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【書評】世間が与える愛の定義に飲み込まれない 自分なりの、自分たちなりの愛が――君嶋彼方『一番の恋人』レビュ―【評者:吉田大助】

※本記事は「小説 野性時代 第247号 2024年6月号」掲載の書評連載「物語は。」第125回(評者:吉田大助)を転載したものです。

 鍵を差し込んでも、なぜかちっとも回らない。自分の人生はいつも何かがうまく行かない、とかすかな絶望すら抱かせる家のドアを、内側から開けてくれる人がいる。その人は、恋人である。「おかえり、番ちゃん」。何気ないやり取りを通して主人公の内側に幸福感が広がっていく一ページ目で、いきなりグッと引き込まれた。心情描写に定評がある作家・君嶋彼方の第三作『一番の恋人』は、著者が初めて恋愛をど真ん中に据え置いて書かれた長編小説だ。
 主人公の名前は、道沢一番。二七歳の会社員で、就職を機に実家を出て一人暮らししている。会社の同僚との場面で明らかにされる描写によれば、誰もが認める高身長イケメンだ。週末はいつも、付き合って二年になる二歳年上の恋人・神崎千凪と一緒に過ごしている。そして、週に一度は必ずセックスをする。〈まるで快感に耐えているかのように、ぎゅっと目をつぶり唇を嚙み、僕の愛撫を受け入れる。その顔も声も反応も、何度目だっていつでも新鮮で、愛おしさは変わらない〉。ふたりは心だけでなく体もぴったり繫がっている、そう感じさせる印象的な描写だ。
 一番は、息子たちに「男らしさ」を要求する父と、物言わぬ母と、反発の態度を隠さない兄、という家族の中で育ってきた。「男らしさ」は、結婚して子供を作り一家の大黒柱になって……という将来設計にも関わる。千凪を家族に初めて紹介した日、父からのプレッシャーを感じた一番は、結婚してほしいと思いを伝えた。「こちらこそ、よろしくお願いします」。ところが、ふたりで迎えた翌朝、やはり結婚はできないと千凪に告げられる。「私、番ちゃんのこと、好きだよ。でも、愛してない。愛してると思ったことは、今までで一度もない」。その一言をきっかけに第二章が始まり、語り手が千凪へと替わる。以降、奇数章の語り手は一番で偶数章の語り手は千凪、という、男女バトンタッチ形式で物語は進んでいく。
 それぞれの語りを通して相手には知られていない人生の断片や秘めた内面が描かれるとともに、相手の章に登場していた描写が、全く異なる解釈で再登場することに驚く。例えば、先ほど引用した〈まるで快感に耐えているかのように〉という言葉が登場する場面で、千凪が耐えていたのは快感ではなく苦痛だった。実は、千凪はアロマンティック・アセクシャル(他人に恋愛感情も性的欲求も抱くことがない性質)だったのだ。そのことを伝えられた一番は、何を選ぶのか。千凪の選択は?
 作中にも言及がある通り、アロマンティック・アセクシャルを扱ったフィクションは幾つも存在するが、恋愛関係の入口でカミングアウトが行われる場合がほとんどだったのではないだろうか。二者間で性愛を含む恋愛関係が深く進行している状態でカミングアウトされる/するという本作の状況設定は、かつてまだ誰も言葉にしたことがない感情や思弁を、次々に記録することとなった。読者は自分の中にある結婚像、家族像にまつわる偏見や固定観念に気づき、他者への想像力の貧弱さに揺さぶられることだろう。そして、価値観のアップデートを促されるはずだ。そのような現象が、偏見を持たれる「当事者」である千凪の側にも起こる、という点が重要だ。「愛してると思ったことは、今までで一度もない」。その時の愛の一語は、世間が与えてくる愛の定義を無自覚に飲み込んだものではなかったか? そうではなくて、自分なりの、自分たちなりの愛があるのではないか。
 愛についてのパンチラインとなるような言葉をあえて何人もの登場人物に言わせることで、これこそがこの物語の結論で、これこそが愛の定義だ、と作中でジャッジしない姿勢に書き手のフェアネスを感じた。この一冊をきっかけに、語り出そうよ、語り合おうよ。愛を語る言葉の量と種類が増えれば、きっと世界はより良く、優しくなれる。作家が信じているであろうそのことを、読者も信じられるようになる。




書誌情報

書名:一番の恋人
著者:君嶋彼方
発売日:2024年05月31日
ISBNコード:9784041147900
定価:1,760円(本体1,600円+税)
総ページ数:256ページ
体裁:四六判並製 単行本
装丁:坂詰佳苗
写真:酒井貴弘
発行:KADOKAWA

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