照り映えて、極楽浄土のような光景が眼前する。
 拓矢は、再び、陶然としていた。
 恐怖は心の片隅に押しやられ、ごん浄土の思いだけが胸を満たしている。
 そして、消灯するように、光が消えた。

(他の短編は、ぜひ本書でお楽しみください)


■ 書誌情報

書名:秋雨物語
著者:貴志 祐介
発売日:2024年10月25日
ISBNコード:9784041149300
定価:858円(本体780円+税)
ページ数:336ページ
判型:文庫判
レーベル:角川ホラー文庫
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322401000275/

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