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“精神の腐食”のはじまりなのだ。

~人間はいかなることにも馴れる動物である~

ドストエフスキー自身の収容所での過酷な生活をもとにした小説『死の家の記録』に出てくる言葉だと、森本哲郎さんの『ことばへの旅』に教わった。


どんな理不尽、悲惨な情況に追いやられても、ひとは、やがてこれに馴れ、日常化する。
“生きる”には、そうするしかないから。
しかし、この状態が本当に“生きている”と言えるのだろうか。

森本さんは、それを“精神の腐食”と呼んだ。
こうした精神の腐食に対してどのように戦うのか。

― それは、「希望」によってなのです。
いつか新たな環境を手に入れることができる、という自由への希求です。

ドストエフスキーが描く主人公は馴れること、いずれ訪れる「希望」を夢想することで過酷な環境を生き抜ぬこうとする。

『ことばへの旅』を読んでいて出会ったのが『ハーレムの闘う本屋~ルイス・ミショーの生涯~』。これもおもしろい。


本屋のルイス・ミショーは、本を読む事で「希望」を希求するために<黒人が書いた、黒人につての本だけを売る本屋>をニューヨークのハーレムで始めた。世界恐慌の影響が色濃く残る1939年のこと。

この本は、彼を大叔父に持つ女性(姪孫:「てっそん」と言うらしいが、初耳)が、存命の親族、彼に関わりのあった人たちから聴き取った様々な証言で構成されている。
本人はとっくに亡くなっているので、彼の発言は姪孫がインタビューをもとに創作しているのだが、他の証言と挿絵、モノクロ写真が相まってなんだか絵本のページをめくる時のようにワクワクする。

本書を読み進めていて気になったのが「いわゆるニグロ」という表現。

― わたしは、「いわゆるニグロ」ではない。「いわゆる」とつけたのは、ニグロは物であって、人間ではないからだ。

― この言葉は作られた言葉だ。ニグロは、使われ、虐げられ、責められ、拒まれる「物」なのだ。それが、この街でのニグロの役割だ。そして、それを受け入れつづける黒人に未来はない。なぜなら、こうした「いわゆるニグロ」こそが、永続的な奴隷状態を助長してきたからだ。

ミショーはこの時代の黒人の苦境を、白人による抑圧と、黒人が自分は何者で、どんな価値を持っているのか知らないこと、知ろうとしないことが大きな要因なのだと言っている。

「物」であって「人間」ではない。
”馴れたまま自由を希求しない”同胞たち。

“差別”を受け入れ、あるいは目をつぶって白人社会で成功する、真っ当な暮らしを手に入れること。

そのどこが悪い?と問われても適切な解を持たないが、やはり、ドストエフスキーの「人間はいかなることにも慣れる動物である」に思いが至る。

幼い我が子に、今夜食べさせるものが無い。
そんな切ない思いを抱えるくらいなら、自分が何者か声高に叫ぶ前に綿花を摘んだ駄賃で豆を買う。
ぼくだって豆を買うため綿花を摘むだろう。

ルイス・ミショーが希求した時代は、今のところ見当たらない。

それでも、たった五冊の本と資金100ドルで始めた「ミショーの本屋」は35年に渡ってハーレムの黒人文化、思想、もっと端的に言えば“魂”の拠り所としての役割を果たしてきたことは、まぎれもない事実だ。

店先に脚立を引っ張り出して、その上に乗って演説をぶっていたのはマルコムXだし、朗読会を開いたのはぼくの大好きな黒人詩人、ラングストン・ヒューズ。モハメッド・アリもやって来たが、なぜかキング牧師は一度もサイン会を開いていない。

ある日、黒人の若者がやってきて、どうしたら、もっといい黒人になれるか学べる本は?と問うと、

「黒人らしさを本から学ぶなんてことは忘れろ。真の黒人になるには、生きて、呼吸して、
黒人でいるしかないんだ」

そう言って五冊の本を持たせて、若者がその本を理解できたら代金はいらない、なんてことを日常的にやっていたようだ。

マルコムXのこと。


「ミショーの本屋」:中央がマルコムX。右がルイス・ミショー。


札付きの悪(ワル)だった若者は、黒人解放運動の団体「ネーションズ・オブ・イスラム」で頭角を現し、団体を脱退し、誰もが知っているあの“マルコムX”になっていく。

「ミショーの本屋」に入り浸り、本を読み、演説原稿を書いてはミショーにチェックしてもらう。
過激な活動家として名をはせていた彼にとって、友が営む「本屋」はきっと“知の集積”以上に、こころの静寂を与えてくれるかけがえのない存在だったのではないだろうか。

1965年2月21日、演説会場にいたマルコムXは「ネーションズ・オブ・イスラム」のメンバーによって射殺される。
その日、ミショーも隣に座る予定だったが、子どものお迎えに手間取って不在だった。

団体を抜けたからというのが暗殺の理由とされているが、マルコムXが黒人解放運動の老舗「ネーションズ・オブ・イスラム」よりも有名になり、その発言に全米の注目が集まるようになったからだという説もある。嫉妬なのか、集金力の目減りを怖れたのか。

顧みて思うに、大震災にも、他国への侵略にも、パンデミックにも、かけがえのない存在の喪失にさえもいつか馴れ、今日を、明日を生きようとする。

ぼくは、今、三食昼寝付きの快適でなんの文句もない生活を送っていて、まことに有難い。
そんな日常に馴れてしまったぼくの“精神の腐食”は、もう手の施しようがないほど進行しているのではないか。

ぼくにとっての「希望」「自由への希求」とは、いったいどんなものだろう?


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