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物語は本の中だけにあるんじゃないんだな。

カバー・イラストに見入る夜。Etta Jamesを聴きながら最初のページをめくる。

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『チャリング・クロス街84番地』へレーン・ハンフ篇著/江藤淳訳


中公文庫のカバー・イラストがいい。誰かが、“さて、この本のカバーどうしようか?”なんて思案して、試案する。
手書きで、84,Charig Cross Road.
原書アンソニー・ホプキンスが出ている映画関連のデザインより、ぼくはこっちの方にぐっとくる。

Snarky puppyEtta Jamesにチェンジ。
タイトルの「チャリング・クロス街84番地」に添えて、
~書物を愛する人のための本~とある。

そして、こんな風に始まる。


マークス社御中

貴社では絶版本を専門に扱っておいでの由、『サタデー・レビュー』紙上の広告で拝見いたしました。
私は“古書”というとすぐ高いものを考えてしまうものですから、「古書専門店」という名前に少々おじけづいております。
私は貧乏作家で、古本好きなのですが、ほしい書物を当地で求めようといたしますと、非常に高価な稀覯本か、あるいは学生さんたちの書込みのある、バーンズ・アンド・ノーブル社版の手あかにまみれた古本しか手にはいらないのです。
今すぐにもほしい書籍のリストを同封いたします。
このリストに載っておりますもののうち、どの本でも結構ですから、よごれていない古書の在庫がございましたら、お送りくださいませんでしょうか。ただし、一冊につき五ドルを越えないものにしてください。
この手紙をもって注文書に代えさせていただきます。

かしこ

一九四九年十月五日
ニューヨーク 東九五丁目十四番地      へレーン・ハンフ(ミス)

イギリス ロンドン 西中央二 チャリング・クロス街八十四番地

マークス社 あて


これが、アメリカに住む貧乏作家、へレーン・ハンフとイギリスの古書専門店・マークス社の間で20年に及んだ往復書簡のはじまりの第一通。

第二次世界大戦が終結し、戦勝国においてもようやく復興がなされている困難な時代。
それでも「マークス社」は変わらず顧客の依頼を誠実に遂行する。

本書の解説を書かれた故・江藤淳さんによれば、へレーン・ハンフがリクエストする書籍がどれも英文学きわめつけの名作(サミュエル・ピープス『日記』、アイザック・ウォルトン『釣魚大全』やジョン・ダンら)ばかりで、彼女はいわばQ(クイラ=クーチ)の弟子なのだと推察している。
「マークス社」の担当者、フランク・ドエルは、さぞ心躍ったことだろう。

へレーン・ハンフは、書簡ばかりでなく食料なども「マークス社」に送って、物資不足のロンドンに住むスタッフたちにおおいに感謝されている。
いつか、彼女と「マークス社」スタッフの間柄は、顧客と古書専門店の関係から、大西洋を挟んだ得難い友人関係へと昇華されていく。

ごくありふれた日常と、リクエストした書籍確保の進捗、時にはへレーンのイギリス流のシニカルな催促(もちろん悪戯書きだが)などが書かれた手紙だけの20年。直接会ってもいないのに20年の間、途切れることなく続いたのだ。
なんて平凡で、なんてシンプルで、とてつもなく豊かな来し方だろう。

注文書を兼ねた往復書簡は、1969年10月で終わっている。
フランク・ドエルの突然の死によって。

本は凄いな。
物語は、本の中だけにあるんじゃないんだ。

ぼくの本棚には、辛うじて『釣魚大全』だけはある。

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