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柴崎友香さんの『わたしがいなかった街で』を再読している。

再読と言えば、沢木耕太郎さん『世界は「使われなかった人生」であふれてる』(2001年11月発刊)。
「暮しの手帖」に連載されていた三十編の映画評をまとめたエッセイ集。
再読の回数はそう多くないが、何か引っかかることに出くわすと手に取ってランダムに開いたページを拾い読みしている。

「使われなかった人生」というフレーズは、今では、ぼくの肝に刻み込まれた思考のトリガーになっている。

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最初に登場する“はじめに”代りの<世界は「使われなかった人生」であふれてる>を見てみる。

そこには、沢木さんが“使われなかった人生”を選ばず、放浪の旅を選んだきっかけが書かれていて、そうか沢木さんは書くべくして『深夜特急』を書き、ぼくらに世界が途方もなく広く、おもしろいところだと教えてくれたんだな、と今さらながら納得させられる。
中でも好きなのが、亡くなった映画評論家の淀川長治さんとの対談のひとコマ。

―どのようなタイミングだったかは忘れてしまったが、無礼を承知でこんな  ことを訊ねた。淀川さんから映画を引いたら何が残るのですか、と。
 すると、淀川さんは、あんたやさしい顔してずいぶん残酷な質問をするね、と笑いながらこう答えてくれた。
「わたしから映画を引いたら、教師になりたかった、という夢が残るかな」
 

淀川さんのこの答えがとても好きだ。
涙が滲むほどに。

世界中のあらゆる映画と、その映画をつくる人たち、その映画が街にやって来るのを今日か、明日かと心待ちにしている人たち。
それらを生涯丸ごと愛していくと自らに誓ったひとの口から、使われなかった夢のかけらが静かにこぼれ落ち、カランっとひと鳴きする。


いつもの本屋巡りの際に、あっ、柴崎友香さんだと思って開いてみたら、はじめの二行にこう書かれていた。

―一九四五年の六月まで祖父が広島のあの橋のたもとにあったホテルでコックをしていたことをわたしが知ったときには、祖父はもう死んでいた。

主人公の祖父は広島に原子爆弾が投下される直前まで投下目標近くで働いていた。原爆は一九四五年八月六日、祖父がもう“いなかった街”に投下された。

柴崎さんは、この小説に登場する人たちがあの時その場所にいたら、その後の人生はどうなっていただろう?という疑問を抱えながら物語を進めていく。

夫と離婚し、世田谷区に引っ越してきた主人公・砂羽は、三十六歳の契約社員。ごくありふれた、と言えばいいのか、淡々と過ぎていく日々を当たり前のように受け入れている風に見えるのだが、夜になると第二次世界大戦ベトナム戦争ユーゴスラビア内戦などリアルなドキュメンタリー映像を繰り返し観ることが半ば習慣のようになっている。
残酷な場面が好き!という嗜好をもっている訳ではないことが、読み進むと判ってくる。

―レコーダーのカウンターを見ると、00:21:00を過ぎたところだった。この番組を見るのは二度目で、前に見たときも00:12:00のあたりでサラエヴォの銃撃が始まり、同じことが起こった。彼らは、わたしが見るたびに、死体になる。再生ボタンを押すたびに、また生きて、また死ぬ。この番組が制作された十五年前のイギリスでも、去年の錦糸町でも、今日ここでも、明日でも、繰り返された。  

こんな場面も。
カレーの下拵えを終え、タオルケットを干し、桃を剝いてテレビの前に座る砂羽が手に取ったのは「ベトナム戦争 これが戦場だ」というタイトル。
ヘリコプターからの攻撃で破壊されていく村、橋、森、田畑、また別の村が破壊されていく様子を繰り返し映し出される。

―爆弾が落ちてくることがわかっているのに、そのときにはすでに爆弾は投下されていて、誰も止めることができない。時間はあるのに取り消すことはできない。少しでも遠くへ逃げるか、なんとか物陰に隠れて、すでに決められていた破壊を見ることしかできない。
目撃した人は、考え続ける。もし、あれが発射されていなければ、もし、あの場所にいなければ、もし、戦争が起こらなければ。起こらなかったことについて考えるのは、難しい。

砂羽が見ている映像の世界は、砂羽の暮らす日常は、彼女がいなかった場所であり、使われなかった人生でもある。
彼女は夜毎自分のいなかった時空で起きていた惨劇を目撃する。
世田谷のマンションに暮らす砂羽と、機関銃掃射を浴びる砂羽を別けたものとは、一体何なのだろう?

あらためて思う。
砂羽とぼくが属している世界とは、いったい何なのだろう?
宇宙への飛翔を旅行事業化しようとしているこの瞬間に、機関銃で、爆弾で、手に握りしめたナイフで大勢の人が死んでいく。
夢の宇宙旅行は本当に美しい夢なのか。繰り返されてきた戦争や虐殺を消し去る未来は来るのか。

物語の後半、砂羽の知人の妹・夏が旅行先の高松から大阪への長距離バスで目撃した夕陽に染まる棚田と耕す老夫婦の姿にぼくらは救われる。

―わたしは、自分が今生きている世界のどこかに死ぬほど美しい瞬間や、長い人生の経験をかみしめて生きている人がいることを、少しでも知ることができるし、いつか、もしかしたら、そういう瞬間に辿り着くことがあるかもしれないと、思い続けることができる。なくてもいいから、絶対に、そう思い続けたい。

ぼくは、柴崎友香の『わたしがいなかった街で』を繰り返し読んでいる。

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